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a lot of facts



たくさんのひとが、
わたしのnoteをフォローしてくださっている。

今190人ぐらいになっていて。

そのことに気づいて嬉しい。



"フォロワーの数が多ければ良い"

とか、そういうことじゃないんだけど、
やっぱり嬉しいものは嬉しい。




それでちょっと考えたことがあって、
書き留めておきたい。

190人ぐらい、の記念に。






最近、初めて知った考え方があって。

自分を知るためには、
"ファクト"を集めることが大切だ。


というもの。




わたしはリアルな世界で、
まだまだ取り繕って生きている。

他人軸で生きてしまう。

というよりも、
誰かから見える自分を勝手に思い描いて
そこから離れられない。


そういう、
取り繕った自分に対する自己評価は、
もしかしたら正しくないのかもしれない。








meimeiさんという方が、「aikoに謝りたい」を引用してくださった投稿。


読み進めながら、なぜだか涙が出ていた。



「わかるよ」と言ってもらえた気がして。


気持ちの重なった部分と、さらに、
わたしにはない視点から深められた部分と。



わたしはいつだって、
「好き」と言葉に救われている。




noteを始めて、2年ぐらい経ったんだっけ。

ここは、わたしの"fact"が詰まっている。


知らぬ間に、積み重ねてきたものがある。



noteで言葉にしたいな、と思うような
自分の心の変化に気づけたこと。



知っている言葉をかき集めて、
自分の気持ちを表せたこと。



誰かが読んでくれるnoteを書けたこと。


全部全部、大事な"fact"

ひとつまたひとつ、
わたしが重ねたもの。




そんな風に大切にしてきた場所での、
フォローやスキは特別に嬉しい。

味方がいるみたいな気持ちになるし、
誰かに何かが届いたようにも思う。



実際には、

「いいね!」なのか、

「わかる〜。」なのか。

「また今度読もっと、」なのか。



わからないけど、嬉しい。






例えばそのどれにも当てはまらなくても、

"なんかいい"

と思ってもらえたのかもしれなくて
それがいちばん嬉しい。


それがわたしの思い描くカタチの"fact"だ。




「わたしの言葉の、
どこを好きだと思ってくれたんだろう?」


みたいなことを思ってしまうこともある。


他者の評価に執着するのは、「好きな自分」から遠ざかってしまう気がしてやめておきたいけど、

誰かがわたしのためにカタチにしてくれた言葉は、大切にしまっておくのも悪くないのかもしれない。





取り繕ってばかりの毎日だと息苦しくなる。

自分から見える自分が、
出来損ないに思えることもある。


だけどそんなときこそ、
自分の力で積み重ねてきた大切なものを
見落とさないでいたい。