171.青いエアメール

青いエアメイル (Youtubeはこちら
作詞:松任谷由実
作曲:松任谷由実

青いエアメイルがポストに落ちたわ
雨がしみぬうちに急いでとりに行くわ
傘をほほでおさえ待ちきれずひらくと
くせのある文字がせつなすぎて歩けない

ときおり届いたこんなしらせさえ
やがてはとだえてしまうのかしら
けれどあなたがずっと好きだわ
時の流れに負けないの

冬は早く来る あなたの町の方が
最後に会ったときのコートを着ていますか
5年 いえ8年たってたずねたなら
声もかけれぬほど輝く人でいてほしい

選ばなかったから失うのだと
悲しい想いが胸をつらぬく
けれどあなたがずっと好きだわ
時の流れに負けないの

けれどあなたがずっと好きだわ
時の流れに負けないの

この曲が入っているユーミンの7枚目のアルバム「OLIVE」が発売された1979年夏、私は大学2年生、十代が終わろうとしていました。

薄紙の便箋と、赤と青の縁取りのついた青い封筒に、私は憧れていました。封筒には「PAR AVION」あるいは「BY AIR MAIL」などと印刷されていました。なぜ便箋や封筒が薄紙かというと、それは印刷の文字通り、航空便だったからなのです。船便ではなく、航空便。だから少しでも重さを減らすために薄紙だという、その理由にすら、私はときめきました。

成田空港が開港したのは、前年の1978年のことでした(078. 80年代航空事情)。1970年代、国際線は多くの人々にとってはまだまだ高嶺の花でした。そして青いエアメールは、その飛行機で運ばれてくるのでした。

私には青いエアメールを出す相手も、送ってくれる恋人もいなかったけれど、机の引出しを開けると、きっともうすぐ使うことになるはずの薄紙の便箋と青と赤の封筒がありました。外国、とりわけフランスに憧れを抱いて過ごした十代、そして二十代の前半は青いエアメールの封筒にまで心躍らせていました。

私が実際に頻繁にエアメールを出したり受け取ったりするようになったのは、1985年8月に1年間滞在する目的でフランスに行ってからのことでした。

◇ ◇ ◇

今年90歳になる母は、父が亡くなったあとこれまでひとり暮らしを続けてきましたが、いよいよ日常の家事をひとりでこなすことが難しくなり、この春に私の住まいから数分の有料老人ホームに引っ越してきました。

あれほど行きたくないと頑なに拒否していた老人ホームでしたが、実際に入居してみると、栄養バランスに配慮した三食が上げ膳据え膳で、お風呂は香り良いの檜風呂、その上、ネイルケア、フットマッサージ、百人一首、お習字、脳トレ、手芸の時間など盛りだくさんのプログラムがあって、週に一度私と外出してレストランや我が家で食事をする時間を調整するのに苦心するほどになりました。

施設長を始めスタッフの皆さんは、母も私も全面的に信頼のおける心根の優しい方々ばかりで、あっという間に母にとって居心地の良い空間になりました。入居者の方々も尊敬できる方ばかりだそうで、こんなに良い所ならもっと早くに来ればよかったとまで口にするようになりました。

最初の頃、私は母が老人ホームに拒否反応を示し、すぐにでも元の家に戻りたいと言うのではないかと心配して、月に二度ほど電車に乗って実家へ行き、空気の入れ替えや郵便物の整理などを行なっていましたが、もうすっかり今の老人ホームに馴染んだ母は、実家の維持は負担になるので売却すると言い出しました。

こうして売却手続きと共に実家の片付けが始まりました。今年に入ってもう何度実家に足を運んだか数え切れませんが、重要書類、家財、それに膨大なガラクタを片付けるのに体力を消耗しました。しかし、なにより時間を費やしたのは、大量の写真や手紙などの思い出の品々でした。

中でも、私にとって「玉手箱」のような存在だったのは、「青いエアメール」がたくさん詰まった二つの箱でした。

一つは私が帰国する際に、フランスの郵便局から日本に送り返した、黄色い「ゆうパック」のような箱でした。フランスにいる間に数多くの友人、知人、そして筆まめな父から受け取ったすべての郵便物が詰まっていました。何通あるのか正確には数えていませんが、ざっと500通ほどはありそうでした。

もう一つは、父がすべて受け取り順に番号を振って整理した、私が父宛てに出したエアメールの入った箱でした。全部で115通ありました。パリから、ニース・カンヌから、ノルマンジーから、あるいは、ロンドンやチューリッヒ、それにカイロから投函された絵葉書もありました。

恋人同士ならともかく、父親とこれほど多くの往復書簡があったとは、私自身、正直驚きました。前にも書きましたが、私は父親との関係をうまく築くことができず、幼い頃はともかく、ほとんどまともに会話した覚えがありません。

父が私のことを大切に思い、私の人生を応援してくれていたことは知っていました。しかし父は、私の些細な言動によく腹を立てては怒鳴りつけたり私に手をあげました。母はよく「磁石のプラスとプラスは反発し合うというけど、本当ね、あなたたちそっくりだから」と言っていました。

◇ ◇ ◇

絵葉書には、今から40年ほど前に撮影されたヨーロッパの街並みが印刷されていました。今では多くの都市の街並みが似通っていますが、写っている車も人々のファッションも地域性があり、眺めているだけで楽しいものです。

そして、数々のエアメールには、1985年から86年にかけての友人知人の暮らしの様子が克明に書かれていました。今も交際が続いている友人もいれば、年賀状だけの交流になってしまった友人・知人、それにすっかり音信が途絶えてしまって、もうどこでどんな暮らしをしているのか見当もつかない友人、密かに片想いしていた人、さらに、さっぱり誰だかわからない送り主も混ざっていました。

そして肝心のエアメールの内容ですが、驚くほど日常の出来事ばかりでした。転職しようかと思っているんだけれど迷っているとか、いよいよ結婚することになって新居探しをしているんだけれど駅に近いと家賃が高いとか、この前運転中に追突されて怪我はしなかったけれど警察を呼んで大変だったとか、せっかく禁煙に成功したのにまたタバコを吸ってしまったとか、子どもの夜泣きでこちらが泣きたいなど、1980年代半ばの20代の若者たちの日常生活が書かれていました。

私が大ファンだった立花隆の「宇宙からの帰還」がせっかく映画化されたのに、ひと足違いで見られなかった私のために二度見に行ってくれた日本の友人や、私がお薦めした映画「37°2 le matin」は、英国では「Betty Blue」というタイトルで上映していたと教えてくれたロンドンの友人や、今度パリから来るなら日本語書店に寄って、城山三郎の『官僚たちの夏』など本を数冊買ってきてくれというグルノーブルの友人など、当時の映画や書籍の情報もたくさんありました。

父はたくさんの新聞の切り抜きを送ってきてくれていました。青春時代を大阪で過ごした父は、1985年に阪神タイガースが日本一になったというスポーツ紙の記事を山ほど送ってきました。また1986年1月のスペースシャトルチャレンジャー号爆発事故の記事、5月にダイアナ妃が来日した際の白地に赤い水玉模様のワンピース姿で微笑んでいる写真付きの新聞記事など、当時の大ニュースから、女性も不動産を買う時代がやってきたなどという特集記事まで多種多様な記事を送ってきてくれていました。

またフランスで知り合ったのち、帰国した友人たちが送ってくれたクリスマスカードや書簡も数多くあり、米国、ドイツ、ベルギー、ポルトガル、シリア、韓国、台湾などからも珍しい切手や絵葉書で便りが届いていました。日本人の友人たちも世界各国に旅行して、米国のグランドキャニオンやインドのタジマハールの壮大な景色の写真や絵葉書を送ってきてくれました。1980年代に地球がググッと小さくなったように感じました。

当時は、友人との待ち合わせについて、詳細な場所と時間、それに不測の事態になった場合の緊急連絡方法など細かいやりとりがありました。携帯電話のない時代に外国の空港や駅で待ち合わせをするわけですから、会えない危険性もありましたが、思い返せば会えなかったことは一度もありませんでした。

多かった言い回しに、「返事を出したら入れ違いに手紙が届いたので、急いで追加の返信します」というのがありました。2022年の今日では、世界中の多くの人々はSNSやメールによってリアルタイムで連絡を取り合っていますから、この「入れ違い」という感覚は平成生まれの若者には理解されないことでしょう。しかし、なんでもない日常のあれこれを友人との共有していたいと感覚は今も昔も変わらないのだと改めて思いました。

これらの書簡を読み進める中で、そういえばこんなものがあったと思ったのは、「Aérogramme」とも呼ばれた「航空書簡」の存在でした。

航空書簡とは、A4ほどの大きさの青い紙にあらかじめ切手が印刷してあって、中に文章を書き、3つに折り畳んで糊代を貼り付ければ、世界各国に単一料金で送ることのできる便箋と封筒を兼ねた航空便のことでした。

箱の中のエアメールをみると、日本からフランスへの封書は170円からですが、航空書簡は120円で送れました。現在では90円だそうで、中に写真など軽いものは同封できるようになっているそうです。しかし今ではSNSなどに押されてあまり使われなくなっていることでしょう。

郵便料金といえば、私が受け取った数々のエアメールには、料金が500円を超えるものもたくさんありました。内容は日常の出来事に過ぎないのに、わざわざ速達便にしたり、便箋何枚もに綴られた大作のような書簡も少なくなかったのです。できるだけ速く、できるだけたくさんの情報を共有したいという当時の若者の気持ちが郵便料金にまで現れていました。

青いエアメールを読んでいると、驚くほど瞬時にあの時代にタイムスリップしてしまいます。浦島太郎は玉手箱を開けたら白髪のおじいさんになりましたが、私は肌も髪も艶々の20代に戻っていくようでした。

◇ ◇ ◇

戦前は航空便など贅沢品であり、そもそも移民を除けば外国に駐在したり留学したりしている人は稀でした。1964年に初めて観光目的の海外旅行が自由化されてからも、青いエアメールが人々の生活に浸透し始めたのはユーミンの歌が流行った1970年代の後半からだと思われます。

そしてWindows95の爆発的人気で一気にインターネットが普及し始め、1999年1月に i-modeが始まり、2000年代になって個人がケータイメール、そしてスマートフォンを操るようになると、もう青いエアメールで文通するという習慣は激減していったものと思われます。

青いエアメールは、70年代からゼロ年代にかけての、わずか30年〜40年の間にしか取り交わされなかったのかと思うと、もうまもなく「青いエアメール」という言葉自体が消滅してしまうのかもしれません。

それにしても、筆跡を見るだけで、あの頃の友人知人家族の顔や姿が目に浮かぶ手紙というものはいいものだと改めて思いました。


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