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第一章 色鉛筆の魔法

プロローグ

私は"音"を失った。
母は残酷な知らせで立ち止まることができないと悟った。

(今から、この子ができないことをできることに変える力が必要・・!すぐ動かなきゃ。)

母はその時から、まず、言語を覚えることが不可欠であり、また、失った音をサポートしてくれる"補聴器"(今となれば、私の一生の「相棒」と言っても過言ではない。)を探すことだった。病院の紹介を通して、補聴器研究所を経営している人に会った。その人の名前は「ワタナベさん」。当時の私にとって、とても優しいおじさんのイメージだった。聴力検査を行い、聴力デジベル(聞こえるレベルなどを表す表示)を調べる。そのレベルを少しでも上げてくれる補聴器を探す。そして、補聴器を装着した後、私の前に絵のカードを配られ、私の背中からある単語を話してくる。口を見ずに聞こえる言葉が何を指しているのか、カードを当てる。そんなチェック方法で繰り返して、私の耳にダメージを与えないように微調整を何度もしてくれた。
今では補聴器の多様性があり、イヤフォンで長時間着用で耳が痛くなることで、補聴器をAV機器としてその人の耳のサイズに合ったオリジナルでオーダーして着用している人もいる。また、今ではほとんど見るようになったが、アーティストがライブで着用しているオシャレな耳穴タイプ。
1980年代~の補聴器ではそこまでの技術に達していなく、当時は箱型で母が胸の上にぶら下げるための四角い袋を作り、その中に機械を入れていた。そして有線コードがついており、丸い形をしたイヤフォンタイプで付けていた。もちろん、動いたり走ったりすると、機械も上下左右動いて体に当たるので、動きにくかった。コードも何かに引っかかると外れたりすることも多々あった。雨が降ると濡れないようにするのも大変だった。
実は、記憶があるのは、この「四角い機械」がとても嫌だった。すごく嫌だった。それだけは覚えている。

(なぜ、いつも私だけが付けていて、お母さんお父さんは付けていないの?)

この違和感が私に嫌気を突き付けた気がしたからだ。

病院や色んな訓練学校の情報を調べて、母が学校を選択したのは「筑波大学付属聴覚特別支援学校」の幼稚部だった。申請すれば普通に入学できる体制ではなく、かなり狭き門と言われており、小学校だけでも受験率30倍ともいわれており、幼稚部に入学するための"試験"では親子面接があった。当時の様子を母はこう言っていた。こんな質問をしてきたらこう答える。返事の仕方、座り方、入り方など練習を何度も。どんなに嫌がっても泣いても、この入学だけは取り逃してはいけない。と鬼になって指導していた。子どもは正直だから、自由で正直な行動を押さえつけすぎないことも母自身、注意していた。と語っていた。そして、父や母も打ち合わせをして、こう答えるように準備はしていた。
面接当日、お父さんとお母さんの関係を子どもに聞いたり、子どもに何を描いているのか、何をしたいのか、聞いていたけど、本番はしっかりと頑張って答えていたのを隣で「大丈夫、大丈夫」と思っていたと話してした。もちろん、言語を学ぶ前だから、補聴器を着用しているだけで、私が答える発音はきっと普通の人から聞いたら、何を話しているのか伝えたいのかわからないと思う。この時の私の記憶は残念ながら、ほとんど覚えていないため、無意識ではあったけども、きっと母に手を引っ張られながらも、目の前にあることを何とかやり通していかなければいけない”必死”があったんだろう。それでも、伝えることを大事にする母からの指導はその時に効果が出たのかなとも思う。

結果、入学が決まった。

4月の桜が満開、新しい学校で新しい人と出会う日を迎えた。私は紺のジャケットに短パンで髪の毛はセミロング。クラスごとの写真撮影。母は私の後ろに立ち、前を向くように背中に手を当てる。

私の隣を見ると、私より背が少し高い男の子、もう一人は天然パーマでクルクルとした髪の毛をした男の子、そして、私含めて3人のなかで一番小さい女の子。男の子2人、女の子2人、母4人が揃って8人。最初で最後の入学写真。

私はクラスのメンバーがどういう人かまだわからなかったけど、1つだけ彼らが話していることがわかったのは、話したいこと、言葉がどんなに発音ができていなくても、「何を言いたいのか」「何を伝えたいのか」が理解できていたこと。
補聴器を装着していたから少し聞こえていて分かっているからではない。声に出して口を大きく動かして話すだけでなく、体や表情を表現することが豊かだったから。
大人が話す言葉は表情を無くしたり、隠したりして話す。それが実は何を伝えたいのか伝わりにくいことで、勝手に私の脳でこうなの?こう言ってるの?と聞き間違える。なかには人の話を聞いていないことも、もちろんあったと思う。ただ、当時の私は聞いていないのではなく、相手が話している言葉1つ1つと話している表情が合っていないから。それが難しくさせる。

母にとっても入学が初めて。私にとっても入学が初めて。
ここから母も私も同じスタートラインに立って、”教育”を学ぶ。
私のクラスの担任の先生は当時大変若く、私たちが初めて担任を受け持つことになったという20代の男性の先生。

通学は母と一緒。帰りも一緒。私の家は東京都。学校の場所は茨城県にあったため、朝5時頃家を出て、母の手に引かれて眠いなか電車に乗っていった。どんな天気でも。
授業中も母がずっと後ろで授業参観のように見学していた。私の母だけでなく、クラスの子たちの母たちも毎日いた。学校に行く日ずっと、授業が終わるまで見学していた。時に何かノートに書きだしたり、時には母たち同士で話していたり。

当時、先生の最初の授業では発音の確認の仕方、舌と声の出し方を教えていたが、これといった特別な指導が見当たらなかったと母が言っていた。クラスの4人の母たちは家庭では教えられないことを「教える」ことが先生の仕事だと思ったからだ。若い先生であり、そのことを言われた時、全員の母たちはその先生に対して「不満」を持ち始めて、「基礎ばかりで、もっと別の方法で話し方や伸ばし方を教えていただけませんか?」と発言し始めた。

先生はクラスの4人の母親たちにこう言った。

「教えるのは先生の仕事ではなく、お母さんたちです。あくまでも学校は基礎だけを教えます。ですから、これから子供たちが成長していくためにはこの学校にいる以外の時間でたくさんお母さんたちが教えてください。基礎ではなくて、たくさん言葉を教えてください。何が起きて何があったのか、何をしたいのかたくさん話してください。そして、学校に来たときに何を教えてくれたのか何を話していたのか、子どもたちから聞きたいです。」

学校に行くと必ず、先生に提出するノートがあった。
それは、毎日書く「絵日記」
絵日記を見せて、1人1人先生に向けて、その絵日記を見せて話して読む。
子どもがどんな時に何が嬉しくて何を思ったのか、何を言いたいのか、絵日記を書くことで、話すことで練習を毎日繰り返していくからだ。
今でいえば「ルーティンワーク」といったもの。その形が「Twitter」だったり、インスタグラムだったりと形式上は変わるかもしれないが、やり方は変わらない。

その絵日記で字を書く、絵を描く技術も磨きが出てくる。例え、その絵が下手であろうが、1年ずっと書いていると必ず描けるようになってくる嬉しさ。書ける字が増えてくる嬉しさ。当時の私はそれが嬉しかったのを覚えている。

「繰り返して繰り返して、できるようになる。できるようになったら、少し自分に自信がつくようになる。自信がついたら、新しい1つのブロックを追加してできるまで繰り返す。」

それは決して、障がいを持っているからだけじゃなくて、どんなことでも通じる決して裏切らない「努力」から生まれる。私は「努力」をどういうことか絵日記から教えてくれた。

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