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自分の好きに生きてよいのだということ





自分の好きに生きてよいのだということを
なんどもなんども忘れる




ずいぶん前に、ツイッターで出会った言葉。

正しい出典はいまだにわかっていない。


この言葉を、ふとしたときに、
なんどもなんどもハッと思い出すことがある。





私の両親は、お金の使い方に厳しい方だった。

と言っても、

他の親がどうしていたかなんてほとんど知らないので、独断と偏見によるものだけど。



まず、おこづかいはそんなに余裕のあるほど与えられなかった。

友人にお年玉の金額を聞いて、子どもがそんなに大きなお金を手にすることもあるんだ!と驚いた記憶がある。


月々のおこづかいを計画的に貯金すれば
やりたいことをやれたかもしれない。

けどわたしは、

「好きなことは、大人になって
自分でお金を稼いでからやったらいいよ」

と、何かの度に母から言われた言葉が
なんとなく頭にずっと残っていて、
ある程度の制限の中でお金を使った。

好きなことをしたい気持ちはありながらも
それが、子供ながらに理解できていたからだ。








またあるとき、姉がわたしに言ったことで、
今も忘れられない言葉がある。



「親のための人生じゃないよ。」

就職は地元でするつもりだ、
と話したときに言われた言葉だ。

わかってるよ、
ちゃんと自分で考えて決めてるよ。

そんな感じの言葉を返したんだと思う。







わたしは嫌な人生を生きてきたつもりはない。

飾らずにいられる友人がいて、
好きなことをして過ごす時間も持てて、
美味しいものも食べて。

好きなように生きてきたはずだった。
まあ、それなりに。






わたしの部屋には、
全然お気に入りじゃないモノが溢れている。
ちぐはぐな色のモノ。

地元で就いた仕事はすごくやりがいがあって、
この仕事を選んでよかったと思うのに、
周りに遠慮して、自分らしく働けていないと
感じることがある。


あの頃よりずいぶん大人になって、
あの頃に比べればはるかにお金も持っていて。

だからあの頃母の言っていたとおりに
好きにお金を使うこともできたのに、
そうはしなかった。

しなかったというよりは、
しないのが普通になっていた。

取り巻く環境が変わっても、
考え方は染み付いたままみたいで。





「好きに生きる」というのは、
なんとなくそれなりに人生を送ることとは
まったく違うような気がする。



部屋に置く一つひとつのモノ。

明日着る服。

誰と一緒にいるか。


どれもこれも、わたしの好きに決めていい。

「好きに生きる」とは、
積極的に「好き」を選びとることだ。



なんとなく誰かに合わせて過ごさなくていい。

あ、今無理してる、と思う場所からは
自分の足で、離れてもいい。





このことにきっと結びつくであろう
わたしの課題がある。


それは、「切り離す」ということ。



例えば。


「◯◯さんは前にすごくお世話になったから、
ご飯の誘いを断るのは申し訳ないなあ…」

みたいなことをすぐ頭に浮かべてしまう。


だけど、

すごくお世話になったことには
めいいっぱいに感謝して。

ご飯の誘いは、
乗り気じゃなければ
断る日があったっていい。




特に、時間とお金には限りがある。

この2つは、自分の中にある、
真ん中の気持ちに素直に従って使ったっていい。

できるだけシンプルに考える練習。








誰かに遠慮して身動きとれなくなったとき。

テキトーで溢れてる部屋に嫌気がさしたとき。

将来どうしようって悩んだとき。

誰かのものさしで幸せを語られたとき。




自分の好きに生きてよいのだということ。

何度も忘れちゃうかもしれない。

だから、何度でも思い出そう。


いつでも、いつからでも、

好きな夢を見ればいい。


いつかのわたしへ。