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春が来る度に心が拗ねる

もうすぐ今年度が終わる。業種によっては、新たな1年の始まりを意味する。私もそうだ。

多少忙しくなることは分かっていたので、少し前から仕事は進めてきた。その甲斐あって、フルタイムで職場にいなくてもある程度は平気なくらいのゆとりが生まれている。

この1年間は、自分が望んで手に入れた環境でかなり躍起になっていたのだと思う。

期待された以上のものを出したくて、必死になって仕事をした。
以前の職場のことを思い出しては、今の恵まれた環境で常に120%を出し続けなければいけない気持ちで溢れていた。


だから燃え尽きてしまったのかもしれない。

やるべきことをやった。出すべき結果を出した。頑張っても仕方のないことはさっさと諦めて切り捨てた。
仕事以外でも、会いたい人に会うために時間を使った。楽しいばかりの時間が過ぎて行った。


これ以上、何を望むというのか?


今はただ、停滞を望んでいる自分がいる。

ペットを含む家族も友達も皆健在で、贅沢をしなければ最低限生活していける程度の収入がある。

明日も明後日も、その先も、ずっと今の生活が続いていけば良いのだと信じている。
何も失いたくない。絶対にそうはいかないのに、ただひたすら不変を望んでいるのだ。

何もしたくない。

今もちうる限りの幸せを抱えて、ずっと自宅のベッドで眠りこけていたい。
朝が来ても夜が来ても、ずっとこのまま、何一つ変わりゆくことがないようにじっとしていたい気分なのだ。

ただ、やはり変化しないものは、きっとこの世に存在できない。
世界は停滞しないから、時間は過ぎていくから、置いていかれるわけにはいかないのだ。

明日も明後日も生きていくために、また何か行動を起こし、新しいことを見つけ、全ての変化を受け入れるしかない。

そして、先のことを考えて憂鬱になるのも馬鹿馬鹿しいが、頭の片隅に小さな宇宙を広げて、将来のことを思いつく度にそこへ押し込んでおく必要は少なからずあるのだ。


こうして心が駄々をこねる時には、とにかくじっとしているのが良い。
「ここにいたい」「変わりたくない」と言うのなら、何かしたくなるまで、何もしないに越したことはない。

変化には、気力も体力も必要だ。
きっと1年分を使い切って、今は疲れてしまっているだけなのだ。

今年もまた、3月に永遠を感じる。
もしくは、3月を永遠だと感じたい。

それで良い。
私が私でいるために、心が行きたい方に行く。

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