154.ブランコと選挙

本稿は、2020年7月11日に掲載した記事の再録です。

「選挙」という言葉を聞くと私は決まって思い出す光景があります。それは小学校低学年の頃の出来事なのですが、オテンバな私はブランコで思いっきり立ち漕ぎをしていたら、ブランコの一番上の、鎖のフックが噛み合った部分が外れてしまい、鎖を持ったまま宙に投げ出されてしまったのです。

その時スローモーションで脳裏に焼き付けられた光景は今も鮮明で、生涯忘れることはないと思います。周りのお友だちがどんどん小さくなって、ブランコの柵や植込みまでも小さくなっていきました。

◇ ◇ ◇

その日は選挙の投票日でした。国政選挙だったのか市議会議員の選挙だったかはわかりませんが、その日、私の両親も近所の人たちも、朝から「今日は選挙だ、投票日だ」となんとなく浮き足立っていました。

近所人たちみんなで連れ立って歩いて十分程の投票所に行くことになり「パパやママが帰ってくるまで、みんなでこの公園で遊んでいなさい」と、私たち子どもはひとまとめにされ、公園で集団お留守番ということになりました。十四、五人、もしかすると二十人近くの子どもがいました。

1966、7年(昭和41、2年)、私が住んでいた東京郊外の新興住宅地で、近所の人たちが連れ立って投票所に行ったというのは今では信じられないような話ですが、当時三、四十代だった私の親世代は、みんな揃って投票に出かけて行きました。残された子どもの数から推測すると、十家族くらいが共に出掛けて行ったと思われます。

というのは、ブランコの鎖が外れてしまった私は宙高く舞い上がり、そして万有引力の法則に従って地面に叩きつけられたのですが、大人たちが全員投票所に行ってしまっていて、助けを呼ぶに呼べない状況だったことをよく覚えているからです。

私は全身をしこたま打ち、鼻血も出ましたが、意識を失うことはありませんでした。しかし全身打撲状態で起き上がれずにいると、周りの子たちの中の何人かが親を呼びに投票所まで走って行ってくれました。

しばらくして足の速い子のお父さんがものすごい勢いで助けに来てくれて、私の様子をみるとそれほど大したことがないと判断したのか、日曜日で病院もしまっていたので、私を両腕で抱きかかえて家まで連れていってくれることになりました。私の両親がいつ来たのか、それからどうなったのかは記憶がそこで途切れていてわかりません。

子どもの頃遊んでいて誰かが怪我をした時には、自分たちの手に負えないと判断すると走っていって大人を呼びにいきました。あの頃は大抵大人が通りで落ち葉を掃いていたり、焚き火をしたり、立ち話をしていたりしましたから、少し大声で助けを呼べば、誰の親かには関係なく、とにかく地域の大人がすぐに助けに来てくれました。

あの日、私がブランコから落ちた時には、大人たちは全員選挙に出かけていて近隣の住宅地には子どもたちしかいなかったということだけは確かでした。

◇ ◇ ◇

ブランコのエピソードのおかげで、あの日の投票日は忘れられない思い出になりました。それにしても、あの頃の選挙に対する人々の思いは、今とはかなり違っていたと思います。

なんと言ってもそれは投票率に現れています。衆議院議員・参議院議員の国政選挙の投票率(推移のグラフはこちら)もさることながら、身近な市区町村議会議員選挙の投票率(推移のグラフはこちら)に至っては、見事なまでの右肩下がりの一直線です。

昭和26年(1951年)第二回目の統一地方選挙において市区町村議会議員選挙の投票率は91%を超えていましたが、平成31年(2019年)第十九回目の投票率はほぼ半分の45%台となりました。

これはどのように解釈したら良いのでしょうか。戦後七十年余りで人々は民主主義に失望してしまったのでしょうか。あるいは政治などどうでもいいと思えるほどの暮らしを手に入れたのでしょうか。それとももっと別の理由があるのでしょうか。

私がブランコから落ちた1966、7年頃は、「もはや『戦後』ではない」の経済白書が発表された1956年から十年という時代でした。そして女性が投票できるようになってまだ二十年も経っていない時代でした。

最近あまり見聞きしなくなりましたが、私が子どもの頃は「清き一票」という言葉をよく耳にしました。私の両親は、選挙で誰に投票したのかは家族にも友人にも秘密で、誰に遠慮することなく自分の意思だけで投票するものだと言っていました。

この手で候補者の名前を記入して、自らの代表を議会に送り出すことがいかに尊く大切なことであるか、私は子どもながら感じていたように思います。投票とはなんだか崇高な行為のようでした。

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私の記憶にある最初の政治の風景は、自由民主党が政権を担い、日本社会党、公明党、民社党、日本共産党の四党が野党だというものでした。アメリカやイギリスには二大政党があって、日本も将来そうありたいという言説もありましたが、五十五年体制と呼ばれる状態が長く続きました。

私が小学校低学年の頃は、社会全体も1970年安保に向かう時代で、社会変革をこの手でと思っていた人々も、より豊かな生活を求めて社会の安定をと思っていた人々もいずれも多かったのではないでしょうか。

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私が落ちたブランコは、しばらくの間上部のバーにグルグル巻きにされていて、四つあるブランコのうち三つしか使えない日が続きました。あの頃は公園の管理も問題にされなかったのか、大した怪我がなくて良かったねということで済まされていたように思います。ブランコはしばらくして修理されて、私もまたみんなと一緒に元気に遊べるようになりました。

私の感覚では十メートル以上も空を飛んで、ブランコの柵など遥かに通り越していたはずなのに、実際には柵の手前に落下していたというのが今も解せない疑問です。


<再録にあたって>
昨日、元首相が銃撃事件で命を奪われるという衝撃的なニュースが世界を駆け巡りました。明日は第26回参議院議員選挙の投票日です。選挙結果も選挙の投票率も大いに気になるところです。



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