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碧空の如し

 りんどう祭、お疲れ様。どうであっただろうか。個々の中で湧き出た思いはどれも永劫、大切にしてほしい。同窓生でもある私の思いをここに書く。一般公開がないため、こじんまりした形かと想像していたのだが、大々的に行われていたので吃驚した。2年ぶりの龍建立は3年生にとっては感慨深かったであろう。ライトアップは素敵だった。寸劇はシュールな部分も含め、斬新な着眼点や思索が楽しめ、大いに笑ってしまった。体育祭は各学年で盛り上がっていて良かったし、3年生の一体感というかエンターテインメント性が面白かった。初の試みであるシンポジウムで先輩方の篤き思いが聴けたのは非常に貴重だ。私は龍制作のパート長に憧れを持っていたが、顔の狭さ、貢献度の低さゆえに選ばれなかった。でも、一番大きく大変な胴体パート担当だったので、やりがいはあった。新聞張りの職人と化した。龍建立のときの感動は何にも代えがたい。ただ、建てるときにとある別のクラスの人がザイルを括りつける箇所をしくじった結果、一部ぶっ壊れた。唖然。でも、どれも心に残る思い出だ。コスプレも全力で面白かった。吹奏楽部の演奏には一人で酔いしれていた。りんどうの歌声では2、3年生の発表は痺れた。武者震いが起きたかのようだった。後夜祭では各長の篤き思いが心に響いた。何はともあれ無事終えることができた。素晴らしいりんどう祭だった。
 さて、テーマが『雲外蒼天』はパンフレットに掲載されているとおり、「困難を努力して乗り越えることで、その先には青空が待っている」という意味である。ご尤もに聞こえる。けれども、前任校の離任式で「碧空」の話をしたのだが、本来、雲と青空という2つがあるわけではない。雲というのは自分では形を決められず、風に煽られてあっちこっちに行き、自分ではどうすることもできない。しかし、実際には、そこには青空のみただ存在する。そう、あなたは雲ではないのだ。誰もが「青空」なのである。自分で雲を生み出しているに過ぎない。だから、雲を抜け出そうと思ったところで、また違う雲に突入してしまう。その先などないことになる。
 表だけのトランプがないのと同様に、まさに表裏一体であり、こういう概念を「非二元(ノンデュアリティ)」という。左(西)にずっと進めば、右(東)に行ったのと変わらない。幸せという考えを作れば、不幸せがあることになる。ようするに、比較することが出てくるから、2つ(二元)になってしまうわけだ。不自由を考えるからこそ、自由が存在するのだ。でも、これも一如である。こんなふうに捉えられたら、人生観が変わる気がする。なかなか難しいことではあるが。
 土井善晴さんは随筆「料理をしない提案」で、“苦しみから逃げれば、苦しみは必ず追いかけてくる”と述べる。これはまさに、歴代龍長の黒岩さんが話したように「道標となる人に出会う」、「今できることを真剣にやる」に尽きるのではないか。私もそうだが、やってきたことに後悔はない。りんどう祭を介して、皆さんの内なる魂に灯火をともすことができたなら、それを絶やさずに“置かれた場所で咲きなさい”(談、渡辺和子著)と心から願う。

2021.6.25

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