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感性を磨く

 ピアノで楽譜通りに弾いたら、それは果たしてすべて正しいと言えるか。機械が均一の要領で音を出すのと、人が感情を表す如く演奏するのとでは聴こえ方は絶対に異なる。そうであれば、綺麗に(心地よく)聴こえるのはどういう演奏か。はたまた、どちらが人の心に響くのか。
 同じく、本物そっくりに描くことを“絵を描く”ことだとするなら、写真という媒体で事は足りる。見た目のまま描けることは勿論うまいと思うのだが、独創性に欠ける気がしてしまう。小学校の担任に、「空は灰色ではないよ」と言われた。なぜ空は青色だと決めつけるのだ。それ以来、絵を描くことに興味が薄れた。一言で人生は左右される。容易ではないが、これは常々肝に銘じていることである。
 絵画で言うなら、ピカソの凄さは私のような凡人にはやや理解し得ない部分がある。どんな分野でもそうだが、その道である領域(レベル)に達しないと観えてこないのだ。まさに「思えたら聴こえる」である。残念ながら、見えない人はずっと見えない。
 ダンス界では、KPOP、三浦大知の踊りには目を見張るものがあり興味を持っているが、最近知った日本初のダンスのプロリーグであるD.LEAGUEは発想力、独創力、物語性があって面白い。ダンスにも基本はあるだろうが、その実践だけでは人の心は揺れ動かないし、感動は起こらない。
 そして、勉強について。教科書はあくまで基本であって、そのまま受け入れただけではセンス(感性)は磨かれない。教科書はお上の検定を通るための産物であるから、完璧ではなく甚だ不完全であり、真実(正しい)とは言い難い。また、問題集の模範解答も所詮一つの例なのだから、それを写して満足しても、自分のものにはならない。つまり、いざ問題を解くときに、自分で考えているにもかかわらず、模範通りにすべてを表現できるだろうか。そこに現れたものに独創性は存在するだろうか。
 そもそも、学問(勉強)とは誰のためにやるのだろうか。勉強とは暗記すること(知識を蓄える)ことではない。もし、数学が覚えるだけのことなら、私は好きになることはなかった。「考える」ことができ、「自由に表現できる」ところが魅力なのである。そして、学問というのは、人のためにやるもの。周りの人の幸せを願ってやることであり、これからの世を良くするために行なうもの。そう考えただけでも、のほほんと生きているのは、いただいた命に申し訳ない気がする。何のために生きているのだ。とある人に“生きる意味”を問われて答えに窮したが、皆さんは何のために生きているのか。
 最後に。境界を意味する、「間(あわい)」という言葉がある。今の世の中、AかBか決めること、正解・不正解のみに囚われがちだが、事物はそう簡単に割り切れない。A、Bの「間」にこそ、その人らしさが宿る。そもそも善悪を考えるのは人間の思考でしかないので、本来、事実には正解も不正解もない。仏教には「三性の理」という考え方があって、善悪の他に「無記」がある。自分の価値観という色をつけて判断しないという考え方だ。Aな自分もBな自分も、そのまま自分である。いつの間にか積み上がっている常識や価値観に縛られず、あわいな自分を認めると、もっと生きやすくなるのではないか。

2021.7.26

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