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批判に身をさらす覚悟はあるか?

「万人を納得させる意見」はない

私の知人が、ある著名な評論家に批判の手紙を書いた。
「あなたの『○○○○』という著作を読んだが、○○についてのこの意見は、ちょっとおかしいのではないか」云々。ていねいな言葉をつかった真摯な批判であったという。
 
数日後、その評論家から知人に手紙が届いた。
「へえ、忙しいのにちゃんと返事をくれたのか。律儀な人だな」と思いつつ封を開けると、中からハラハラと紙吹雪が……。

よく見ると、紙吹雪の正体は知人が出した手紙だった。その評論家は返事を書くかわりに、手紙を紙吹雪大になるまで細かく破り、わざわざ送り返してきたのである。

評論家が怒りに震える指で手紙を破っていくさまを思い浮かべると、サイコホラーのワンシーンのようだ。罵詈雑言を並べた返事をもらうよりずっとコワイ。「この人をこれ以上怒らせたら何をされるかわからない」という気持ちになる。

だが、こうした態度はまことに大人気なく、恥ずかしいと思う。知人の手紙は誹謗中傷ではなくまっとうな批判だったのだから、反論があるならきちんと書けばよい。反論を書く時間がないなら無視すればよい。「ワタシを批判するとはケシカラン!」的な思考停止のキレ方をするのは、物書きにあるまじき態度である。

作家であれ評論家であれライターであれ、メディアに物を書いて食っていくからには、自分の書いたものに責任を持たねばならない。
責任を持つとは、事実誤認は極力ゼロに近づけ、間違いがあったら謝罪・訂正などの真摯な対応をし、批判はきちんと受けとめる(=批判が妥当か否かを客観的に判断し、妥当であれば素直に反省する)ことだ。

そして、まったく批判を受けない物書きというのはあり得ない。一つの意見を表明すれば、必然的に、それに同意しない読者の反発を買うからだ。
イソップ童話の「ろばを売りに行く親子」ではないが、どんな意見も「すべての人を納得させることはできない」のである。

有名になればなるほど、多くの読者からの批判に身をさらさねばならない。しょっちゅう批判の手紙やメールをもらうであろう著名ライターともなれば、すべての批判に反論することは物理的に不可能だろう。

ただ、返事を書く書かないは別として、批判に身をさらす覚悟はつねに持たねばならないし、その批判を冷静に受けとめる視点を保たねばならない。

ペンは「凶器」になり得る

車を運転するのに免許がいるのは、車が人を殺す凶器になり得るからだ。同様に、ライターがメディア――とくにマスメディア――に発表する文章も、時には人を殺す凶器になり得る。物書きを目指すなら、これを「大げさな」と笑ってはならない。メディアにはそれくらいの力があるのだ。
 
だが、メディアに物を書くには免許などいらない。だからこそ、ペンが凶器になることを自覚しない物書きも大勢いる。

ペンの凶器性に最も自覚的であらねばならないのは、いうまでもなく、新聞記者などのジャーナリストである。
しかし、たとえ軟派なジャンルばかりこなしているフリーライターであっても、ペンの凶器性に無自覚であっていいわけではない。
どんなジャンルの原稿であれ、書いたものが人の心をひどく傷つけることはあり得るのだ。書き手に悪意がなくても、また、たった1つの何気ない言葉であっても……。

そして、1通の批判の背後には、同じように感じても手紙やメールを書くには至らない、多くの読者の声が隠れている。

ビクビクしながら書く必要はないにしろ、メディアに物を書く重い責任をつねに念頭に置いて、キーボードに向かわねばならない。

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