研究と勉強は違います

【研究のススメかた】警句:「研究」と「勉強」は違います

1. 記事の狙いと想定読者層

研究を進めるうえでのTIPSをまとめていくシリーズです。筆者が指導教官を務めるゼミや授業での活用を念頭においています。

読者層としては「大学の学部または大学院で、卒業論文/修士論文研究に取り組む」人たちを想定しています(すでに研究者として独り立ちしている同輩の皆さまや、そのタマゴとしてすでに修士論文研究等は経験済みの博士課程大学院生の方々にも、ご参考になるかもしれません)。

今回は、記事タイトルの通り、「研究」とは「勉強」(及び、その他の「リサーチ」的な活動)とは本質的に違うものです――なので、もしあなたが一所懸命「勉強」して、その結果をいかに努力してまとめたとしても、それは「研究」としては限りなく価値がないものになりかねかせん――よ、というお話をします。

ここで論じたことをより深く知りたいという方は、近藤(2018)などが読みやすいかと思います。医学系の研究者に向けて書かれた本ですが、科学的研究全般に適用可能な内容を本質的に、かつ平易な文章でまとめてあります。

2. 研究とは、何か

「研究」と「勉強」の違いを述べるにあたり、まず「研究」とはどのような知的活動のことを指すのかを定義しておきます。

世の中には「研究でござい」として流布しているものが多々あります。しかし、ここでいう「研究」とは、科学の文脈において正当なものとして認めうるものをして「研究」であるとします。ベストセラーのビジネス書がすぐれた研究にもとづくものだとは限りませんし、すぐれた研究が必ずしもベストセラーになるわけでもありません。

何をもって「正当な科学的研究」とするのかは、深く掘り下げだすとそれだけで何冊もの本と大学院の講義でもって論じなければ足りなくなる(たぶん、それでも論じ尽くすことは不可能な)テーマです。しかし、ここでは

”成果”と”手法”

の二つの軸でもって科学的研究を特徴づけます。

”成果”とは、文字通り、あなたの研究がどのような成果を人類社会に対して提供するのかに関する軸です。

研究とは、まだ誰も知らないサムシングを研究によって突きとめ、それを人類共通の「知」のデータベースに付け加える(より身近な表現をすると国会図書館などに収蔵される文書を作成し、提出する)プロセスです。したがって、すでに先行研究で明らかにされていることを改めてあなたも自分の「研究」で追証したというのは、よいトレーニングではあっても、ふつう「研究」であるとは認められません。

どんなに些細なポイントであってもいいので、何か一つ「ここは今までこの分野に関する研究では明らかになっていなかった点であり、それについて私の研究からはこれこれこのような発見があった」ということを言えなければ、科学における「研究」とはカウントしません(もちろん、学術的にも社会的にもインパクトが大きい、すぐれた研究というのは、このポイントが図抜けて大きな意義を持つものであるわけです)。卒業論文や修士論文であれば「新奇性」といった項目によって評価されるところになろうかと思います。

もう一つの軸は、”手法”です。

科学には、ガリレオやニュートン以来連綿と人類の歴史を通じて構築・検証され、磨き上げられてきた科学的手法の体系があります。「方法論」や「リサーチメソッド」とよばれるものです。

よく「お作法」と呼びならわされたりするので、なんだただの慣習かと勘違いされたりすることもあるのですが、科学の方法論は、研究における推論が論理的な陥穽にはまり込むのを防ぐ機構がビルトインされた堅牢なアルゴリズムであり、あなたの研究ではどこまでのことが言えて、どこから先は論理的妥当性をもって論じることができないかを明確に顕在化してくれるフレームワークです。

そして、プロの研究者は、きちんとした方法論にのっとって行われた研究とそうでないものを一瞬で判別できます。これは研究者の特殊能力の一つで、大学院博士課程におけるコースワークの大半はこの能力の養成のために費やされると言っても過言ではありません。

以上をまとめると、なにかしら新たな「知」を見出し(”成果”)、かつ、それが科学的に信頼性と妥当性(※)を備えた方法論(”手法”)でもってなされていれば、あなたの「研究」の価値はそこで担保される、ということになります。

※「信頼性と妥当性」は、科学における専門用語であり、特定の意味を備えた重要な概念でもあります。これについては、また後日別記事をまとめます。

3. 何が研究ではないか

前節の「研究とは、何か」の裏を返すと、「何が研究ではないか」が浮き彫りになってきます。

つまり、「新たな『知』を見出すものではない」あるいは「科学的手法にのっとっていない」ものは、それがどんなにすぐれたものであっても「研究」ではありません。

ここからは具体例。

3-1. レポートは「研究」ではありません

既存の情報をいくら集めてまとめても、それは――素晴らしいコンサルのレポートにはなるかもしれませんが――「研究」ではありません。なぜなら、本質的に新しい「知」が何ら付け加えられていないからです。

「研究」をものすためには、先行研究では解明されていない論点をあぶり出してリサーチクエスチョンを構築し、それを仮説に落とし込んで検証する必要があります。白書をはじめとする二次情報や統計データをどんなにきれいにまとめても、それは「研究」とはカウントしません。

これが、本記事のタイトルにした「『研究』と『勉強』は違う」というポイントでもあります。

既存の文献やデータを広汎に調べることは、あなた自身にとっては大変有意義な「勉強」となるかもしれません。しかし、そこから先行研究で明らかにされていない、かつ、明らかにされるべきテーマを見出して問いを立て、それを検証して新たな「知」を見出さない限り、それは「研究」としてはみなされないのです。

3-2. 中計も「研究」ではありません

僕が現在(2020年2月29日)教鞭をとるビジネススクールでは、受講生の多くが仕事をもつ社会人であり、修士課程の集大成として自分が所属する企業の戦略や今後の方向性をテーマにとりあげます。

そのこと自体は何も問題がないどころか、研究の真正性(authenticity)という意味で素晴らしいものとすら言えるのですが、ひとつだけチェックすべきポイントがあります。

それは、中計(中期経営計画)の全体像または一部を「研究」とすること。

今後三~五年でどのような経営計画を推進していくかは、当該企業の趨勢を大きく左右する重要なスキームになります。せっかく専門家が集うビジネススクールに在籍していて「研究」をするのであれば、中計をそのまま論文として体裁を整え、戦略やマーケティング、ロジスティックス、生産計画といった重要な側面についてプロの研究者から批評をもらおうと考えるのはむべなるかな、ですし、指導教員の方針次第ではWin-Winとなるケースも多々あります。

ただし、企業の中計と科学的研究は、どちらも社会的に価値がある知的活動ですが、本質的に目指す方向性が異なります。

前者は現状の分析と経営陣が掲げる当該組織のビジョン&ミッションにもとづいて今後どのように事業を推進していくかに関する青写真を描き出すものであるのに対し、後者は(ここまで繰り返し述べてきた通り)今まで人類が培ってきた「知」の体系ではいまだ明らかにされていない何らかの論点についての不完全ながら現状望みうる限りベストな解を見出し、その解明手法と結果を記述するものです。

ですので、「研究」であるというテイで中計にあたるドキュメントを提出され、「ご批評のほど、よろしくお願いします」と言われても、研究者の立場からは「…で、これは何を明らかにしようとしたものなんですか?」としか返せません。

「いや、明らかにするというか、弊社は今後このような方向性を目指したいと考えておりまして、それについての裏付けとなる分析と、そこから考えうる最良の戦略としてこのような中期経営計画をまとめた次第です。つきましてはご批評のほどを…」「いや、そういうことであればそれはぜひおやりになったらいいんじゃないですか。私は貴社の役員でもありませんので」「いや、ですから…」という不毛なやり取りが勃発しないよう、ここは重々承知しておいていただければと思います。

3-3. 随想・随筆も「研究」ではありません

もう一つのパターンとして「随想・随筆」があります。

「随想」とは、筆者が思いつくままに折に触れて感じたことを書きとめた文章であり、「随筆」は筆者の見聞・経験・感想などを気の向くままに記したものとされます。そこにみられる筆者の着眼点のおもしろさや斬新さ、ユニークさが随想・随筆の肝となります(「その発想はなかった!」と思わず膝を打って感じ入るようなエッセイを読むのは愉しいですよね)。

つまり、人類がこれまで築き上げてきた「知」の体系とは関係なしに着想されたテーマについて、科学的に認められた手法を用いて検証することなく結論を導き出すものであって、本質的に「研究」とは異なる知的生産物であるわけです。

そんなものを「研究」として大真面目に提出するなんてありえない、と思われるかもしれませんが、たとえば、衰退産業とされるある業界の歴史と現状について縷々とめどなく(まとまりもなく)述べたうえで、「…このように、◯◯業界をとりまく環境はじつに厳しい。さて、ここで生きる人々、そして彼らが手掛けてきた仕事の行く末は今後どうなっていくのであろうか」と結ばれている、その筆者曰く「論文」と題されたドキュメントを目にした経験が僕にはあります。じつに”読ませる”文章ではありましたが、まったく何も新たな問いが立てられておらず、当然新たな「知」が見出されるはずもなく、研究としての価値はゼロと評せざるをえないものでした。

4. まとめ

研究とは、まだ先行研究で明らかにされていないことに対して、何らかの「解」となる知見を科学的手法にもとづいて見出し、それによって人類の「知」のベータベースをより豊かにするプロセスです。

この記事では、この「研究とは、何か」に関する理解をベースに、「では、どんなものは研究ではないのか」を挙げてみました。

卒論あるいは修論研究は、学部あるいは修士課程の最終年次という非常に多忙でプレッシャーの大きい時期に、多大な時間とエネルギーを費やして取り組む、あなたの人生において重要なプロジェクトです。

その結果として、最終的に「研究」とはみなされないサムシングをつくりだしてしまわないよう、本記事の内容をよくよくふまえたうえで、素晴らしい研究をものしていただけるよう、期待しています。

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