206.七夕祭と傷痍軍人

本稿は、2021年7月3日に掲載した記事の再録です。

私が両親に手を引かれて平塚の七夕まつりに連れていってもらったのは、昭和37年(1962年)の夏のことでした。私にはちょうど三歳違いの弟がいるのですが、弟はまだ生まれていませんでした。私はまもなく三歳になるところでした。

例年大勢の見物客で賑わう平塚の七夕まつりですが、今年は昨年に引き続き通常開催は中止となり、開催方法を見直し、大幅に縮小して実施されることになりました。湘南ひらつか七夕まつり2021のサイトを見ると、地元の方々がどれほど楽しみにしておられたのかが伝わってきます。関係者の皆様のお気持ちを思うと、二年続けてこのような決断はさぞ苦渋の選択だったことと拝察します。

今年の「湘南ひらつか七夕まつり2021」は、湘南スターモールなど中心商店街での交通規制は実施せず、大型飾りやパレード、露店出店等は行わないものの、7月1日~30日を中心に、七夕の雰囲気を感じる装飾などが平塚駅北口中心商店街ほか各所で実施されるようです。

平塚市ホームページには「七夕まつりのあゆみ」として次のような説明が書かれています。

平塚は海軍火薬廠があったことから昭和20年7月の大空襲で壊滅的打撃を受け、当時の中心市街地の約70%が焼け野原と化してしまいました。しかし復興は早く、「戦災復興五ヶ年計画」も一段落した昭和25年7月平塚復興祭が開催されました。そして、ちょうどこの時期が近隣農家の野上りの時期とも重なり非常に多くの人出を見ました。
 そこで、平塚商工会議所、平塚市商店街連合会が中心となって昭和26年7月に仙台の七夕まつりを範とし、平塚商人のたくましい心意気を吹き込んだ第1回七夕まつりを行いました。
 昭和27年と昭和28年には「平塚七夕音頭」「紅谷町音頭」「平塚恋しや」が発表され七夕まつりに色を添えました。
 そして、昭和32年の第7回七夕まつりからは、平塚市の主催となり、諸産業発展を願い、また平塚を広く全国に紹介する場として重要な役割を果たしており、今日では、日本を代表する七夕まつりに成長しました。
平成23年の第61回七夕まつりからは、実行委員会の主催となり、市民参加型のまつりとして更なる発展をしています。

平塚市ホームページ「七夕まつりのあゆみ」より抜粋

昭和26年(1951年)の第1回七夕まつりはのべ10万人の人出で始まり、翌年の第2回目にはのべ13万人、第3回目にはのべ20万人と増えていき、昭和37年(1962年)の人出はのべ160万人となり、昭和38年(1963年)の人出は、遂にのべ200万人となっていきました。

「平塚七夕まつり竹飾りが仙台七夕に比肩されるようになったり(1961年)、国際色を増してきた七夕まつりには、各国の外交官や在日米軍首脳が来日したほか米国の高校生も多数見物に訪れたり(1962年)、国道筋約1kmに303本の竹飾りが掲出されたり(1963年)」したのはこの頃のことです。

◇ ◇ ◇

その日、幼い私は両親に連れられて平塚の町へ出かけました。私の家族は昭和36年(1961年)に、父の転勤で大阪から東京の郊外にやってきたばかりでした。両親は、仙台の七夕まつりにも並び称されるようになった平塚の七夕まつりを是非見てみたいと思ったのでしょう。

私は手を引かれれば、ようやく一人でそれなりの距離が歩けるような子どもでした。両親はきれいな飾りを見せれば私が幼いながら喜ぶと思って連れてきたのでしょう。

頭上には色とりどりの七夕飾りが風にひるがえって、それはそれは美しい光景でした。キラキラと輝くプラスチックの飾りを見たり、頭上にいくつも垂れ下がっている、向こうが透けて見える網目のついた飾りを触りたいという欲求を思い出します。

ところがなにかの拍子で、その七夕まつりの道の両側には、戦争で手足や眼球を失った傷痍軍人が白装束でずらりと並び、アコーディオンやバイオリンを弾いていたのを目にしたのでした。黒メガネ(サングラス)をかけている人も大勢いました。私の目に映っただけで少なくとも百人はいたでしょう。今日とは違い粗末な義手や義足をつけたりつけなかったりして、もの哀しい曲を奏でていました。

昭和37年の七夕まつりは終戦から17年も経っていませんでした。2011年9月11日の米国同時多発テロによって世界貿易センタービルが崩れ落ちた時から今年で20年ですから、それよりも短い年月しか流れていませんでした。あの頃はまだまだ人々の暮らしの中に、戦争の傷痕は深く残っていました。

傷痍軍人を見ると、私は突然大声で泣き叫んだのだそうです。私は自分自身が泣き叫んだという記憶はないのですが、あの幾つかの光景は、まぶたの裏にしっかりと焼き付いており、半世紀以上経った今も忘れることはできません。私の人生における最初の記憶のひとつです。

私がよほど泣き叫んだせいか、両親はひきつけでも起こしたら大変だと思い、七夕まつりの人混みから離れて幼い私を落ち着かせようとしたそうです。けれども私はいつまで経ってもまったく泣き止まず、このまま泣き死んでしまうかもしれないと本気で心配するほどのことだったといいます。

◇ ◇ ◇

実は私はかなり大人になるまで、「平塚」という地名や「七夕」という言葉を見たり聞いたりするだけで、全身が硬直するほど反応し続けました。専門家に診てもらったことがあるわけではありませんが、見渡す限りずらりと並んだ白装束の傷痍軍人を目にし、あのもの哀しい曲を耳にして、幼い私はよほどのショックを受けたのだと思います。

おそらく、まだ物心もついたかつかないかわからない小さな子どもには、戦場の悲惨さがダイレクトに伝わったのでしょう。

母は、私が成長していく過程で、傷痍軍人とは戦争に行って大怪我を負い、しかも満足な補償もなく、日々の暮らしをあのような曲を演奏して暮らしていかざるを得ない人々だと説明しました。私はそのような説明を聞き、傷痍軍人のことをとても気の毒に思い、一体自分に何ができるだろうと考えました。しかし、そのように頭で考えていることと、受けたショックは別でした。

私の記憶が始まる昭和30年代後半、親に連れて行ってもらった新宿の駅前や伊勢丹の角、また地元の駅前でも一人、二人、あるいは数人の傷痍軍人が街角に立って、アコーディオンを弾いている姿が記憶に残っています。

しかし、あれだけ大勢の傷痍軍人が一堂に会するのを見たのはあの日だけでした。おそらくのべ160万人も集まる大きなお祭りだからと、県内全域や東京や近県からもわざわざ足を運んだ方々もおられたのかもしれません。

◇ ◇ ◇

傷痍軍人について、私は学校などで正式に学んだことはありません。実は今回この稿を書くまで、今では傷痍軍人という呼び方はせず、戦傷病者と呼ぶようになっていることさえ知りませんでした。

2014年、今から約6年前に、NHKのETV特集では「戦傷病者の長い戦後」と題した番組が放送された際、傷痍軍人については次のように紹介しています。

ETV特集「戦傷病者の長い戦後」
日中戦争・太平洋戦争で負傷し傷害を負った元兵士たちでつくる日本傷痍軍人会が2013年秋に解散した。かつて35万人を数えた会員も5千人、平均年齢も92歳を越えた。
総力戦となった第二次世界大戦は、膨大な戦死者とともに多くの戦傷病者を生んだ。戦時中彼らは戦意高揚の中「白衣の勇士」とたたえられ、国家からさまざまな優遇施策を受けた。しかし敗戦後は軍事援護の停止による恩給の打ち切りなど、戦傷を負った人々とその家族の生活は困窮と苦難のふちにあった。講和と独立のあと、軍人恩給の復活とともに傷病者への支援も僅かに改善をみたが、手足の欠損、失明、とう痛、体内に残った手りゅう弾の破片など戦争の傷跡は、彼らの生涯を苦しめた。傷痍軍人にとって“戦後”はその一生を終えるまで続いたのである。
かつて昭和40年代頃まで街頭や縁日、列車内などで見られた“白衣募金者”たちもとうに姿を消し「傷痍軍人」はまさに歴史の中に埋もれようとしている。傷痍軍人たちは戦後をどう生きたのか、どのような絶望の中に日々を送り、どんな思いでその困難な人生を切り開いてきたのか。そして国や私たち国民は彼らをどう遇したのか。
東京九段の「戦傷病者史料館・しょうけい館」には180人、計300時間にのぼる傷痍軍人とその家族の証言映像記録がある。受傷の痛みと葛藤、社会復帰と自立、差別と心ない中傷、戦死した戦友への罪障感、労苦を共にした夫婦愛、戦後日本社会への違和感・・・・・・彼らの証言をベースに膨大な遺品、資料を取りまぜながら、傷痍軍人たちが問いかけたこと、言い残したこと、私たちがもう一度、見、聞き、知らねばならないことを考える。
戦後もすでに68年、ついにその戦傷の痛みと欠損を報われることなく、あまたの人々がそれぞれの体験の記憶と無念の思いと共に、私たちの前から姿を消した。「国が、人々が、われわれのことを忘れてしまったのではないか」生きのびた傷痍の人々が異口同音に漏らす言葉である。傷痍軍人会解散という最後の機会に彼らの声に耳を傾け<日本人の記憶>として心にとどめる。

NHK ETV特集「戦傷病者の長い戦後」番号紹介サイトより 2014年3月15日(土)23:00-23:59放送

なんとも胸が痛みます。

私は傷痍軍人についてほとんど何も知らずに大人になってしまいました。また、かなり大きくなってからは、「中には、傷痍軍人でもないのに白装束で物乞いをしている怪しからん奴も含まれている」などという言説も見聞きしたことがあります。

この番組放送からもさらに6年経った2021年、この戦争の記憶はいよいよ歴史の中に埋もれようとしています。

尚、この番組は、公開ライブラリーのNHKアーカイブスで観ることができます。

◇ ◇ ◇

このところ連日、今度の東京オリンピックは開催か中止か、あるいは無観客か有観客か、入れるとしたら観客の上限は何人なのかが議論になっています。今後、引き続き行われるパラリンピックについても、同様の議論がなされるものと思われます。

ところで、前回1964年の東京パラリンピックで選手宣誓をした青野繁夫は、先の大戦で負傷した傷痍軍人でした。

 この青野繁夫とはどのような生涯を送った人だったのだろう。
 青野は1920(大正9)年、農家の長男として(引用者注:静岡県の)入山瀬(当時は城東村)に生まれた。子供の頃はガキ大将という立場で小学校の友達を引き連れ、喧嘩もすれば勉強もできるリーダー的な存在だったそうだ。
 一方で内向的な性格だった弟の行雄は小学校に入学すると、中学への進学を控えた繁夫から「もっと外で遊ばなあかんぞ」とよく言われた。(中略)
 繁夫は掛川中学での五年間(戦前は六・三・三制ではなかった)を終えると、静岡県の師範学校に二年間通い、大井川の上流の山間にある本川根の小学校で教師として働き始める。軍隊への召集を受けたのはそれから数年経った1941年のことだった。
「兄は揚子江で怪我をしたんです」
と、行雄は昔話を物語るように言った。
「揚子江の中流に長沙(ちょうさ)という場所があって、そこの作戦で負傷したそうです。ただ、兄はそのときのことをあまり喋らなかったので、それくらいしか聞いておりません」(中略)
 中国大陸から傷病兵として帰還した繁夫は、岐阜県の各務原市にあった陸軍の療養所に入院していた。名古屋市にほど近い濃尾平野の北部に位置する町で、現在も自衛隊岐阜基地のある場合だ。
 帰還後しばらく経ってから、両親が入院先に様子を見に行った。そこで、繁夫の置かれた状況が初めて明らかになった。
「兄貴は怪我について両親にこう言ったそうです。戦場では小便もウンコも垂れ流しで、それこそその中に浸かっていたような暮らしだった、と。各務原に来てからは綺麗にしてくれて、手術もした。何でも体の右側から弾が二発入って、一発は反対側に抜けたけれど、もう一発は背骨に当たり、骨の真上に抜けた穴が開いておったようです。そこにガーゼなんかを詰め替えるような状態は、村に帰って来てからもしばらく続きました」
 繁夫が故郷に帰ったのは終戦を迎えた後のことだった。
 各務原の療養所から静岡県の陸軍病院に転院した彼は、そこで終戦を迎えた。

稲泉連著『アナザー1964 パラリンピック序章』小学館(2020)p.38-40

青野繁夫は、名誉の負傷・脊髄損傷により、四肢の動きが本人に全く感じらない完全麻痺となり、強烈な痛みに耐え続けました。故郷に帰って五年ほど後に小田原市にある国立箱根療養所に入所することになり、そこで医師から勧められたのがパラリンピックへの出場でした。

その青野繁夫は、努力に努力を重ね、選手宣誓の大役を担い、さらに大活躍をして、二つの銀メダルに輝きました。

 1964年に開催された第1回東京パラリンピックには、53名の日本選手が参加、その中には2名の戦傷病者の方が含まれておりました。その一人である青野繁夫さんは、選手代表として選手宣誓の大役を果たすとともに、車椅子フェンシング団体と水泳で2つの銀メダルを獲得しました。
 先の大戦で受傷し両足に障害を負った青野さんは、箱根にあった脊髄損傷者の療養所(現国立病院機構箱根病院)で療養生活を送っていました。当時43歳と他の選手に比べ高齢でありましたが、猛練習の末にパラリンピック選手に選ばれた青野さんが、大会を経験して感じたことを文章にまとめています。 以下に、その一部をご紹介します。
「愛と栄光の祭典たるパラリンピックの宣誓者の選を得て私は思い切り胸を張り
  宣誓 私達は
  重度の障害を克服し
  精神及び身体を錬磨して
  愛と栄光の旗のもと
  限りない前進を期して
  正々堂々と闘う事を誓います
 と秋空に向って右手を高々と差し上げたのである。
 私は健全ならざる身体にも立派に健全な精神が宿る事を実証したい気持で一杯であった。
 年令において柄にもなくといささか考えて出場したのであるが、外国の選手ことにドイツ、イギリス、 イタリアの中に多くの傷痍軍人が名をつらねて居て通訳を交え楽しく交歓出来たのは幸いであった。
 お互いに傷ついた者同志の集いは楽しかった。そこには政治はなく、肩をたたきあい又、この次の日など将来を祝福して居る姿に私達だけか知る涙を禁じ得ないのも又懐かしい思い出である。
 私達は軽い世間の同情を求めるものではない。大地に2本の足をかまえなくとも立派に足のかわりの車椅子がある。私達はより国につくした誇りを持ち自らをより一層強く持して今後に期待し、人間としてこの与えられた使命を果す如く努力したいと、この大会に参加して、心に固く期した次第である。」
『日傷月刊』(日本傷痍軍人会機関紙)1964年12月1日号
 「パラリンピックに参加して」 箱根療養所 青野繁夫 寄稿文より抜粋

しょうけい館 戦傷病者資料館サイトより

◇ ◇ ◇

私が最後に傷痍軍人を見かけたのは、昭和51年(1976年)の秋に、高校の修学旅行で熊本城へ行った時でした。バスから降りて、みんなでお城の石垣に沿って歩いていたら、そこに白装束の二人の傷痍軍人がアコーデオンを弾いていました。

私は全身が硬直しました。そして同時に涙がこぼれそうになりました。クラスメイトたちの目には、二人の傷痍軍人がどのように映ったのかわかりませんが、私にとっては平塚のあの日の光景と同じように、決して忘れられない光景となりました。今も尚、あの二人の姿は瞼の裏に焼き付いています。

私は、まだ三歳にもならない小さな子どもだったとはいえ、戦場で負傷し、大変な思いをして生きてこられた傷痍軍人を怖がり、目の前で泣き叫んだということに、長い間ずっと罪悪感を抱き続けてきました。

今年は、戦後76年。平塚の七夕まつりや、東京パラリンピックという言葉の響きの中に戦争の影を感じる人は、もうほんのわずかになってしまいました。

私はかろうじて、わずかではありますが、子どもの頃の記憶が戦争と間接的に結び付いている世代なので、罪滅ぼしを兼ねて、傷痍軍人/戦傷病者のことを次の世代に少しでも語り継ぎたいと思い、この稿を書きました。

来年の平塚の七夕まつりが再び大勢の人々で賑わうことを願い、パラリンピックの選手が自己記録を更新することを願い、なにより平和を願い、行動したいと思います。


<再録にあたって>
平成生まれ(1989年〜)の方々の多くは、傷痍軍人を街角で見かけたことなどないでしょう。これからも、令和の世も、その次の世も、ずっとずっと傷痍軍人を街角で見かけない世の中にしなくてはと思います。近くの図書館に七夕飾りの短冊と筆記用具があったので、「世界平和」と書きました。


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