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船乗りにあこがれて book review

コンパス・マーフィー
スティーヴン・ポッツ・著
佐々木信雄・訳
求龍堂

 船で働きながら世界中を旅できればと、子どもの頃は船乗りに憧れた。船が好きで、海が好きで、見えない海の向こうに思いを馳せた。

 実際のところ、数時間乗る船は爽快だけれど、一昼夜船で過ごすと疲れる。私は船酔いがひどくて、港に降り立ってからも頭がくらくらする。

 それでも船には憧れる。今も港にめずらしい船が寄港するたび出向いては乗り込んだりしている。たたまれた帆を見上げながら、帆が風を抱いて滑るように海上を進む姿を想像する。この船で水平線の彼方へ行きたい。太陽が沈むそばへ行ってみたい。夕日の中にすっぽりと包まれたら、どんな世界が見えるだろうと、想像だけはつきない。だけど船酔いは困る。
 
 この本は父を捜すため北に向かう捕鯨船オーロラ号に密航した少年、ジョシュア・マーフィーの冒険物語だ。舞台は十九世紀半ばで、イギリスがグリーンランド海域で大規模な商業捕鯨を行っていた頃とされている。

 船に潜り込んだ頃は、ジョシュアも船酔いをしていた。けれど、主役の彼はいつまでも船酔いなどしていない。物語が進むにつれ、オーロラ号の乗組員たちと数々の試練を乗り越えて確実に船乗りの一人になっていく。羨ましい。何日も、何週間も、何ヶ月も船で寝起きをすれば、人間誰しも慣れるものなのだろうか。そう言えば酒に酔う船乗りは出てきたけれど、船に酔う船乗りは登場しなかった。

 ジョシュアの父、トーマス・マーフィーは捕鯨船リンディスファーン号の一等銛師だ。これが最後の航海と一年前に北極海へ出航した。この航海が終われば土地を買い息子と二人で暮らす夢があった。

 幼い頃、母を亡くしたジョシュアは叔母の家で父の帰りを待っている。帰還する日が過ぎても、父の乗った船は帰ってこない。消息の知れない父を捜すためジョシュアは北へ向かうことを決意し実行する。手段は選ばない。それがただ一つ望みだからだ。

 望みはひとつあれば十分なのかもしれない。彼は北へ向かうことしか考えない。持ち物は父の残したコンパスだけ。

 北極海でオーロラ号は一冬を越すことになる。氷に閉じ込められて身動きがとれなくなるからだ。乗組員は寒さと空腹に耐え、アザラシの狩りをしてなんとか食いつないでいく。けれど、夏になっても氷に閉ざされた船をみなが一度は捨てる覚悟もする。

 北の海で暮らすイヌイットの人々の力も借り、オーロラ号はついに氷の海から脱出する。氷を割る作業は、とんでもなく原始的で船の甲板をみなが号令とともに、右へ左へと走ったり飛び跳ねたりする。捕獲したクジラの解体作業とともに強く印象に残った場面だった。

 ジョシュアにとってこの航海は、父を捜すことが目的だった。けれど、私には、この航海が始まった時から、父はジョシュアとともにいたような気がする。密航したオーロラ号の船長は、父とかつて同じ船で仕事をしている。そして、乗組員たちにも故郷に家族がいるだろう。ジョシュアの身の上に自分の子どもたちの面影を重ねることはたやすい。

 父が船乗りでなければ、ジョシュアの航海は始まらなかったし、またオートラ号にも乗る事も不可能だったように思うのだ。

 ジョシュアを待ってオーロラ号でもう一冬を越す覚悟をした、一等銛師のボブ・バロー氏とエドワード・サムナー氏に心から敬意を表したい。彼らの思いだけでこの航海は、ジョシュアにとって十分に意味があるとさえ私には思えた。

 そして、もうひとり。狩りができ、カヤックを操り、自分の意志と判断で行動出来るイヌイットの少女、シンヴァ。帰途につくオーロラ号が無事外洋へ出るためカヤックで水先案内をする彼女は笑顔だった。とても魅力的で印象に残った。

 父のコンパスは、帰途につく船上のジョシュアの手もとにはない。けれど、それに代わる、それ以上のものを彼は手に入れている。それは彼のこの航海を確実に象徴しているし、未来をも予感させてくれる。

 訳者のあとがきによれば、この物語の主人公、ジョシュアとイヌイットの少女シンヴァが成人して登場している新作もあるそうだ。翻訳出版を切に願うのは、私だけではないと思う。



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