無礼で非倫理的な路上写真の明けない夜明け Interminable Amanecer de la fotografía callejera sincera y no ética または、はかなくもしたたかな蒼氓と小賢しく横暴な大衆との間で
本作は単体でも十分にお楽しみいただけますが、note掲載の短編「時に俺は叫ぶよう感じる Falta de ocasión sexual」の続編です。
前編も合わせて読んでいただけると、より深く楽しんでいただけると思います。
1:夢の街 Ciudad de sueño.
駅向こうは再開発が一段落し、いちおう入居も始まっていた。引越し業者のトラックを避けて階段を登ると、マンションポエムのドリームランドに飲み込まれる。俺の全存在を拒絶するかのような公開空地の入り口で、芝居がかったため息ひとつ。そのすぐ横を「ワオォォォゥ! ユゥメットゥピアァ!」と表記するのが精一杯の奇声とともに、若い女が全身の肉を揺すぶりながら駆け抜ける。追いかけるかとバッグを肩に掛け直したら「ダイジョウブ」と呼び止められた。大きなサングラスの下から見事に整った歯を見せつつ、褐色の女性が楽しげに笑っている。
成田からずっとあの調子なの、と半ば呆れ顔でサングラスを治す彼女は、ソーシャルのポストそのままに可愛らしかった。そんな彼女から「来月には日本へ行くので、案内してほしい」とメッセが届いたものだから、自分の年齢も忘れときめいてしまったことも思い出している。それが、メッセの末尾に『恋人とふたりで楽しみにしています』という文字列を目視するまでの、さらにその恋人が巨漢と言ってもかまわないほどに大柄の女性、それもほとんどテナーに近いドスの利いた声の持ち主と知るまでの、儚く手前勝手な胸の高鳴りだったとしてもだ。
いちおう、ソーシャルのムービーで動くところをみていたし、声も聞いていたのだが、実際に対面すると圧倒的としか形容できない。身長そのものは俺より低いらしいが、ヒールであっさり逆転されていた。そんな大きな恋人が、どうやら「夢とぴあ」を意味しているらしい奇声を発しながら、身軽にぴょんぴょん飛び跳ねる様は……乳と尻……いや、そういう問題ではないが、不必要に性的な雰囲気を醸しているように思えてならない。特撮番組のロケ地だったかつての再開発地区を案内しながら、違いの体格差を補い合うように振る舞うふたりにあてられている。
番組に登場した場所をひと通り案内し終えると、きょうはおひらき。ふたりをホテルまで送って、俺は自宅でちょっと作業するつもりだった。しかし、サングラスの彼女は巨漢の恋人に呼ばれ、なにごとか話し込んでいる。やがて、彼女は俺に歩み寄ると「もうひとつ案内していただきたいロケ地あります。いまからいけますか?」と言いながら、申し訳無さそうにタブレットの画面を見せた。それは、コピーを重ねてざらついた画像の円形広場だったが、俺は即座にそれがなにかわかった。
「また、これはえらく古いと言うか、マニアックなネタ持ってきたな。ちょっとそれかして」
相手の日本語能力を考えず、思い切り素でしゃべってしまった俺に、サングラスの彼女は困ったような口元でなにかもごもごいってたが、結局は差し出した俺の手にタブレットを渡す。俺は施設の名前を入力し、ウィキペディアの項目をみせた。日本語しかなかったものの、それでも『閉園』の文字と封鎖されたメインゲートの画像で事情は理解できたようだ、タブレットの画面を指差しつつ恋人になにごとか言うと、ふたりで大げさに肩をすくめて手のひらを上にして、しっかり抱き合う。
俺はほとんどあっけにとられながら、サングラスの彼女が「ありがとうございます。完全に理解しました」と例を言うまでふたりをただながめていた。
ふたりに街を案内しながら、ホテルまで歩く。お土産があるというのでキャリーバッグやらなにやらをさんざんかき回して大探しするふたりにまたしてもあてられ、ようやく出てきたマグカップと野球帽を受け取ったときには、すっかり日も傾いていた。
明日は俺がサングラスの彼女を撮影するので、待ち合わせ時間に場所の確認を終え、もう自宅作業どころじゃなくなっちまったなぁなんてぼやきを飲み込みつつ部屋を出たら、不意にドアが開くとサングラスをはずした彼女が飛んできて、抱きつきながら両頬にキスをしてくれた。
豊かな胸の感触を意識しないように必死で、たどたどしく「¡ミル グラシアス!」と返す俺に、彼女は「どうもありがとうゴザイマス。私たちは心から感謝します」と言いながら、さらに腕の力を強くする。これ以上はいけないと思ったところに、チャッと音を立てドアロックがかかった。
あわててインターホンを押す彼女、下着姿でドアを開ける恋人、そしてどうしたらいいかわからない俺の目の前で、ふたりは「あしたぁ、よよしくおんがいしまつ」と言いつつドアを閉めた。
2:構え、観て、撮る ¡Sostenga, enfoca, dispara!
彼女に大まかな立ち位置と体の向き、目線を指示すると、俺は軽く足を開いて腰を落とし、慎重にピントを合わせてシャッタを切った。
パシャ! きゅぃぃん。
裏路地に響く金属的な巻き上げ音を追いかけるように、指を3本立て『さらに3カット撮る』とジェスチャーしたが、意味は伝わったようだ。にこやかにうなずく彼女に手のひらを向け、わざとらしく口をきっと結んで「シン、ソンリーサ」と下手くそなスペイン語で声をかけたら、彼女はニヤリと口元をゆがめ真面目な顔を作り直した。
パシャ! きゅぃぃん。
パシャ! きゅぃぃん。
パシャ! きゅぃぃん。
先ほどと同じ金属音が3回響き、俺はファインダから目を離して彼女を手招きした。
「ソステンガ! エンフォーカ! ディスパラ! コモ、ウン、ピストレーロ」
背後からほとんどテナーに近いドスの利いた声が響く。
……構え! 狙い! 撮る! まるでガンマンみたい……
てなところか、日本語だと。
せっかくだからなにかスペイン語で返そうかと口を開く間もなく、呆れるほどの早口で彼女が厳しくなにかをまくしたてる。後ろの声もまけない勢いで言葉をまきちらし、ダブルステレオサラウンドで激しい言葉が前後から俺を包み込んだ。たぶん英語なのだろうと思うけど、むき身のラテン英語と黒人英語がぶつかりあったら、非ネイティブの俺がついていけるはずもなかった。
やがて、言葉は調子を落とし、ねっとりと絡みつき、甘えるような響きをまとい、そして彼女とドスの利いた声の主は抱き合って、互いの肩を叩きながら唇を交わした。俺はただあっけにとられて、そのさまを写すわけでもなくその場に立ちつくしている。
「撮りなさい」
「え! いいの?」
ごつく大きな背中の向こうから顔を出し、いまさらなにをと言わんばかりの彼女に「わかった、わかった、でもちょっとまって。それじゃふたりが画面におさまらないよ」と返しつつ、思い切り後ずさって構図を決める。
ドスの利いた声の主は彼女の恋人、それも巨漢と言ってかまわないほどに大柄で豊満な女性だ。いちおう、身長そのものは俺より低いらしいが、厚底スニーカーであっさり逆転される。
そんな恋人氏は、なにかおもしろいこと、興味を引くものをみつけるたびにスタンダップコメディアンのように早口でほんまもんの黒人英語をまくし立てながら、黒檀色の手足を大げさに振り回す。
おかげで豊満そのものな……乳と尻が……いや、もちろんそんな眼差しは失礼千万なのだけど、不必要に性的な雰囲気を醸しているように思えてならない。そればかりか、ぴちぴちレギンスパンツ姿の上、この東京にはドスの利いた声の主にとっておもしろく、興味を引くものがあふれているのだ。
彼女は恋人より頭ひとつぶんくらい低く、まるい頭には不釣り合いな黒いセルのフォックス。ただ、肉感的な唇と、メガネごしにも愛嬌たっぷりのくりっとした目が印象的だった。
きょうは彼女たちが熱心に取り組んでいる性労働者人権擁護運動の赤い雨傘をプリントしたシャツにデニムのローライズパンツという、ラフでカジュアルだけど妙にセクシーな出で立ちだった。おまけに彼女も恋人にまけないほど豊満な、シャツのスローガンが引き伸ばされて読みにくくなってしまうほどのバストを誇示している。
そんなふたりが、違いの体格差を補い合うようにむつみ合うようすに、俺はすっかりあてられていた。
狭い路地裏でひとしきり撮影すると、ラブホテル街へ移動してふたたび撮り始める。ところが、平日の午前中というのに人通りが多く、思ったようにはシャッターを切れない。金属音を響かせるモードラ付き一眼レフを持ち出したのは失敗だったが、いまさら後悔しても始まらなかった。
「ごめん、場所を変える。また少し歩くよ」
俺が告げると、彼女は日本語を解さない恋人へ通訳する。なにか、妙に言葉が増えているような気もするが、あまりに気しない。
滑稽なほど露骨にがっかりした様子の恋人氏は、なにか悪態をついているようだが、彼女はただ笑い飛ばすばかり。
「気にしないで、私の美しい人が『どこまで歩くのよ?』って文句を言うから、東京の果まで、カメラを持ったガンマンが音を上げるまでよっていってやったの」
恋人氏の悪態も、それに応じた彼女の言葉も、それよりはずいぶん長かったような気がするし、コンバットフォトグラファーは大げさにもほどがあるけど、やっぱり気にすまいと決めた。
そうして彼女が恋人氏へ背を向けたとたん、ドスの利いた声の主はローライズパンツのヒップをくいっと引っ張り、やたらと嬉しそうに「ノ、メ、アレピエント、デ、ナダ」と俺に笑いかけた。
彼女の背中には見事なグアダルーペの聖母が彫り込んであり、腰周りにも『わたしはくいあらためない』を意味するタトゥーが刻まれている。それが「ノ、メ、アレピエント、デ、ナダ」だった。俺はアメリカのアダルトフェスで彼女と最初に出会ったとき、ホテルの部屋でそのタトゥーをみせてもらっている。
とはいえ、ここでそんな話をするのもどうかと思うし、反応に困りながら曖昧な微笑みを浮かべていると、彼女はちょっとばかり恥ずかしげに「グアパはみんなしってるから、気にしないで」とつぶやいた。
くいあらためない、この場合は後悔しないだろうな。そして、グアパ。
……なんたる惚気……。
返す言葉もなく、ただひたすら困っている俺を見た恋人氏が、彼女へなにかささやきかける。
彼女はグリグリと恋人氏の腹に拳を埋め込むと、俺の耳元へ口を寄せてつぶやく。
「グアパったら、ホテルで私のタトゥーを撮ってもらいましょうって、ピストレーロにグアパの心を撃ってもらいましょうって、そんなこというのよ」
「え! いいの?」
ふたたび、いまさらなにをと言わんばかりの彼女が「だいじょうぶよ! だってグアパがいっしょだから」と言葉を添えた。
「でもコラソンって、心じゃないよね」
「そうよ、グアパが言うコラソンは恋人だけど、わたしたちふたりの心でもあるのよ」
言いながら、彼女はレンズに満面の笑みを向けた。
3:無礼で非倫理的な路上写真の明けない夜明け Interminable Amanecer de la fotografía callejera sincera y no ética.
よせばいいのに、自分が生まれる前に作られたフィルムカメラたちを引っ提げ、俺は雑踏に潜り込む。
きのうはサングラスの彼女を路上撮影したあと、成り行きでホテルでも撮った。最初は背中のタトゥーだけだったのが、恋人があおりまくったせいか、気がつけばふたりともフルヌードで、おまけに絡みも撮影したもんだから、色んな意味で消耗してしまった。なにせ、そのまんまおっぱじめかねない勢いだったし、盛り上がりだったから、もしかしたら混ぜてもらえたかもしれないんだけど……まぁ、その、なんだ、きっかけというか、そういうときは『サイン』がなければ動いちゃいけないってのが、俺には染み付いている。それに、ふたりの活動や職業を考えると、うかつなアプローチは慎まねばならないのも、また明らかだった。
もしかしたら、どっちかが『サイン』を出していたのかもしれないけど、それならそれで、また別の機会もあるだろう。
ふたりと合流する前にそんなくだらない欲望というか、雑念を払おうと、俺は裏路地を数カット撮影して公園に入り、熱心にスマホをながめている人にそっとシャッターを切ってから、こんどは振り向いて反対方向から路地をみると、ダンボールを抱えた人々が列をなしていた。アリの行進めいた姿がちょっとおもしろく、カメラを持ち替えて2ショットほど撮ったところで背後から呼び止められる。
「ちょっと、いま撮ってましたよね」
襟元をくつろげたノーネクタイのワイシャツにネイビーブルーのスラックスという、いかにもサラリーマン風の男が、スマホを構えつつ近寄ってきた。その段階で悪意というか敵意しか感じないが、どうやらネームプレートをしまい込んだらしく、胸ポケットに金具がちらっとみえたのも、やる気まんまんすぎてうんざりする。
とりあえず、こういう手合はいらだちをみせたら負けだ。つとめて明るく、ちょっと脳天気なぐらいに「えぇ、撮ってましたよ」と、笑顔で答える。
「うちの社員を撮ってましたよね」
名札を隠したまま畳み掛ける男に、笑顔のまま「そうなんですか?」と応えたら、いきなり大きな声で「盗撮ですよ! 削除してください!」と来やがった。俺は『ほほぅ、そうでたか』と思いながらも、いちおうしおらしい表情を作って「申し訳ないんですけど、これはフィルムカメラなんですよ」と手に持っていたカメラをみせた。
「じゃ、フィルムを抜いてください」
あくまでも高圧的な男に、流石の俺もいささかかちんと来たので、カメラをはたき落とされないようにぎりなおしつつ「わかりました。ただ、最近はフィルムも高いので、そこの交番で警官に立ち会ってもらうなら、フィルムを抜いても構いません。ただ、自分は公園から撮っていたの、そちらのスマホにありますよね。それから、そこまで言うなら名前と所属くらいはお示しいただけませんか?」とあくまでも笑顔で返した。
すると、男は急に腰が引けて「あ、いや、そこまでは……」とか、もごもごし始めたので、これ幸いと「じゃ、自分は交番へ行きますよ」と言い捨ててその場から逃れた。
それにしても、なにがどう盗撮なんだか。公園から路地を撮って盗撮だったら、スタジオ撮影以外は全部そうだろ。
どんなだいじな荷物なんか知らんが、だったら路上で手運びさせんなよ。
まぁ、ほとんどの『善良な市民』にとって、ストリートフォトはすでに社会的規範から逸脱した行為なんだろうと思うが、それでもこういった小市民的な権利意識や雑で頭の悪い規範意識に悩まされ、苛立たされないといえば、それは完全な嘘だ。
お前の権利意識はただの身勝手だ!
お前の規範意識はただの不寛容だ!
怒鳴りつけたくもなったが、その場を曖昧な笑顔で流すしかなかった自分が、ただただ情けない。
それより、いまは待ち合わせが優先だ。つまらん人間を相手に時間を無駄にしてしまった。
約束の場所に行くと、すぐにふたりの姿がみえた。
「ごめぇん、まったぁ?」
声をかけた瞬間、ふたりとも腹を抱えて笑いだす。サングラスの彼女もそうだが、恋人にいたっては、笑い袋めいたドスの利いた声を振りまきながらぴょんぴょん飛び跳ねるものだから、だんだんまわりに人だかりができてきた。やがて、周囲の人達に気がついたサングラスの彼女が恋人の手を引いて人の輪から抜け出し、俺の方へ歩み寄る。
「なにがそんな面白かったの?」
サングラスの彼女はまた吹き出しそうになったのを必死にこらえつつ、どうにかこうにか「ア・ニ・メ、みたい、だ、た」と、切れ切れの言葉を絞り出した。
頭の中で言葉を再構成した瞬間、俺も笑い出しそうになったが、なんとかがまん。それに、顔はくしゃくしゃだったけど「シ クラロ エクサクタメンテ」と返したんだから、まぁ上出来もいいところだったろう。
どうやら、俺がなにを言ったのかしきりに訊いているらしい恋人を人気の少ないビルの影へ引っ張りながら、サングラスの彼女は呼吸を整える。あたりを見回してから、恋人になにかささやきかけると、またドスの利いた高笑いがビルの谷間にこだまする。サングラスの彼女は恋人の腹に拳をめり込ませて、巨大な笑い袋のスイッチを切った。
そんなあれこれの末に、ようやく散歩撮影が始まった。
まずは定番の路地裏と言うか、表通りからちょっと奥に入ったぐらいのところで、夕方にならないと店を開けないような個人営業の飲み屋や、その壁面やら落書きやら、そんな落ち着いて撮影できそうなあれこれにレンズを向け、いいかげんテンションも上がってきたところから、表通りの雑踏へ向かう。
サングラスの彼女は、慣れた調子で型落ちの小型デジタル一眼レフを操っているが、暗めの標準ズームだったから、路地裏ではちょっと苦労していたようだった。でも、表通りでは調子良くシャッタを切り、楽しく撮影を進めているようにみえる。意外と言っては失礼だが、恋人氏も型落ちだが性能には定評ある高級コンパクトデジカメを持ち出し、太くてゴツい指を器用に操りながらリズミカルに撮影を進めていた。
通りかかったデパートのショウウィンドウをみると、貼り付けられたキャッチコピーのロゴと、からくりじかけで動くディスプレイが、複雑な陰影をなして通行人の目を引いている。サングラスの彼女と恋人も足を止め、しばらくディスプレイをながめていたが、やがてウィンドウに映る互いの影を撮り始めた。
俺は感心しながらも、しばらくふたりを興味深くながめていた。そのうち興が乗ったので、互いにシャッターを切り合うふたりを雑踏の中から撮影したり、ウィンドウに見入る人々を撮ったりし始める。満足したらしいふたりがウィンドウから離れ、俺に歩み寄ってきたので、次はどこへ行こうかと考えながら固まって歩く。
そこに「ウェイト! ウェイト! ちょっと待ってください」と呼び止める声が聞こえた。
……ちぇ、またかよ……
俺はそれでもなんとか笑顔を作り、ちょっと脳天気なテンションで「はい、なにか?」と答える。みると、俺を呼び止めた若い男の後ろから、ベビーカーに赤ん坊を乗せた女性が不安げにこちらをみていた。
「撮ってましたよね? よかったら、みせていただけませんか?」
おだやかに語りかける彼に、俺はできる限り申し訳なさそうな声で「すいません、フィルムカメラなんです」と言って、持参したカメラを2台ともみせた。
「デジカメじゃないと、観られないんですよね」
困り顔の若い男に、俺は「そうなんですよ」と無意味な合いの手を入れつつ、ひとつのカメラを差し出し「撮影していたのはこれです」といいそえる。黒い立方体に銀色のカップがくっついたようなカメラを突きつけられ、途方に暮れはじめた若い男に、ちょっと大人気なかったかなと思いはじめたところ、後ろの女性が「もしかして、すごくいいカメラじゃない? たぶんだいじょうぶよ」なんて、救命具を放り込んでくれた。
若い男に連絡先と画像掲載サイトを記したカードを渡し、最後は互いに例を言って別れたが、もしかしたら舶来高級カメラの神通力というか、ブランド力に助けられたのかもしれない。
「だいじょうぶ、ですか?」
心配そうなサングラスの彼女と恋人に「だいじょうぶ、でも場所を変えます」と告げ、歩行者天国へ向かう。サングラスの彼女と恋人はなにか話し込んでいるようすだったが、気にしても仕方ないので先を急ぐ。またずいぶん歩かしてしまったから、おおかた文句や愚痴なのだろうけど、こういうときは言葉が分からなくて助かっているように思う。すると、こんどはふたりでくすくす笑いはじめた。
「恋人がね、こんどあなたに会うときは、トレッキングシューズを履いてこなくちゃって言ってたのよ」
説明してくれたサングラスの彼女に、俺はあいまいな笑顔で「ありがとう」としか返せなかった。
すべってはいない。
むしろ面白かった。
ただ、もう東京でふたりとあう機会はないだろうとか、そんなやくたいもない予感が、俺の思考にも感情にもからみつき、じわじわ縛り上げている。ただ、それでも『また会えるといいね』なんて、すべてを台無しにする空虚な言葉はしっかり飲み込み、吐き出さなかったのだから、それだけでも良しとしなければならないのかもしれぬ。
問題は、とまどった表情で困りはじめたサングラスの彼女と、すっかり冷え切っちゃった楽しい雰囲気を、どう立て直すか?
だったが、俺が口を開くより早く、恋人氏が眼の前に飛び出て、人差し指を立てながら「ワレワレは、カナラズ、クル、トーキョーに! アゲイン! アぁンド、アイマス、オマエに。ガティ?」と満面の笑みで言葉を投げつける。俺はそんな恋人氏の剣幕に驚き、せっかく我慢できてたのに、つい「なんでわかったの?」なんて口走り、やっぱりぜんぶだめにしてしまった。
ところが、いつものように恋人氏がサングラスの彼女から俺の言葉の意味を教えてもらい、またなにごとかささやきあうと、ふたりでくすくす笑いあいながら、互いを小突き始める。なにがなんだかわからず、置いてきぼりの俺をみながら、恋人氏は説明するのはあなたの役目と言わんばかりに、サングラスの彼女を軽く押した。
「私たちの仕事は知ってるでしょ?」
思いもよらぬところから話を始めたサングラスの彼女に、俺は「もちろん」と、しっかりうなずいた。
「ほとんどのクライアントは、また会いたいって言うね。でも、ほんとうにオファーするクライアントはほんのちょっと。お金を払わず会いたいいうクソのほうが多いの」
俺はなにも言わず、ただうなずいた。
「さっき、あなたはそんな嘘つきクライアントをみる『ワタシタチ』みたいな顔をしてたの。わかる?」
最後まで聞き終えた俺は「あちゃー」と言いながら、両手で顔を覆い、そっぽを向いてしまう。だが、俺が体をひねるより早く、ふたりはまた大笑いし始めていた。
「あちゃ、あちゃですね。ほんとに顔かくす。アスキーアート同じ。素晴らしいです」
興奮するふたりに、俺はもうどうしていいのかわからない。
ひとしきり笑ったあとで、また歩き出す。
歩行者天国が始まる交差点に入ると、そこここに日傘付きガーデンテーブルと椅子が設置されていて、沿道の店が屋台を出しているばかりか、キッチンカーまでみえる。人だかりがする方に目をやると、ストリートミュージシャンがアニソンかアイドルソングっぽいアップテンポの曲を流していた。
俺とサングラスの彼女、そして恋人は立ち止まって、ここでは集合場所と時間を決め、思い思いに撮るのがよいだろうと話し合った。もちろん、サングラスの彼女と恋人ははじめての土地だし、案内も標識もろくに読み取れないから、やっぱり俺が案内したほうがと思わなくもなかったのだけど、当人たちが自分たちでやれるだけやってみたいと言ってるんだし、いざとなったら携帯でもメッセンジャーアプリでも連絡が取れるんだから、自分も好きに撮ろうと考えた。
まぁ、ホコ天の端から端まで撮りながら往復するだけで、店に入ったりしないし、特に恋人氏は雑踏の中でもよく目立ったから、見失う心配はまったくなかった。むしろ、俺が夢中になりすぎて、時間に遅れるほうが心配なくらいだった。
それにしても、ひさびさに撮影するホコ天は気持ちが高まる。これだけの人出となったら、ニューヨークのストリートフォトグラファーみたいに正面からバシッと決めたくなるが、東京ではそうもいかない。なにせ、立ち止まって人垣の脇からチャリっとシャッターを切っただけでも、通りがかりのおっさんが「おう、激写してるね」なんて冷やかしとも警告ともつかないような声をかけてくる、そんな街なのだから。
それに、フィルムを巻き上げる動作ってのが、思った以上に人目を引いてしまうのも、予想外の障害となりそうだった。クランクをぐるりと回すのはもちろん、レバーでさっとフィルムを巻き上げても、好気や警戒の目線を引きつけてしまうのは、どうも嫌な感じがして、高まった気持ちも急速に萎えてしまうような、そんな気になっていた。
ただ、フィルムの残りもわずかだし、ここで撮り切ってしまおうと、ホコ天の終端近くにたむろする人々へ近寄り、下からしゃくりあげるように軽くあおってシャッターを切った。
同時に「うわっ! めっちゃ盗撮された!」と、若い女の声が響く。
……最悪……きょうはホンマにツキがない……
腹をくくって声の主へ歩み寄り「申し訳ありません、これデジカメじゃないんで消せないんですけど、もしお望みならフィルムを処分しますよ」と告げる。声の主はちょっと驚いたようで、やや足を早めながら「いいえ、結構です」と断った。念のため連絡先と画像掲載サイトを記したカードを渡そうとしたが、それも断って逃げるように立ち去ってしまう。
やれやれ、こんどこそフィルムを抜くしかないかと思ったけど、助かったというのだろうか?
そんな思いをもてあそびつつ振り返ると、恋人氏がなにか言いたげに微笑んでいた。
もしかして、恋人氏がみてたから、声の主は立ち去ったのかな?
いや、それはないだろう。俺がくだらない自問自答をしている間に、恋人氏はなにごとか話しかけている。癖のある英語で、やっぱりうまく聞き取れないが、どうやらなにが起きたのか知りたいらしいのはわかった。
「ソーリー、アイ キャント エクスプレイン ウェル。ハウエバー、ストリートフォトグラフィー イズ コンシダード アンエシカル イン ジャパン」
なんとかがんばってそれだけ言うと、恋人氏はただでさえまんまるな目をさらに見開く。
「エシィックス?」
「ワァァット ダァズ エシックス イーブン ミーン ザウ?」
ほとんど叫ぶように言って、そこから先の言葉をもごもご飲み込んだ。たぶん、辞書に載ってないような言葉だったろうし、理解できなかったろう。いまの言葉だって、ちゃんと聞き取れたかどうだかわからない。
どう応えたもんだかと、口をパクパクさせている俺に、恋人氏はゆっくりと、区切るように話しかけた。
「エシックス アーント ネセサリー」
「エスペシャリー ドント ニード ノー マジョリティ エシックス」
俺はできるだけ力のこもった笑顔を作って「シ クラロ エクサクタメンテ」と応える。とたんに恋人氏は大笑いして「ノーノー ノースパニッシュ」と言いながら俺を抱きしめる。そして、俺の耳元に「ザット イズ ハウ ウィ セイ イット イン イングリッシュ 『オフコース エクザクトリー』 ユーノウ」とささやきかけた。
俺は全身がすっかり緊張してしまい、言葉もなにも返せないまま、止めるまもなく必要以上に固くなってしまった部分に恋人氏が気が付かないよう、体の位置をずらそうとしていたら、もういいよと言わんばかりに背中をぽんとたたかれ、両肩にそえられた手で振り向くようにうながされる。
全身コチコチのまま回れ右をしたら、サングラスの彼女が大笑いしていた。
「あなたたちがなかよく会話してる。ほんとうによかった」
そう言いながら、サングラスの彼女は恋人へ歩み寄り、なにか言いながらかるくこずいた。そこからはもう、いつものふたりのいつものやりとり。俺も安心してふたりをみながら、そろそろお開きかなと、スマホを取り出して時間や通知を確認する。明日、ふたりは東京から次の目的地へ旅立ってしまう。
ちょっとセンチメンタルな気分が湧き上がって、なにかしゃれた挨拶でもひねり出せればとも考えるが、それよりも東京土産を用意していないって思いいたってしまったもんだから、自分の詰めの甘さにげんなりしてしまった。
まぁいいさ、これも、いやこれこそが、俺の人生ってもんだ。
肩にかけていたカメラをバッグへしまい、そろそろホテルへ戻る時間だとふたりに告げる。すると、夕食を一緒になんて、思いがけないお誘いをいただいた。
「でも、時間がないでしょう?」
戸惑う俺に、サングラスの彼女は「ノープロブレム、デパートのテイクアウトをホテルで食べましょう。あなた、案内しますよね?」と、やけに艶っぽく微笑んだ。もちろん、喜んでと応じる俺に、彼女は続けて「ありがとう。そして、夕食の後でワタシタチを撮って欲しいのです。できれば。そして、私のカメラで」と言いながら、恋人の手を取って俺の肩に乗せた。
自然と互いに抱き合い、そこへサングサスの彼女が「素敵な夜に、素敵な写真を取りましょう」とささやきかける。
俺はただゆっくりと、力強くうなずく。
了
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