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【研究のススメかた】これを守れば、忙しくても論文を進められるユダヤの知恵

1. 記事の狙いと想定読者層

研究を進めるうえでのTIPSをまとめていくシリーズです。筆者が指導教官を務めるゼミや授業での活用を念頭においています。

読者層としては「大学の学部または大学院で、卒業論文/修士論文研究に取り組む」人たちを想定しています(すでに研究者として独り立ちしている同輩の皆さまや、そのタマゴとしてすでに修士論文研究等は経験済みの博士課程大学院生の方々にも、ご参考になるかもしれません)。

今回は、忙しい日々のなかで研究を進め、論文を書き上げるためのライフハック的なことについて書いてみます。たぶん研究や論文執筆に限らない、もっと一般的な仕事術としての示唆が含まれる内容なので、研究をする人以外の方々もぜひお目通しいただければ幸いです。

2. 「エリヤの椅子を空けておけ」恩師マイケルの教え

まず、ちょっと思い出話をさせてください。

僕には恩師が何人かいるんですが、その中の一人に大学院時代の指導教授でマイケル(Michael L. Hecht)という人がいます。

マイケルは、70年代にコミュニケーションにおける満足度に関する研究で金字塔を打ち立てたかと思うと、その次にはアイデンティティがいかにコミュニケーションに発露するかを理論化し、さらにキャリアの最終盤ではコミュニケーションを通してマイノリティの子どもや若者の薬物乱用をいかに防止できるかを実践的に研究した、非常に多彩でエネルギッシュな学者です。

薬物乱用防止のコミュニケーションに関するプロジェクトでは、論文を書いたり、ワシントンで政府の有識者会議に出たりするだけではあきたらず、keepin' it REALという活動を立ち上げたりもしています。これまでに発表した論文は、Google Scholarに登録されているものだけで240本、通算引用回数は12,000件を超えるという、歴史上のコミュニケーション学者の中でもトップ10に間違いなく入るようなバケモノです(直接会うと、いつもジョークをとばしながらちょこまか歩きまわり散らかしまわる、愛嬌たっぷりで愛妻家の、憎めないADHDじいさんなんですが)。

そんなマイケルの指導を仰ぐようになったとき、彼に「どうしてあなたは、そんなにバンバン論文を量産できるんですか?」と訊いてみたことがありました。

すると、彼はちょっと考えてから、

「ユダヤ教には”過越”という祝祭がある。知ってるか?」

というわけです。知らんがな(爆)。

マイケルは「ヘクト」という名前が示す通り、ユダヤ系です。彼のアイデンティティに関する研究も、自身の出自とユダヤ系アメリカ人としての(差別や偏見を含めた)経験がベースになっている。

で、ユダヤ教には、過越(すぎこし、英語で”Passover”)という記念日があり、7月中旬の週に家族みんなで伝統的な食事を食べるんだそうです。そして、この過越の宴では、必ず「エリヤの椅子」といって、テーブルに一つ、誰も座らない空席を設けるならわしがあるんだ、と教えてくれました。

エリヤというのは旧約聖書に登場する預言者で、ユダヤ教における最重要人物の一人。空席を用意するのは、民族的行事である過越の宴を通して預言者エリヤへの敬意を表し、建前的には「いつエリヤが我が家を訪ねてきても、すぐ食卓へと招き入れられるように」とのこと。

「でな、マサキ、この『エリヤの椅子を空けておく』のが、研究をとめないコツなんだよ」

と、いたずらっぽい笑顔を浮かべながらマイケルは言うわけです。こっちは完全に「???」ですが。そんなやりとりが彼は大好きでした。

どういうことかと言うと、「どんなにきつくても、いや、きついときこそスケジュールには余裕を持たせろ。毎日朝から晩まで予定が詰めこまれててスキマがないような状態には、絶対にするな」と。

「研究ってのは予定通りには進まないもんだ。お前みたいに大学院生なら研究と授業、あとは学会くらいしかやることはないわけだが、それでもなんやかんや突発的な用事は出てくる。ましてや、仕事を始めてフルタイムで働き、家族ができたら、そんなもんじゃ済まない。

そんなときでも研究を進めたかったら、『予定が狂ったときでも、もともとの予定通りにプロジェクトを進められる』ように、スケジュールに戦略的に穴を空けておけ――エリヤの椅子をな」

マイケル自身、いかに「自分をヒマにするか」を考えるための時間をわざわざオフィシャルな予定として週初めに設定し、さらに「何も予定をいれない時間」という予定も別途スケジュールに組み込んでいました。

僕もそれに倣って、できる限り予定は詰め込まず、「やろうと思えばやれるけど、でもどうしてもやらなきゃいけないとか、是が非でもやりたいとかっていうわけじゃない」という類の仕事はやらないようにしています。

そうすると、「予定が狂ったときでも、もともとの予定通りに」物事を進めやすいんですよね。意図的に自分の「稼働率」を低くしてあるので、いざというときにギアをパッと上げられる。

逆に、周りをみていると、しょっちゅう「忙しいいそがしいイソガシイ」「もう無理、キャパオーバーだよ」といつもボヤいているような人は、まず間違いなく、その人が拾わなくていいボールまで拾いにいっている。畢竟、スケジュールはパンパンで、すべてが当初の目論見通りスムーズにいっていたら問題は表面化しないけど、一つ二つ想定外の対応が必要になると、そっちに時間と手数を割かなきゃならないぶん、もともとの仕事がズルッと後に延び、そうすると、そこでシワ寄せを受けた別の仕事がさらにその先へとズルズルッと延び…と一気に玉突き事故が発生します。

そうならないようにするためのバッファとして、「エリヤの椅子」を空けておくことが大事だ――大学院生のうちに、マイケルからこのことを教えてもらえて、本当によかったと思っています。

3. あえて「フル稼働」させないことの重要性

じつはこのマイケルの教え、近年の行動経済学で注目されている「スラック(slack、「弛み」とか「緩み」という意味)」に関する理論そのものです。彼がスラック理論を知っていたかどうかはわからないけど。

スラック理論についてご興味をもたれた方には、S.ムッライナタンとE.シャフィールの著書『Scarcity(邦訳『いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学』、大田直子(訳)、早川書房)』がオススメ。

もっとアカデミックなガチ論文で詳細まで知りたいという方は、下記のDaniel et al. (2004)【PDF】 などがよいかと思います。

Daniel, F., Lohrke, F. T., Fornaciari, C. J., & Turner Jr,, R. A. (2004). Slack resources and firm performance: A meta-analysis. Journal of Business Research, 57(6), 565-574.

『Scarcity』の議論を駆動する根源的な問いとして、「貧困状態にある人は、経済的に余裕がないくせに、なぜ裕福な人よりも高い金利で借金をするのか」というものがあります。

答えは、貧困状態にあっていつも家計が自転車操業状態にある人は、とにかく目の前の支払い督促状や請求書をなんとかするために高金利の街金や消費者ローンに手を出さざるをえないから。

『Scarcity』を通じて、ムッライナタンとシャフィールは、この構造は家計とおカネだけではなく、時間を含めたヒトや組織にとっての「リソース」全般に共通するものであることを、さまざまな事例とともに示しています。

たとえば、アメリカ東海岸にある救急外来病院では、運び込まれる急患に対して手術室の数が足りず、いつも順番待ちが発生しているような状態でした――その病院に搬送されてくる患者の多くは、一分一秒を争う生死の境をさまよう救急患者であったにもかかわらず。

この大変な状態を改善したのは、大幅な予算増でも、外来患者数の変化でもなく、直観的にはまったくナンセンスに思われる「ふだんは、あえて手術室を一室空けておく」ことでした。

この方針が発表された当初は、ただでさえ慢性的に不足している手術室を使わないようにするなんて自ら手を縛る愚挙に等しいと、現場の医師や看護師から猛反発が巻き起こったそうです。

しかし、じつはそれまでこの病院では、一秒でも速く手術を行わなければならない救急患者だけではなく、数日なら待っても病状にも予後の回復にも影響はないような入院患者まで、手術室に空きが出たらすぐオペの予定を入れるようにしていました。なぜなら、すぐ予定を入れないと救急患者への対応で手術室が埋まってしまう、と誰もが思い込んでいたから。

それが、平時であれば手術室をあえて一つ使わない――ひどい交通事故に遭うなど、一刻を争う状態の救急患者が搬送されてきたときにはそこを優先的にあてがう――ようにしたことで、一変しました。

いくら「ひっきりなし」に救急患者が運び込まれるといっても、リアルな意味で毎分毎秒救急車が到着するわけではありません。本当に深刻な「問題」が発生するのは、一人めの急患が搬送されてきて手術室へと運び込まれ、その次の急患がたまたま余裕がない、つまりまだ一人目めの急患の手術が終わっていないときに搬送されてきて、どこにも手術室の空きがない!となったときです。

そうなると、先述の「いつもキャパオーバーだとボヤいている人」と同じで、問題が次々に連鎖し始めます。搬送されたもののなかなか手術が受けられない二人めの急患は待っている間にどんどん状態が悪化するため、やっと対応できるようになったときも、搬入時にすぐ手術できていればかかったであろう時間よりももっと長時間で大掛かりな(=より多くの人数が関与しなければならない)手術が必要になります。つまり、時間も人手も一人めの急患への対応よりも多く必要になる。

あとはもう、坂道を転がり落ちるように問題が悪化していくばかりです。二人めの急患への対応が遅れるということは、前段落に書いたのとまったく同じ(そして、さらに悪化した)プロセスをたどって三人めの急患への対応が遅れます。そして、四人め、五人め…と、もうこうなってしまったら、あとはたまたま急患の搬入が例外的に長時間途絶えるラッキーなタイミングが来ない限り、問題は収束しないままに続いていく、というわけです。

逆に、もてるリソースをあえて「フル稼働」させず、わざと余裕をもたせることで自由度を確保してアドバンテージを創り出しているケースもあります。有名な例は、ファストファッションで世界一のインディテックス(アパレルブランド「ZARA」の運営会社)。

インディテックスは、自社が利用できる工場の稼働率をふだんは20~50%程度に抑えています。アパレル系の工場は稼働率が100%を超えることもざらにありますから、20~50%の稼働率というのはどうみても異常です。

しかし、この「スラック」がインディテックスの強みになっています。同社が運営するブランド「ZARA」は、シーズン当初は幅広いバリエーションを取り揃え、個々のアイテムの売れ行きを分析して、よく動いている商品に一気に増産をかけてラインナップの入れ替えをごく短期間に行う、アジャイル売れ筋戦略とでも呼ぶべきアプローチをとっています。

これを可能にするためのケイパビリティはいくつかあります――売れ筋のアイテムを的確に見極めるデータアナリティクス、分析で絞り込んだテイストの新商品を短期間で開発できるデザイン力など――が、その中でも欠かせないのが、シーズン途中にごく短期間で全世界の店舗に向けた増産を可能にする柔軟な生産能力であり、その柔軟性を生み出す秘訣が「スラック」にある、というわけです。

4. まとめ

今回は、恩師マイケルの思い出を語りつつ、彼から教えてもらった「ユダヤの知恵」と、その裏付けとなる「スラック」理論をご紹介しました。

卒業論文や修士論文は、学士ないし修士課程の最終年次に取り組むものです。そのため、論文研究とは別に、「卒業したら、もう学校の授業もとれなくなるし…」と、興味がある授業やプログラムをあれもこれもと登録したり、学校の内外で行われるイベントなどにも参加したくなったりしがち。

そうすること自体は、あなたが新たな経験を積み、これまで触れたことのなかった知見を獲得するうえで大変有効なので素晴らしいのですが、人間誰しも一日24時間しか使えない以上、ほかのことに時間を使えば当然それだけ卒論や修論にかけられる時間は圧迫されます。

このジレンマを前にしてバランスをうまくとるために、「エリヤの椅子を空けておく」ことは、必ず役に立ちます。まずは、だまされたと思って、来月のカレンダーに「何も予定をいれない時間」をオフィシャルな予定として登録し、そこは必ずブロックする、というのをやってみてください。

――きっと、この記事でお話したことの意義が体感できることと思いますよ。

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