168.忘れ得ぬ流行歌

本稿は、2020年10月3日に掲載した記事の再録です

子ども向けの大ヒット曲というと、古くは「黒猫のタンゴ」(1969)から、「およげ!たいやきくん」(1975)、「山口さんちのツトム君」(1976)、「おどるポンポコリン」(1990)「だんご3兄弟」(1999)、それに「パプリカ」(2018)などが思い浮かびます。

けれども、実際に私自身が子どもだった頃の流行歌で、今も忘れることができない歌といえば、子ども向けどころか、どちらかと言えば子どもには聴かせたくない歌と言った方がふさわしいものばかりです。でも、だからこそ余計に記憶に残っているのかもしれません。

小学校に入学した1966年から中学校を卒業した1975年までの9年間で9曲、特に心に残った名曲(⁈)を厳選してみました。思い出と共にこれらの曲を振り返ってみたいと思います。

1. 骨まで愛して

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作詞:川内康範
作曲:北原じゅん
歌: 城卓矢

生きているかぎりは どこまでも
探しつづける 恋ねぐら
傷つきよごれた わたしでも
骨まで 骨まで
骨まで愛してほしいのよ (1番のみ)

昭和41年(1966年)この歌が発売された年、私は小学校に入学しました。小学生にとって「骨まで愛して」というのは強烈な印象だったようで、バスに乗って遠足に出かけた時、バスガイドさんが「さあ、みんなで歌を唄いましょう」と声をかけたら、突然、ひとりの男の子が大きな声で「♪ 骨まで〜、骨まで〜」と唄いだし、そのあとをクラス全員が声を揃えて「♪ 骨まで愛してほ〜しい〜の〜よ〜」と続けて大合唱になったことがありました。

当時の小学生に「骨まで愛するとはどういうことだと思いますか?」とたずねてみたくなりますが、私はといえば、この唄を聞くたびに骨をくわえた犬が浮かんでくるのでした。忘れられない名曲といいながら、実は「骨まで〜」のサビの部分しか記憶にありません。

2. 小指の思い出 

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作詞:有馬美恵子
作曲:鈴木淳
歌: 伊東ゆかり

あなたが噛んだ 小指が痛い
きのうの夜の 小指が痛い
そっとくちびるを 押しあてて
あなたのことを しのんでみるの
私をどうぞ ひとりにしてね
きのうの夜の 小指が痛い (1番のみ)

「骨まで愛して」ヒットの翌年、昭和42年(1967年)の2月に発売されたこの曲も「小指を噛む」という強烈な言葉で、子ども心をとらえました。ランドセルを背負って、みんなで「♪あなたが、噛んだ、小指が痛い〜」と大声で唄いながら学校から帰ってきたことを覚えています。

学校のそばの子から一人抜け、二人抜けして、仲良しのゆかちゃんと二人きりになったとき、一体なぜ、どういう状況で男の人が女の人の小指を噛むのだろうかと、二人で自分たちの小指を噛みながら話し合ったことも覚えています。

この曲は大ヒットして「第9回日本レコード大賞」歌唱賞を受賞し、二十歳の伊東ゆかりは紅白歌合戦にも出場しました。

3. 帰って来たヨッパライ

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作詞:フォーク・パロディー・ギャング
作曲:加藤和彦
歌: ザ・フォーク・パロディー・ギャング

おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ 天国に行っただ
長い階段を 雲の階段を
おらは登っただ ふらふらと
おらはよたよたと 登り続けただ
やっと天国の門についただ
天国よいとこ一度はおいで
酒はうまいし
ねえちゃんはきれいだ
ワーワーワッワー (1番のみ)

この曲が発売されたのは昭和42年(1967年)12月でしたが、大ヒットしたのは私が小学三年生の時でした。クラスの男の子たちは「♪ おらは死んじまっただ〜、♪ 天国よいとこ一度はおいで」と唄いながら、ホウキを振り回して給食のソースの蓋をホッケーの玉代わりにして遊んでいました。

この歌は、続く2番で「♪ おらが死んだのは、酔っぱらい運転で(効果音 ガッシャーン)おらは死んじまっただ」ということがわかり、天国のこわい神様に(歌の中にセリフがあり)『なあおまえ、天国ちゅうとこはそんなに甘いもんやおまへんのやもっとまじめにやれ』と言われ、天国を追い出され、雲の階段を踏み外し、目が覚めたら畑のど真ん中だったというオチで終わっています。このセリフも流行りました。

最後はお経に合わせた木魚の音が、いつの間にかエリーゼのためにに変わるという終わり方もとても印象に残っています。テープ録音の早回しという奇抜なアイデアで一世を風靡しました。

昭和40年代はテレビの歌謡番組は多くて、子どもはいつも大人の曲を口ずさみながら遊んでいました。「♪ 天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ」や、替え歌の「♪ 森トンカツ、湖ニンニク、囲ンニャク、まれてンプラ」という子どもたちの歌声が通学路に響いていました。

4. 伊勢佐木町ブルース

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作詞:川内康範
作曲:鈴木庸一
歌: 青江三奈

アァ アァ アァアァアァアァ
あなた知ってる 港ヨコハマ
街の並木に 潮風吹けば
花散る夜を 惜しむよに
伊勢佐木あたりに 灯がともる
恋と情の ドゥ ドゥビ ドゥビ
ドゥビ  ドゥビ  ドゥバ 灯がともる (1番のみ)

今となれば「妖艶な大人の色気」とでも表現したくなりますが、昭和43年(1968年)、この年小学三年生になった私には、金色に髪を染めたおばさんがラメのドレスを着て、いきなりハスキーボイスで「ア〜ン、ア〜ン」とため息をつきながら出てきたのは、大変な驚きでした。

世のお父さんたちは普段、髪を七三に分け、灰色の背広を着て、満員電車に揺られて真面目に働いているとばかり思っていたのに、真っ赤なマニュキュアをしたおばさんのため息にイチコロになっている様子を見て、子ども心に大人の世界への不信感が芽生えたような気がします。

けれども、今、大人になってから青江三奈の伊勢佐木町ブルースを改めて聴くと、二十代の彼女の可愛らしさ、若いお色気が微笑ましく感じられます。当時の大人たちも同じように目を細めて聴いていたのかもしれません。また独特の音階の曲も大変魅力的です。

クラスの男の子たちは、もちろん毎日「♪ タラッタ タラララン タラ ア〜ン、ア〜ン」と悶えていました。

しかしその肝心のため息も、当時NHKではこの曲の歌唱は「ため息抜きで」と条件をつけられ、年末の紅白歌合戦でもため息の部分は楽器でカバーしたのだそうです。(『昭和歌謡100名曲 part.2』塩澤実信著(2013)p.202-204)

5. 恋の奴隷 

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作詞:なかにし礼
作曲:鈴木邦彦
歌: 奥村チヨ

あなたと逢った その日から
恋の奴隷に なりました
あなたの膝に からみつく
小犬のように
だからいつも そばにおいてね
邪魔しないから
悪い時は どうぞぶってね
あなた好みの あなた好みの
女になりたい (1番のみ)

昭和44年(1969年)、初めてこの曲を聴いた時、私は小学四年生でした。歌詞の中の「悪い時は どうぞぶってね」に衝撃を受け、「あなた好みの 女になりたい」で二度目の衝撃を受けました。

男の人に小指を噛まれたり、ぶたれたり、恋する女の人はたまったものではないと幼心にも思ったものでした。

その上「あなた好みの女になりたい」だなんて、本当にそんな風に思っている女の人は現実にいるのかしらと思ったり、男の人の願望を女の人に押しつけているだけじゃないのかと、わずか十歳でも感じていたのでした。

奥村チヨは実にコケティッシュで、小学生の私から見てもなんて可愛いらしい人なのかしらと思っていましたが、ずっと大人になってからテレビのインタビュー番組で、彼女は「こんな歌なんて唄いたくない」と随分抵抗したけれど、結局歌うことになってしまったと語っているのを見たことがあります。

「だって、あんなのイヤじゃないですか」と彼女が言った時、子どもの頃にどこかで感じていた違和感は、彼女が「あんな女の人」じゃなかったからだったとわかり、妙に納得しました。


6. 走れコータロー

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作詞:池田謙吉
作曲:前田伸夫・池田謙吉
歌: ソルティー・シュガー

これから始まる 大レース
ひしめきあって いななくは
天下のサラブレッド 四才馬
今日はダービー めでたいな

走れ走れ コウタロー
本命穴馬 かきわけて
走れ走れ コウタロー
追いつけ追いこせ引っこぬけ (1番のみ)

昭和45年(1970年)私は小学五年生。親や先生は、ちゃんと勉強して真面目な大人になるようにと常々子どもたちに言い聞かせていましたが、この歌の大ヒットは「え? こんなに大勢の人が競馬に興味を持ってるの? 競馬ってやっちゃいけない賭け事じゃなかったの?」と、私は突然世の中の理(ことわり)に開眼したのでした。

この歌のおもしろさは、何と言っても途中のセリフにありました。早口で一気に捲し立てるような競馬の実況中継風のセリフは、クラスの男の子たちが競って真似をしていました。

「エーこのたび、公営ギャンブルを、どのように廃止するか、という問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日の第4レース、本命はホタルノヒカリ、穴馬はアッと驚く大三元という結論に達したのであります。各馬ゲートインから一斉にスタート。第2コーナーをまわったところで、先頭は予想どおりホタルノヒカリ。さらに各馬一団となって、タメゴロー、ヒカルゲンジ、リンシャンカイホー、メンタンピンドライチ、コイコイ、ソルティーシュガー、オッペケペ、コウタローとつづいております。第3コーナーをまわって第4コーナーにかかったところで、先頭は予想どおりホタルノヒカリ、あっ、コウタローは大きくぐっとあいて。さあ、最後の直線コースに入った。あっ、コウタローがぐんぐん出て来た。コウタロー速い。コウタロー速い。トップのホタルノヒカリけんめいのしっ走。これをコウタローがひっ死に追っかける。コウタローが追いつくか、ホタルノヒカリが逃げきるか。コウタローかホタルノヒカリ、ホタルノヒカリかマドノユキ、あけてぞけさは別れゆく」

この歌の語り手(?)が「ここでおまえが負けたなら、おいらの生活ままならぬ」と手に汗を握りしめている中、コータローはいならぶ名馬をコボウ抜きしてトップに躍り出て、ついでに騎手まで振り落としながら走り続けてこの歌は終わります。この曲は100万枚近い大ヒットとなり、ソルティー・シュガーは1970年の第12回日本レコード大賞新人賞を受賞しました。

ある日、家族で車で窓を開けながら走っていたら、隣の車の開けた窓からこの曲が大音量で流れてきて、まるでコウタローのように私の乗った車を追い抜いていったのが今も忘れられない思い出です。


7. 女のみち

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作詞:宮史郎
作曲:並木ひろし
歌: 宮史郎とぴんからトリオ

私がささげた その人に
あなただけよと すがって泣いた
うぶな私が いけないの
二度としないわ 恋なんか
これが女の みちならば (1番のみ)

初めて聞いた時「なんじゃ、こりゃ〜!」というのが正直な感想で、いたたまれないというか、聞いているこちらの方が恥ずかしくなりました。この曲がテレビから流れるたびに、つまりぴんからトリオのチョビ髭が画面に映るたびに、私は急いでテレビを消して世を儚(はかな)んでいました。しかしなにしろ街じゅうにこの曲は流れていて、とても逃げ切れるものではありませんでした。

昭和47年(1972年)5月、私が中学に入学した春に発売されたこの曲は、1972年、1973年のオリコン年間シングル売り上げ枚数で二年連続で第一位を記録する大ヒットとなりました。

「発売されるや爆発的な人気で注文が殺到、プレスが間に合わないほどだった。そして歌手が悲願とする百万枚は軽く突破して、二百万、三百万枚と想像を超えた枚数を重ね、最終的には三百二十万枚という大化けをした」ほどの大ヒットになりました。(塩澤実信著『昭和歌謡100名曲』(2012)p.222 より)

1972年のヒット曲といえば、吉田拓郎の「旅の宿」「結婚しようよ」や青い三角定規の「太陽がくれた季節」などのフォークソングや、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」「京のにわか雨」、天地真理の「ひとりじゃないの」「虹をわたって」などのポップスが流行っていたというのに、「時代錯誤的な女性像を、どぎついダミ声唱法で歌った」(塩澤実信著『昭和の流行歌 物語』(2011)p.304より)この曲は、記録的な大ヒットとなったのでした。

「社会が選んで進んでいる方向と、男の本心との間には大きなズレがあるということの証明のようなヒット」と作詞家の阿久悠はこの異常現象を評価したそうです。(塩澤実信著『昭和歌謡100名曲』(2012)p.222 より)

さらに、翌年の昭和48年(1973年)11月には、この曲とほとんど区別のつかない「なみだの操」が発売されました。殿様キングスが唱い、こちらも二百万枚を越す大ヒットとなりました。実は私は今回この稿を書くまで、このふたつの曲の区別がついていなくて「ぴんからトリオのなみだの操」と検索していたほどです。すごい時代でした。


8. 円山・花町・母の町

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作詞:神坂薫
作曲:浜圭介
歌: 三善英史

母にはなれても 妻にはなれず
小さな僕を 抱きしめて
明日におびえる 細い腕
円山 花町 母さんの
涙がしみた 日陰町 (1番のみ)

昭和48年(1973年)2月、私がまもなく中学二年生になる時に発売されました。前年の1972年にデビュー曲「雨」が大ヒットした三善英史のこの曲を聞いた時、私の中にムクムクと「日陰の女」の存在を「是」とする世の中に対する静かな怒りが湧き上がりました。

宇野内閣が就任三日後に、「指三本で自分の愛人にならないか」と神楽坂の芸者に持ちかけたという「芸者スキャンダル」がサンデー毎日によって公になり、翌月には退任せざるをえなくなったのは、随分後の平成元年(1989年)のことですが、昭和の時代までは成功した政治家や実業家が、芸妓や水商売の女性を愛人として囲うのは「男の甲斐性」とされていました。(指三本とは、三十万円を意味するといわれたものでした)

歌の中の「小さな僕」のような非嫡出子の存在は、法律のもとですら差別を受けており、相続分は嫡出子の半分と定められていました。民法が一部改正されて嫡出でない子の相続分が嫡出子と同等になるのは、平成25年(2013年)12月まで待たなければなりませんでした。


9. 昭和枯れすゝき

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作詞:山田孝雄
作曲:むつひろし
歌: さくらと一郎

(男)貧しさに負けた (女)いえ世間に負けた
(男女)この街も追われた
いっそきれいに死のうか
力の限り 生きたから
未練などないわ
花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき(1番のみ)

この曲は「強烈」でした。テレビを消すどころか、逆に画面に食いいるように見入ってしまうほどでした。昭和49年(1974年)私は中学三年生になっていました。

確か休みの日に、パジャマを着たままテレビをぼんやり眺めていてこの曲に出逢ったのですが、デュエットが歌い上げるサビの部分「力の限り生きたから未練などないわ」という部分を聞いた時、「この歌の主人公は、死んでも未練がないほど『力の限り生きた』のか」と思い、自分のたるんだ生活をしみじみと反省したことをよく覚えています。どんなお説教よりも心に響きました。

今日の世相はよくバブル経済期と比較されますが、私の六十年余りの人生で一番変動を感じたのは、バブル経済期よりも田中角栄の「日本列島改造論」と「石油ショック」のダブルパンチで狂乱物価を招いた1970年代前半であったと思います。地方から都市部への人口流入は激しく、これまでの価値観が音を立てて崩れていくような時代でした。

この曲も150万枚を売り上げ、1975年オリコン年間ヒットチャート1位を記録し、第8回日本有線放送大賞を受賞しました。

◇ ◇ ◇

こうして忘れらない名曲(⁈)の数々を振り返ってみると、子どもたちは大人の世界の本質を敏感にとらえていたように思います。私自身は、夢や憧れを歌った曲よりも、身も蓋もない現実を歌った曲や、下心満載の男の欲望を歌った曲の方が心に残ったようです。

私にとっての忘れ得ぬ流行歌とは、学校の先生や親が子どもに歌わせたい「子どもらしい歌」ではなく「大人の本音をさらけ出した歌」ばかりでした。


<再録にあたって>
昭和40年代(1965〜74年)の通学路には、流行歌を合唱する子どもたちの歌声が響いていましたが、令和の通学路はどんな様子なのでしょうか。平成の子どもたち、令和の子どもたちが大人になった時、どんな曲が心に残っているのか聞いてみたいものです。


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