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「いま」を、生き切る

 近年の文化庁による「国語に関する世論調査」によれば、1カ月に1冊も本を読まない人の割合が約50%で増加傾向にあるという。四十而“不或”ともいえる40歳になってから本と向き合うようになった身としては何も言えた義理ではないが、なかなか驚愕の数値ではなかろうか。ただ、この事実を嘆き、皆さんに本を読もうと懇願したいわけではない。あしからず。ともあれ、狭い世界に留まらずに、枠を取り払える機会に恵まれ、人生が好転した。読まないより読んだ方が絶対にいいとは思うが、人にはそれぞれ本を読み始める最適なタイミングがある。だから、因果律のジレンマと対峙することになるけれども、本を読むことを強要したいとは思わない。勉強と同様だが、自発的に行ってこそ大いなる価値がある。周りの人から「やりなさい」と言われてやったものが全くもって身についていない経験はきっとあるに違いない。
 2016年9月号の『ソーシャル・サイエンス&メディスン誌』に掲載されたのが、「読書と長生きの関連性」という研究論文であり、1週間に最大で3時間半の読書をする人は、本を読まない人と比べて、その後の12年間で死亡率が17%も低くなるという。さらに、将来的な「認識能力の衰退」が32%も遅くなり、読書を30分するとストレスが68%も軽減されるという研究報告もある。
 この良い効果を期待して読書を始めたわけではないが、結果論的には百利あって一害なしで、至れり尽くせりである。とはいえ、人間は何のために本を読むのか。私にとっては新たな知識の蓄積、そして智慧・教養のためが1割であり、残りの9割は周りの人のため、と徐々に捉え方が変質してきた。
 『神の探求』の著者である予言者エドガー・ケイシーは「今日勉強したことを誰かの人生に役立てていることを想像しなさい。想像するだけで、それはより定着するのです。」と語った。皆さんに将来何をしたいか問うと、人の役に立つことをしたいと答える。世の中の大概のことは人の役に立っている。つまり、今やっていることは自分のためだけでなく、結果的には人の役に立つのだ。
 そういう観点からも、何らかのきっかけを創りたいという想いがある。私が本を読むことによって微弱な「流れ」が起きる。つまるところ、バタフライ効果である。この通信もその一つ。決して考え方や思想などを受け入れたり、信じたりしてほしいと願っているわけではない。そのような素敵な文章を書けるほどの技量はないし、人徳もない。しかし、平々凡々の私がただの娯楽として読み、実践的行動を起こさなければ、それに伴って流れが生まれることはない。けれども、流れが生まれることを期待しているわけでもない。“食べたら、出す”を繰り返すように、人間の構造はうまく出来ている。人間だけに留まらず、あらゆる事物はインプット、アウトプットが自然な流れ。だから、読書が“読んで、書く”と表わすように、読んで得るだけでなく、何らかの形で外に出すことも大切である。
 “水のように生きること”をテーマとしてきたが、水は高いところから低いところに流れ、流れるから濁らない。留まったままでは濁っていく。これは自然の摂理であり、人間の成長もこれに似ている気がする。たとえば、鴨長明著『方丈記』の冒頭にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」が、まさに時空やあらゆる事象を物語っているし、人生そのものを表しているのではないか。まさしく、本を読むという流れがある時空の中でこれからも生きていけたら本望である。
 ところで、事あるごとに話をしているが、約5年前に交通事故を起こした。それ自体は良いことではないが、それをいつまでも後悔していても前には進まない。田坂広志著『すべては導かれている』の一節に、「人生で起こること、すべて、深い意味がある」とある。私は九死に一生を得る形で、生き永らえている。ということは、まだ「私には何かすべきことがある」というふうに解釈することにした。これには何か深い意味があるのだろう。生きることができたのだから、生かされているこの命を何に使うか。これは“使命感”といえる。だからこそ、利己よりも、利他であれば、すなわち世の人に少しでも光を照らす(灯す)ことができたら、無上の喜びである。
 話は少し変わる。何度聴いても飽きないIVE(韓国グループ)の歌『ELEVEN』の中に「私が今感じるこれらの感情はtrue」という歌詞がある。前号でも書いたが、目を開けば見たいものに限らず、見たくないものも含めて大概見える。見たいものだけを選ぶことは不可能であるし、すべてを記憶として残すことはできない。しかも、見えているものが真実かどうかは分からない。人間は見えているものを正しいことだと信じたくなるが、一旦目を閉じて自分の心(魂)を通してみるときがあってもよい。情報が飽和状態であるがゆえに、脳はそれに追いついていけていない。見えているものを見ないのではなく、見えないものを見る心も大切ではないだろうか。
 夢か、現か、幻か。感じているものはすべて個々で限定的に感じていることであるものの、決して間違っていない。それは紛れもない事実である。でも、それに善し悪しはない。過去を考えているのも自分、未来を考えているのも自分。しかし、それを意識しようとしているのは脳のみであって、決して目の前にはいずれも存在しない。先日、煌々と光る満月(snow moon)を見上げるが、その光を目で捉えているのは、1秒前の月の姿。太陽に至っては、8分19秒前の姿。決して、今ではない。
 星座の中でオリオン座は見つけやすくて好きだが、天動説宜しく、そもそもあの位置関係で天井に配列しているわけでなく、それぞれの恒星は何光年も離れたところに点在する。それを地球人が眺めて、オリオン座と名付けているに過ぎない。でも、地球で共生しているがゆえに、星座という捉え方をし、神話や伝説と結び付けていくことを考えると、昔の人はロマンチックだなと思う。さらに言えば、今を生きるのに必要な情報でもあったのだろう。
 Apink(韓国グループ)が歌う魅惑な『Dilemma』の歌詞には「壊れたコップ再びくっつけられないの」という表現があるが、茶道の教えでいうならそのコップもまた風流なのであろう。そのような侘び寂びの世界観が、生きるためには必要な感性なのかもしれない。生きとし生けるものは、一度限りしか生きられない。ようするに、永遠はないのだ。形あるものはいつか壊れる。それが世の常。しかし、私は、そしてあなたは、「今ここ」にいる。だからこそ、「今」を見つめ、生き切ろう。
 最後に、田坂広志著『すべては導かれている』を読んでいて、自分が抱えるものと日々向き合っている友だちに伝えたいし、自分にも語りかけたい言葉に出合ったので、ここに紹介し、今年度の締めくくりとしたい。
 最後まで読んでいただき、感謝の至りです。ありがとうございました。

 過去は無い、未来も無い
 有るのは、永遠に続く、いま、だけだ
 いまを、生きよ! いまを、生き切れ!

2022.2.22

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