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言葉が通じない怪獣を撮影してもすべて不同意

 雨は降らなかったが、きょうも朝から重たい雲が低く立ち込め、梅雨明けはまだ先のようだった。
 ゆっくりと、だが確かに明るさが失われゆく街頭の片隅で、それでも彼女のスマホはギラギラと、粘るように輝いていた。やたらに小さく体に張り付いた怪獣コラボカットソーに、大きなお尻をぴっちり包んだリブ編みのショートパンツは、やけに肌を露出してる割に、セクシーと言うよりは危なっかしさを漂わせてる。
 その危うさを活かすよう腰だめノーファインダで構図を合わせながら、すれ違いざまにシャッタを切る。そして、きょうはこれでおしまいにしようと思った。蒸し暑い昼下がりから、日差しが衰える夕方近くまで撮影してるのだから、体力的にも潮時だろう。なにより、俺自身の集中力が完全に底をついていた。
「おい! いま撮ってただろ?」
 ん? なんだ?
 声をかけられたような気がしたので振り返ると、髭面の小柄なおっさんがニヤつきながら俺を睨んでいた。
「盗撮だぞ! やっちゃいかんの、わかってるだろ?」
 疲れてるところに不意打ちをくった俺は、状況を把握しそこねた。勝ち誇ったような顔でのおっさんに「盗撮してたよね。と・う・さ・つ」と畳み掛けられて、ようやく俺は事態を理解したが、なにか言ってやろうと思うまもなく、すっと彼女がやってきて「なにが盗撮なんですか?」と、おっさんをにらみつけていた。
 おっさんちょっと驚いたようだが、それでも「いいんですか? このひと撮ってたんですよ! あなたを盗撮してたんですよ」と、俺を指さして犯罪者あつかい。だが、彼女が「撮ってもらってたんです。こういう撮影なんですよ」と笑った瞬間、他人を小馬鹿にしたようなおっさんの笑顔は消え失せる。
 逃げるように、無言でその場を立ち去ろうとしたおっさんへ、俺は「こんどからちゃんとファインダみますね」と声をかけた。
 それでもおっさんは「盗撮は良くないよ。盗撮は……」なんて、わざとらしく聞こえるようにぶつくさ言いながら、雑踏の中へ姿を消した。
「拙者、あぁいうクソみたいな小市民的正義感を振りかざす連中が心底にくいでござる。首をはねたくなるですよ」
 そう言って彼女はつばを吐く真似までする。そして、彼女がときおり見せる、ファインダをつらぬいて俺の網膜を焼くかと思うほどに攻撃的なまなざしを、おっさんが歩み去った雑踏へ投げかけていた。
「おいおい、それじゃならやたかしのマンガだよ」
 言い終えないうちに、今度は彼女のまなざしが俺を刺し、つらぬく。
「それはまったく違うでござる。ケンペーくんこそ小市民的正義感の雑で頭の悪い規範意識そのものでござらんか? しかも、暴力でスカッとジャパンな倍返し。どこからどこまでも小市民にこびた作品を、それもわかった上で題名ではなく作家名で遠回しに言うあたり、オタクのいやらしいしゃべり方そのまんまでござる。拙者はおじさんのそういう話術がむしろ好きでござるが、いまはそうではないのでござる。むしろいらだってしまったでござる」
 そこまでほとんどひと息に言い放つと、照れくさそうに目を細めた。
「ごめんごめん、こないだの即売会で『小市民的正義感の雑で頭の悪い規範意識』にやられたんだったね」
「さよう。拙者が権力者であったら、法の外に追いやりたい連中でござった」
 口に出すのも忌々しげな彼女をみながら、俺はその出来事を思い返していた。

 彼女が即売会でひどい目に遭ったのは先々週だった。俺はその場にいなかったが、帰りに合流して話を聞いた。
 実に陰湿な嫌がらせで、俺も自分が体験したかのように腹を立ててしまった。
 まだ、ちょっと記憶が生々しい。
 そういえば、あの日に彼女と待ち合わせたのも、こんな夕暮れ時の雑踏だったな。

 即売会には彼女から誘われていて、当人が出品するドラゴンカーセックス3Dデータや特撮ヒロインリョナムービーの売れ行きにも興味はあったのだが、なにしろ中途半端にしがらみのあるフェチ系イベントだったし、そこで薄い知り合いと交わす空疎な社交辞令を想像すると、どうにこうにも腰が重くなってしまった。だから、撤収後に晩御飯でもって話にしたのだけど、トラブルの話を聞いた後は、行って売り子でもすればよかったかと、少なからず後悔もしたんだっけ。

 それほど、たちの悪い因縁をつけられていた。

 あの日は会場近くで合流する手はずだったが、特撮マニアの彼女から『予定よりもかなり早めに撤収したので、ほぼ中間点のターミナル駅で待ち合わせ』と連絡があり、きな臭さを感じながら先を急いだ。すると、雑踏の中から可愛らしい手が伸び上がり、俺を呼ぶようにゆらゆらゆれる。
「先についてたんだ。ずいぶん早くない?」
 俺の言葉には応えず、特撮マニアはつっと目を細め、軽くうつむき加減に俺から目をそらす。そして、いきなり『パン! パン!』と手をたたき「よっしゃ! 仕切り直し!」と言いながら腰を落とすと、今度は『パン!』と自分の太ももをたたいて活を入れる。
「どないしたん?」
「おじさんの前まで引きずらないよう、気持ちを絶ってたんすよ」
 あまりにもわかりやすくやけっぱちな自分をアピールする彼女は、こっけいというより物悲しく、俺は急速に不安をかきたてられていた。
「やっぱ、なんかあったんやな。それも、かなりしんどいやつやろ?」
「いろいろあったんすよ」
 強がるような、不貞腐れたような言葉を口にする彼女は、それでいてため息をこらえているのがありありとわかる。
「話し、聞いたほうがえぇか?」
 彼女はうつむき加減に目をそらしたが、すぐにまた顔をあげ俺をじっとみる。そして、なにか思い切ったように口を開いた。
「話す……うん、話しましょう。吐き出したいし、意見も聞きたいし」
 これほどあからさまに動揺している特撮マニアを見るのは初めてだったし、そうでなくてもなにか気持ちを切り替え、高めるようなところへ連れていきたかった。
「なぁ、寿司でもどないよ?」
「え? マジスか?」
 懐具合を心配しているであろう特撮マニアに、俺は「大丈夫、おじさんのおごりだよ」と念を押す。
「よっしゃぁ! これでほぼほぼ帳消しですよ! おじさん、ほんとにありがとう。で、どこに行きます?」
 とたんにハイテンションではしゃぎ始めた特撮マニアからは、やはりヤケくそな投げやりさを感じてしまうが、俺はこの場でそれを指摘するほど残酷ではないつもりだ。とりあえず、意識して目を細めると、いかにも苦笑するていで「回転寿司でいいかな?」と、オチを決めた……つもりだった。
 しかし、特撮マニアはすっかり困惑したように目線を泳がせ、しばらく考え込むような素振りを見せた後、すまなさそうに「申し訳ないが、拙者、回転寿司ではゆっくり話ができないように愚行する次第でござる」とつぶやく。
「え? あ、そか!」
「さよう。ボックスシートならよいが、カウンターだと目も当てられんでござる」
「じゃ、串焼き屋とかどう? うなぎもあって、いい感じなんよ」
 俺が『うなぎ』と発音した瞬間、特撮マニアの瞳はきらめく。ところが、その輝きはたちまち消え失せ、彼女はわざとらしく口元に指をそえ、考えるような素振りを見せた。まもなく「でも、やっぱお寿司を食べたいでござる。口がお寿司になってしまったでござるよ。この際、コンビニのパック寿司でもいいかってぐらい、拙者は酢飯を求めておるのでござる」なんて、よくわからない話を早口でまくし立てた。
 いくらなんでも『コンビニのパックずしでも』はないだろうと、特撮マニアの貧乏舌に呆れながら、それでも俺の中にひらめきを感じる。
「駅のデパ地下でお寿司を買おう。買ったものをフードコートで食べられるんだよ」
「素晴らしいでござる! この時間なら値引きも狙えるでござる」
「あははは、たしかに」
 とことん貧乏性やなと苦笑しながらも、特撮マニアのそういうところが可愛らしいのもまた、たしかなんだよなと、妙に納得してしまう。

 カートやらなんやら大荷物の特撮マニアと、雑踏の中をデパ地下へ向かう。どう考えても混雑してる時間帯に、こんなところへ来るんじゃなかったと後悔が抑えられなくなり始めたころ、地下のちょっとした催事スペースに『駅弁大会』と大書されたのぼりがみえてきた。駅弁もいいけど、特撮マニアはあれほど寿司だの酢飯だのと騒いでいたし、パスだよなと目をそらしたところで、彼女が「駅弁でござるよ」と騒ぎ始める。
 おいおい、寿司はどこへ行ったと思いつつ、雑に「駅弁だねぇ」なんて返してい先を急ぎかかったら、特撮マニアが「ちょっと、ちょっと」なんてそでを引っ張る。なんなんだと振り返ったら、なぜか勝ち誇ったような顔で『寿司駅弁』と記されたスタンド看板を指差していた。なんだかなぁと思わなくもなかったが、自分も好奇心を刺激されてしまい、とりあえず見るだけでも見ようかと歩み寄る。
 定番の鱒寿司に鯛寿司、蟹寿司、ちらし寿司、柿の葉寿司、そしてさまざまな押し寿司から巻き寿司、肉巻き寿司にステーキ寿司まで、寿司駅弁だけで島ができている。

 すごいねぇ、寿司駅弁ってこんなにあるんだ。 なにをおっしゃるか? 寿司は駅弁の基本でござる。 そりゃそうだね。たしかにお寿司だけど、いいの? 拙者、駅弁も大好物でござる。寿司に駅弁で一石二鳥でござるよ。 ようわかった。じゃ、ここで買おう。好きなの選んでいいよ。 かたじけない! とはいえ、これだけあると、目移りしてしまうでござるよ。 なんならふたつ買って、分け合ってもいいよ。 本当でござるか? ならば、この『元祖小鯵の押し寿司』と『復刻鯵の押し寿司』にするでござる。 マジ? かぶってない? 食べ比べでござる。こっちの元祖は明治時代から売られている弁当で、復刻は大正時代の寿司を再現したものでござる。どちらも食べたかったでござる。 もしかして、狙ってた? いや、拙者もそこまでは考えておらなんだが、よもやと思って立ち寄ったら、売っていたでござる。 なるほどね。そこまで言われると、自分も興味が湧いてきた。じゃ、俺は……この『名物 助六』にしようかな? おぬし、なかなかやるな。それは東海道線でいちばんうまい助六寿司と名高い逸品でござるよ。 え、ほんま? いちおう指摘しておくが、それは干瓢巻きといなり寿司だけのストロングスタイルでござるよ。 正統派いうか、伝統のスタイルやな。 老婆心ながら、こちらの無印『助六寿司』のほうが良いのではないか? こちらは五目太巻きと稲荷でござる。 なるほど、でも興味が湧いてきたから、やっぱ『名物 助六』にするよ。 それにしても、小鯵の押し寿司ふたつに干瓢巻き助六って、地味すぎじゃないか? 見栄えではなく、味を楽しむのでござるよ!

 というわけで『元祖小鯵の押し寿司』と『復刻鯵の押し寿司』に、ダメ押しの『名物 助六』を買い込み、特撮マニアが言うところの『食べ比べ』と洒落込む。辛抱強くエレベータを待ち、屋上庭園に設けられたフードコートへ向かう。ちょうど証明が灯り始めた夕暮れ時で、ライトアップされた植物とミストのきらめきは、いかにも『映え』を意識した小洒落空間となっていた。特撮マニアはこういうオサレが大の苦手だったが、不思議と嬉しそうにミストをながめている。
「ここだけど、大丈夫?」
「たしかに小洒落すぎて拙者の好みではないが、あの煙と怪しげな虹は植物怪獣でも潜んでいるかのようで、不覚にも気に入ってしまったでござる」
 ニヤけながらも神妙な面持ちの特撮マニアをみながら、ホンマに怪獣やったらなんでもえぇんやな。ちょろいにもほどがあるとか、そんな思いが込み上げてしまう。ちょうどミストの風上が空いていたので、特撮マニアにそちらで場所をとってもらいつつ、俺はビールでも買おうとスタンドへ向かう。いくら店舗購入品の持ち込みは自由といえど、席代替わりにビールくらいは買っておきたい。
「飲み物はそこの自販機とか、いっそ買わなくてもよいのでは?」
 相変わらすしぶちんの特撮マニアへ「せっかくだからビール飲みたくなった。リクエストある? もちろんおごるよ」と大人の余裕を見せる。
「ならば、瓶ビールをお願いするでござる。駅弁には缶ビールがスジであろうが……」
 特撮マニアのこだわり表明を背中に受けながら、案内図に『世界のビール』と記された店を目指す。看板に偽りなし、店頭には実に様々なクラフトビールに輸入ビールがびっしりとならび、テンションもあがる。しかし、小瓶で乾杯からラッパ飲みなんて、ちょっとオサレすぎるから脳内キャンセル。幸い国産ラガーの大瓶があったので、それと紙コップをテーブルへ持ち帰る。

 カンパーイ! お疲れ様! ほんとに疲れたでござる。 先に話す? いや、寿司が不味くなるっしょ。まず食べ比べたいでござるよ。 ようわかった。ほな、最初はどれや? はえあるオープニング作品はぁ『元祖小鯵の押し寿司』でござる! よっしゃ、開けますよ。 あ、ちょっと待って、開封前に写真でござる。 わかったわかった。じゃ、俺も撮るから、終わったら開けるよ。 最初にそれぞれ撮って、段階的に開封してほしいでござる。 わかった。

 行儀よく並ぶこぶりな押し寿司に、しそ巻がふたつ。そして、弁当や惣菜でおなじみのプラ醤油瓶。残念ながら、お魚の形ではない、ちっちゃな瓶の形だった。

「醤油はつける?」
「いいえ、まずは、というかおじさん、このお醤油だと、つけないほうがよさそう」
「あぁ、わかる」
「さて、いただきます」

 小鯵はやや甘酢風味で、酢飯はもうちょっとしっとりしていてもよさそうな雰囲気だったが、全体としてはよい味だった。まろやかというより、甘みに寄せてるから、醤油をつけないのは正解だろう。俺は押し寿司が好物なので、どうしても評価は甘くなりがちなのだが、それでも他になさそうな甘さと酸味の釣り合いで、そこにしそ巻がきりっと変化をもたらす。なかなかよい経験をさせていただいた。
 特撮マニアはどうかと見ると、ニタつきながら指についた飯粒をしゃぶっている。
「これはよい経験でござった」
 以心伝心というわけでもないのに、同じような感想だなと、なんだか笑えてしまう。俺の笑顔をどのように受け取ったのかは分からないが、さらに「甘みに寄せてるのは、やはり弁当というか、青魚の臭み消しと保存を考えておるのだろうと思うが、それにしても古臭い味ではあろう。ところが、しそ巻をあわせて引き締めるのは、なかなかの知恵でござる。これは醤油でしょっぱくする人もおるであろうとおもう」と、いかにもオタクめいた分析を続ける。俺はこういうぼんくらなオタクのやり取りを気兼ねなく楽しめていたあのころを思い出しながら、ちょっとぬるくなったビールをあおった。
 こんどは『復刻鯵の押し寿司』だ。
「お、青い」
 思わず口に出してしまう。小鯵をまるごと使っているのは先ほどの『元祖小鯵の押し寿司』と同じだが、青光り具合がぜんぜん違う。それに、全体にしっとりしていそうな雰囲気だ。
「たしかに青いっすね。光り物って感じ」
 特撮マニアもそこが気になったようだ。新たな期待感が高まったところで、ひとつ口に入れると……。
 酸っぱい? いや、そうでもないな。普通というか、食べ慣れた味だ。こぶりの鯵をまるごと使っているのはさっきの『元祖』と同じだが、こちらは拍子抜けするくらいに、いつも食べている押し寿司だった。美味しいのだが、ちょっと食感の変わった鯵の押し寿司というところで、復刻をうたっている割に味付けが今風なのは、物足りなさがないといえば嘘になる。ただ、しっとりと落ち着いた酢飯と小鯵の組み合わせはやはりよくできていて、こちらの方が万人受けしそうだなとも思う。それに、こちらは醤油もよさげで、ためしにひとつ醤油をかけてみたが、それはそれで美味しかった。
 さて、特撮マニアの評価はと思ったところ、包み紙を熱心に読みふけっている。
 やがて読み終わると、目の前に広げて「これは微妙な復刻でござる」と、先ほどの調子で語り始めた。
「復刻と称しつつも味があまりに現代風モダンだったので、なにごとかと思って能書きを読んだら、ほれこの通り『好評をいただいている『鯵の押し寿司』に、大正時代の駅弁に使われていた小鯵のまるごと押し寿司が加わりました。かつての駅弁を模した形から『復刻』とさせていただきました』とある。これは、文字通り『形だけの復刻』でござった。してやられたでござる」
 やたら微妙な面持ちの特撮マニアに「看板に偽りありってところ?」なんて声をかけてみたら、すっと姿勢を正し「それは言い過ぎでござる」と返された。
「形ばかりとはいえ、それでも大正期の弁当をもしているのであれば、それはやはり復刻でござる。できれば味も再現してほしかったが、こちらの方が現代人の味覚にあっているばかりか、メイン商品と同じ味付けとあれば、製造面からも望ましいであろう。駅弁製造は慈善事業ではないのでござる」
 神妙な面持ちでオチを決めたつもりの特撮マニアに、俺は「そらそやな」とだけ返す。そして、なにごともなかったかのように『名物 助六』を引っ張り出したところで、ふと「これはなにが名物なんだ?」なんて口に出してしまった。
 特撮マニアは素早く反応し、包み紙をほどくと「駅弁は能書きも味のうちでござる」とかなんとかドヤ顔できめながら、また熱心に確認し始めた。
 とはいえ、地味な色合いの幾何学模様に『名物 助六』と勘亭流っぽい文字が記されているぐらいで、後は製造表記のみのようだった。
「これはまた微妙でござるな。つまり、定番の弁当なので……」
「地元民にとっては言わずもがな、だな」
「ところが、この店はいなり寿司が名物なのでござるよ」
 なにか言いたげな顔で眉をひそめる特撮マニアに「まぁ、とりあえず食べよう」とうながしつつ、自分も名物とやらの稲荷をひとつ食べる。
 油揚げは甘めだが、黒糖の風味が舌に良い。酢飯だけの素朴な作りで、伝統を感じさせる力強く丁寧な味わいだ。しかし、お茶が欲しくなるな、こりゃ。なるほど稲荷とはかくあるべしという風格すら感じる。そして、干瓢巻きに箸を伸ばすと、こっちは甘さ控えめのさっぱりした味わい。釣り合いをとってるのかな?
 特撮マニアは、さっきのしかめっ面がうそのようにほほえみながら、ひとつひとつ確かめるように食べている。
「それにしても、駅弁までフォローしてたんだね」
 特撮マニアは、また眉をひそめた。
「いや、そうでもないのでござるが、興味を持っておるのはたしかでござる」
「もしかして、やっぱ特撮がらみ?」
「さよう、昔の特撮や邦画で折り詰めがちょくちょく登場するのでござるが、最初はよくわからなかったのでござる。検索してもぼんやりした情報ばかりで、基本がお寿司と駅弁だとわかってから、機会を見つけて実食するようになった。そんな流れでござる」
 照れというよりは、めんどくさげに説明する特撮マニアをみながら、俺も自身の衝動や行動原理を説明させるのは、とても、とてもめんどくさい。なんか、ちょっと悪かったような気になってしまったが、うっかり「そういう昭和風俗って、もてはやされる割には肝心の情報がなかったりもするわな」なんて合いの手を入れてしまったものだから、特撮マニアの昭和ブームディスが始まってしまった。
 やたらと昭和の風俗をもてはやす連中には、俺だって言いたいことがたんまりある。とはいえ、そろそろ即売会の出来事を話してもらわんことには始まらない。いや、まてよ、もしかして、話したくないのか? いや、そんな眼の前で衝動にまかせてしゃべりまくる彼女は、断じてそんな計算ができる人間じゃない。さて、そろそろ話を変えてもらおうかと、思ったところで当人が我に返る。へたり始めた紙コップのビールを飲み干し、おもむろに話を即売会へ変えた。

 まだまだ話したいこともあるのでござるが、本題は別でござったな。 そうだよ、いったい即売会でなにがあったの? 簡単に言えば、嫌がらせで販売停止を食ったでござる。 なんだそりゃ? それは穏やかじゃないね。 そのとおりでござる。幸いにして、拙者の人徳と危機管理能力によって、最終的にはなんとかなったのでござるが、あまりにも理不尽で不愉快な経験でござった。 そらそうやろ。でさ、もうちょっと詳しく聞かせてもらっていい? もちろんでござる。まず、開場直後にロリータ服に入ったタッコングが来たのでござる。 なんやそら? いま、見せるでござる。動画を撮ったのでござるよ。 大丈夫か? 大丈夫なわけないのでござるが、これが決定的な証拠となって、拙者はさっさと販売再開できたのでござる。 よくわかんないけど、じゃ観ようか?

 特撮マニアがスマホを操作すると、まもなくバルーンスタンドにロリータ服を被せたような女性が表示され、なにごとかぶつくさ言いながら販売物を手にとってはあらっぽく、ほとんど放り投げるように戻していた。確かに、これはロリータ服に入ったタッコングだな。ただ、タッコングを知ってる人間がどれだけいるかは別問題だけど。
 始まっただけでお腹いっぱいだったが、辛抱しつつ先を続けていると、だんだんなにを言っているのかわかってきた。ロリータ服に入ったタッコングは『秘してこそ美しいものがあるっての、わかんない?』とか『日陰の花にも咲いていい場所とそうでない場所があるの』とか、挙げ句に『子供がみたらどうするの』とかとか。たしかにこれはあからさまな即売会あらしと思ったところで、カメラがパンしてタッコング女を追う。すると女がいきなり『なに撮ってんのよ! 盗撮禁止!』と怒鳴りながらカメラを叩いて動画は終わった。

 なんじゃこりゃ? ブースに設置していたモニタリングカメラでござる。 問題なかったの? 希望者を撮影し、その場で合成するため設置しておったのでござるが、タッコングが因縁つけてきたので、証拠として撮影したのでござる。カメラ連動三脚が自動追尾してパンしなければ、タッコングも気が付かなんだのに、ちょっと残念でござった。 そういう流れかぁ、そりゃしょうがないかもな。で、最初はどんな感じだったの? 最初から様子がおかしかったでござる。ブースの『ドラゴンカーセックスとだるまをVR体験』ってタペストリーを指さし、拙者に『漱石の草枕、冒頭くらいは知ってるでしょ?』なんてウエメセでマウント取りに来たのでござる。 草枕の冒頭って、あの『情に棹させば流される』って、あれ? さようでござる。拙者もそのように応えたのでござるが、タッコングは『ちっがぁうっぅのよぉ!』などとさえぎり、小馬鹿にしたように『その続きがあるのよ、つ・づ・き。どうせご存知ないでしょうけど?』なんて言い始めたのでござる。 ものまねはいいとして、続きはなんだっけ? 住みにくいとかなんとか……? 冒頭の最後でござる。締めの言葉は『あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故に尊とい』でござった。 そんなんやったんや。まぁ、通俗的というか、漱石のテーマとは別に、そこだけ切り出したら、、すっかりキッチュになっちゃってるな。 そういうことでござるが、タッコングは『これが人の世を長閑にし、人の心を豊かにすると思うの?』なんて言いがかりというか、もはや拙者は耳タコになってる道徳を押し付けて来たのでござる。グリグリと。 まぁ、話が通じない相手ってのは、よくわかったよ。 さよう、それゆえ拙者はタッコングの話を聞いてるふりしながらカメラを作動させ、後で運営に申し立てようと思っていたのでござる。 そしたら気がついてカメラを叩かれたと。 さようでござるが、問題はその後でござった。 販売停止を喰らったんだったよね。 さよう。タッコングがぐちゃぐちゃにしたテーブルを整えて、さてこれからと思っていたところに、警備員と運営スタッフが問答無用で販売停止を通告し、拙者は運営の詰め所で事情聴取でござった。 それはすごいね。やっぱタッコングがなんかやったの? そのとおりでござる。拙者がブースで盗撮していたとの通報で、最初は身体検査にスマホとブースのチェックだのなんだと、威圧的に告げられたのでござるが、拙者が女体持ちなので女性スタッフを呼ぶ間に、スマホで先ほどの動画を見せたのでござるよ。 そしたら? 即、手のひらクルーでござった。あのタッコングは札付きの厄介で、本来なら出禁のはずだそうな。 出禁なのに紛れ込んでた? さよう、その段階で大問題でござるが、タッコングは警備員にチクって姿を消したから、運営はわからなかったらしいのでござるよ。 しょうがないけど、ホンマにタチワルイな。 まったくでござるよ。ともあれ、それから運営の偉い人がきて平謝り、そして動画を凌辱ボーイズ・ラブの担当にも見せて、無事無罪放免となったでござる。 ほんま、災難やったね。 まったくでござるよ。ただ、拙者が心底から怒っておるのは、盗撮の言いがかりではなく、草枕だの日陰の花だの『他人の言葉で通俗道徳を押し付け、説教した』タッコングのいやらしさ、そしてそんな輩に『言いがかりをつけても良い相手』と思われたのが、実に、実に悔しく、腹立たしいのでござる。 あぁ、わかる。ああいう手合は相手を選んであやつけるからね。 ですよ。だからこそ、心底から怒っておるし、口惜しいのでござる。しかし、拙者はあの手の道徳感情で他人を殴る異常者との戦いから学んでおるので、この程度では動じないでござるよ。ただ、きょうはおじさんと約束もあったので、早々に撤収して気持ちを整理しておったのでござる。

 そこまで言って、特撮マニアは「ふぅ」と、おおきなため息をついた。

 俺は特撮マニアの雰囲気に飲まれ、なにも考えず「あぁいうのは他人を見下し、自分を高みにおきたいだけだから、気にしないのがいちばんだよ」なんて、無意味にもほどがある言葉を口にしてしまう。その瞬間、特撮マニアは即座に、かつ致命的なひと言を俺に突き刺し、意味のない雑音でぼやけかかった彼女の怒りをふたたびくっきりと描き出す。
「笑止なり」
 続けて、特撮マニアは散らかった弁当箱や包み紙を脇に寄せ、テーブルに乗り出しながら、新兵を怒鳴りつける海兵隊の教官かと思わんばかりに俺の顔に唇を寄せ、言い聞かせるように言葉を押し付ける。
「気にしないのは最も愚劣かつ危険な反応でござるよ。わかっておろうに。連中は『反撃しなさそうな相手』を選ぶのでござるよ。その証拠に、拙者が反撃せんと拳を固めただけでも、さっさと尻に帆かけて逃げ出すのでござる」
 それは紛れもない正論で、俺はただ「せやな。せやった」と返すのが精一杯だった。
「おじさんは反撃せず、気にしないと肩をすくめるばかりでござるか?」
「いや、あれほどあからさまな嫌がらせだと、心置きなく反撃できる。既に十分な理由があるからね」
 特撮マニアは軽く眉をひそめ、もったいつけるなと言わんばかりにまなざしを俺に突き刺す。
「反撃するのに理由が必要?」
「それはそうだよ。理由のない反撃は『言いがかり』だからね。いまの話なんか、まさに理由のない『反撃』だったから言いがかりだけど、もしかしたらタッコングは真剣に被害者として通報したのかもしれない」
「盗撮の?」
「そう」
「もうちょっと詳しく話してくれまいか?」
 俺はうなずいて、軽く姿勢を正した。

 まず、言葉を整理しよう。盗撮ってのは基本的に『性的な姿を盗み撮る』処罰対象行為なので、裸や下着姿、水着の股間などでなければ、当てはまらない。ところがあまりにも安易に使われているので、話がぐちゃぐちゃになってる。 よくわかるでござる。 なので、盗撮ではなく『不同意撮影』とするね。 わかったでござる。 ただ、最近は自身が同意しない撮影を拒否したいと望む人々が増えて、その声は無視できないほど大きくなってきた。 それもわかるでござる。だから、当人が同意しない撮影を『盗撮』と称して、激しく非難しておると、そういうわけでござるな。 そのとおり。だからタッコングは不同意撮影を『盗撮』と通報したわけ。 なるほど、いかにタッコングといえども女体持ちであり、盗撮されましたと申し出られたら、警備員はそれなりの対応をせざるを得ず、運営も不同意撮影の拡大解釈とは思わないと、そういう流れでござったか。なにせ、フェチ即売会であるからの。しかし、やはり『狙っておった』のではなかろうかのぅ? わからんよ。天然かもしれん。 うむ、精神も怪獣であったからの。とはいえ、拙者はなにもやましいことなどないでござるよ。 いや、そうでもないよ。即売会あらしの証拠って大義名分がなければ、会場での不同意撮影はかなり問題になってたと思う。 そういうものでござるか? まぁ、いろいろ議論の蓄積ってのも多少はあるんだけど、不同意撮影は社会からの許されざる逸脱って、そういう風潮ではあるね。 なるほど、だからあのときおじさんが喫茶店ここでは撮るなって言ったのでござるな。拙者、ようやく腑に落ちたでござる。 納得できなかった? さよう、おじさんはストリートフォトも撮るのに、マジかとな。 あぁ、まぁね。ただ、ストリートフォトは社会秩序を乱す逸脱的行為なのか? さらにいうなら犯罪なのか? あるいは文化的行為なのか? そういう議論はあってね。 ちょっとまって、おじさん、それはおかしな議論でござる。逸脱的行為と文化的行為は背反しないでござろう。問題なく両立するものを、対立的に論じても話にならないでござろう。 うん、まぁその通りなんだけどさ……。 議論のための議論をひねるオタクでもあるまいに、いい年した大人たちが雁首揃えてひねるような話ではなかろうよ。もしかして、写真家というのは……。 あ、いや、いささか言葉が過ぎたでござる。 いや、俺もふくめてだが、たいていの写真家や写真評論家ってのは、論理的に思考しない、できないと思っていいよ。 なんともかんとも、お寒い話でござるな。

 特撮マニアの呆れ顔は、ふくむものがないだけに、なおさら俺の心をえぐった。俺も写真の世界に倦み疲れ、直面する様々な問題に対して、もうちょっと論理的な対応や論考が出てこないかと、そんないらだちも抱えている。だが、それをこんなかたちで正面から指摘されると、なぜか自分自身が呆れられているような、そんな感覚に襲われてしまう。
「それにしても、おじさんはなぜその社会秩序を乱す逸脱的行為とみなされかねないストリートフォト、もっとはっきり言えば路上での不同意撮影にこだわるのでござるか」
 ほんとにこいつは情け容赦ないというか、天然だから始末に負えないなと思いながら、笑顔を作って応える。
「いちおう答えはあるけど、聞く?」
「訊いておるのでござるよ」
「うん、じゃ話そう」
「俺がストリートフォトにこだわるのは、自身が社会に対して同一性を感じておらず、社会を他者と認識しているため、自覚的に自己を認識し続ける行為が必要なんだ。なので、社会と自己との関係、自己の社会における位置づけを、ストリートフォトの撮影行為や得られた写真を通じて認識する。とまぁ、だいたいそういうところなんだよ」
「ベタベタでござるな」
 ここまで来ると、変にフォローされないほうがむしろ心地よい。だから、俺も強がりではなく、ちょっと斜に構えた言い換えを口にする。
「トラディショナルと言ってほしい」
「むしろ、クリシェと言いたいでござる」
「厳しいな」
「厳しいでござるよ」
 もしかして、いまの俺は鬱屈をそのまま顔に出しているのではなかろうかと、そんな心配をはじき飛ばすように、特撮マニアは言いたい放題の出放題を吹き鳴らす。
「でも、拙者はそういうおじさんが嫌いにはなれないでござる」
「ありがとう」
 変なフォローしないでくれと、不貞腐れた気持ちを飲み込み、大人の慇懃さで会釈を返した。そして、特撮マニアは俺が半ば忘れかかっていた経験を、救命浮輪のように思い出させてくれる。
「おじさんに裸体を撮ってもらったのも、自覚的に自己を認識するため、でしたからね。もしかして、忘れてました?」
「いいや、ちゃんと覚えてましたよ。それより、急に拙者言葉をやめるんで、びっくりしたよ」
「あ、いや、失敬。申し訳ないでござる」
「いや、もうどっちでもいいよ」
「話は変わりますけど、また私を撮影しません?」
 たったいま思いついたように、特撮マニアは予想外の話を持ちかける。でも、もしかしたらタイミングをうかがっていたのかもしれない。だが、まぁそんなのはどうでもいい。俺は即座に「うん、ぜひ」と応える。
「ひと肌脱いでもよいですよ」
「いや、ここはストリートフォトスタイルで」
「あぁ、この流れはそうですよね」

 こうして、俺と特撮マニアはその場で日程を調整し、ポートレート撮影を計画する。そして、さっきまでターミナル駅の雑踏でストリートポートレートを撮影していたのだ。そう、クソみたいな小市民的正義感を振りかざすおっさんに絡まれるまでは。

 嫌な邪魔が入りましたね。仕切り直します? いや、おしまい。それとも、もうちょっと撮ったほうが良かった? いや、自分もそろそろしんどくなってきたところです。 それはちょうどよかった。じゃ、ほんとにこれでおしまいだ。もしよければ、お茶でもしません? もちろん、期待してましたよ。 前に行った喫茶店は覚えてる? あそこに行こうと思うんだけど。 え、伯林ベルリンでしたっけ? あそこお菓子は美味しいけど、飲み物がね……。 それがさ、プリンを出すようになったんだよ。それも、かたいやつ。 うわぁ、それは行かねば。 ただ『懐かしの昭和風プリン』って名前なんだよ。 う、う、ちょっと、考えさせてほしい。けど、食べたい。 じゃ、行こう。 拙者、負けた気がするでござる。 負けたほうがいい勝負もあるよ。

 遠くからでもはっきりわかる『喫茶・軽食 伯林』のネオンは、相変わらずのけばけばししさ。観音開きの自動ドアから、エスカレータで店内へ進んだら、ワイシャツに蝶ネクタイの給仕も変わらぬ微妙な笑顔で迎えてくれる。聞こえるのは『ロックバルーンは99』と、これまた相変わらずなのだが、特撮マニアは気が付かないのも前回と同じだった。
 尻が変に沈み込む合皮のソファ席に通された特撮マニアは「これこれ、この感じ」なんてはしゃいでるが、テーブルにそびえ立つレトロデザインの『懐かしの昭和風プリン』なるポップは、デイリースポーツを見つけた巨人ファンのような顔つきで隅へ追いやる。
「なんにする? プリンは確定でいいの?」
「おじさんと同じにします。これは『負けたほうがいい勝負』なので」
 特撮マニアの素直な笑顔に応えて、俺は『懐かしの昭和風プリン』クリーム乗せとブレンドのホットをそれぞれふたつ注文する。
「クリームは過剰ではござらんか?」
 怪訝そうな特撮マニアに、俺は「いわゆる『映え』だと思わなくもないけど、貧乏くさい楽しみもあるんだよ」と、意味ありげに笑ってごまかす。
 さて、プリンとコーヒーが来るまで、撮影した画像でもチェックしようかと、カメラを取り出したところに、思いのほか早く給仕がそれらを持ってきた。あわててカメラをわきによせ、プリンやコーヒーがテーブルにひしめき合ったところを撮影する。
「癪に障るけど、これは『映え』ますね。拙者も撮るでござる」
 そう言いながら、特撮マニアもスマホを持ち出した。
「まえから料理はだいたい撮ってるやん」
 口にした瞬間、大人げないなと思ったが、特撮マニアは意に介さず撮り始める。
「さようでござるが、狙いすましたのは癪に障るのでござる」
「まぁ、わかる」
 ふたりとも撮り終わると、デザートスプーンを手にプリンと向き合う。特撮マニアは俺がどうするかを、興味しんしんで見つめている。あまり手元に目線を感じていると、ちょっとやりにくいような気もしなくはないが、ひとりで食べるときと同じようにプリンに乗ったクリームを半分ちょっとすくいとって、コーヒーに浮かべた。
「なるほど! おぬし知恵者でござるな。そして、たしかに貧乏くさいでござる」
 文字通りに目を見張って驚く特撮マニアに、おれはつい苦笑してしまう。
「自分でも貧乏くさいと思うけど、そこまではっきり言われると微妙な気持ちになる」
「あいや、これは失敬つかまつった。さておき、さっそく真似させてもらうでござる」
 特撮マニアはおそるおそるクリームをすくいとり、コーヒーへ滑り込ませた。そのままくるくるっとかき混ぜ「あ、溶ける溶ける」とあわてて口にする。せわしないなぁと思いながら俺は笑いを噛み殺し、プリンのクリームがなくなったところへスプーンを入れる。指先にしっかりした弾力を感じつつ、スプーンにのせたプリンを口へ運ぶ。
 濃く、しっかりした卵の味わいを楽しんでから、おもむろにコーヒーをすすった。乗せたクリームはあらかた溶けてしまっていても、安っぽいバタークリームの風味は残っている。コービーはやや深煎りで酸味が弱く、コクがあるのはよいのだが、雑な苦味があるので、クリームの脂と甘みがちょうどよい。ただ、それにプリンのコクと甘みが乗るのは、やはり過剰ではないかと思わなくもないが、自分が楽しいのだからそれでよい。
 見ると、特撮マニアはプリンのクリームを全部コーヒーへ入れてしまい、ほとんどウインナーコーヒーにしていた。
「おじさん、ぶっちゃけここのクリームってバターとシロップだけじゃない? なんちゅうかさ、ちょっと素朴すぎると思う」
「プリンには合わない?」
「むしろ足を引っ張って……まぁ、拙者はコーヒーに入れるほうが好みでござる」
 なにごとにもズケズケと強い表現を投げつける特撮マニアが、なぜか抑えた物言いをしてるのに、つい微笑んでしまう。
「面白いでござるか?」
「いや、少しは手加減するようになったねって」
「この店は気に入ったのでござるよ」
 そう言うと、特撮マニアはカップに残ったクリームをすくいとって舐めた。

 食べ終わり、テーブルの上が片付いたところで、先ほどまで撮影していた画像を確かめる。

 ほとんどノーファインダーだったので、ある程度は覚悟をしていたが、それにしても歩留まりが悪い。使えそうなカットがどれだけあるか、あまり考えたくもなかった。とはいえ、あたりのカットは自分でもびっくりするくらい良くて、中でも特撮マニアのまなざしをうまくひろえたカットは、これまで撮った写真のどれよりも力強く、魅力的だった。
 さっと流して渡すつもりが、つい見入ってしまった。焦れた特撮マニアが「拙者もみたいでござる」と催促しなかったら、そのまま全部チェックしてしまったかもしれない。カメラを受け取った特撮マニアは、慣れた手付きで撮影画像を確認する。しばらく無言だったが、いきなり「うわぁっ! ケツでけぇ!」と大きな声を出したので、あわてて黙らせた。

 すまん、すまんでござる。しかし、それにしても拙者のケツはでかいでござる。まかり間違っても小尻なんて言えない自覚はあったのでござるが、こうもはっきりでかいプリケツが写ってると、なんと申しますか、この、拙者といえども羞恥の心が芽生えるのでござる。 いやぁ、広角レンズだからね。 いえいえいえいえ、ケツがでかいのは事実でござる。そればかりか、安物のニットパンツがピチピチとデカさを強調していて、もはや公害レベルでござるな。とはいえ、無駄にでかいだけの拙者の駄尻も、おじさんの手にかかればエロいプリケツにみえてくるという、写真の魔法とはこのことかと、このようにも思料する次第でござる。 写真の魔法はどうかと思うけど、たしかにセクシーなお尻だね。 物は言いようでござるな。それにしても、こうして写真に撮られてはじめて、女体持ちがいうところの『まなざされる性』とやらを、なんとなくわかってくるような気がしてきたでござる。 自分のなにかが奪われたり侵害されたり、そんな気持ちも湧いてくる? 笑止なり! たかがケツの写真で拙者のなにかが変わるなど、傲岸不遜でござろうよ。あるいは、女体持ちはそこまでか弱く、他人の目を気にする生き物というのか? まぁ、裏を返せばそういう部分もあるんだけど、ストリートフォトグラフィーが社会秩序を乱す逸脱行為とみなされる、ひとつの根拠になっていると思う。

 特撮マニアは、俺の目を正面からじっとみて、悲しげに首を振った。
「人間って、やっぱ心底くだらないと思う。自分が人間でなければよかったって、本気でそう思うくらいに、救いのない生き物ですよ」
「それでも、生きていかざるを得ない」
 特撮マニアは、しょうがねぇなと口元だけで笑顔を作る。
「うん、だからせめて怪獣になりたい」

 しかし、こうして自らが体験してもなお、やはり解せぬのでござる。 なにが? ひとつは写真に撮られる『被害』とは、いかなるものか? まさか、魂が奪われる、傷つけられると、ホンキで考える御仁が世の中にうじゃうじゃとおるわけでもなかろう。 うん、それはそうだけど、撮影行為に獲得性や、ひいては加害性が含まれると考える流れはあるんだよ。 なんですか? それ? いちおう、スーザン・ソンタグの『写真論』に始まる思想的な把握、だな。 ちょっと待って、検索しておきます。ソンタグの写真論と……。 あ、これっすね。新板が出てるけど、電書はなしか……。ポチりました。 素早いな。 基本っぽいので、抑えときます。 うん、それは間違いないよ。で、他にも解せぬところがあると。 さよう。お主はストリートフォトグラフィーが社会秩序を乱す逸脱行為とみなされると繰り返すが、この世には逸脱行為などあふれておろう。それらすべてを排除するなど、できるはずもないのは明らかであろう。むしろ、なんらかの逸脱をせずに生きるのは可能なのかと問いたい、問い詰めたいほどでござる。なにがしかの折り合いをつけねば世の中は回らないであろうに、そういう知恵はござらんのか? まったくその通りなんだけど、ストリートフォトグラフィーについては議論も研究もないんじゃないかな? ただ、スケボーについては研究しておる学者さんがいて、論文が本になっていたと思う。 ほぅ、それは興味深いでござるな。 論文は公開されてるから、後で送るよ。 そちらも本を探して買うでござる。 勉強熱心だね。 人間は嫌なのでござるよ。勉強して怪獣になりたいのでござる。 うん、うん、せやな。

 気がつけば、窓の外はすっかり暗くなって、街の灯がきらめいている。飲み物か、いっそ軽食でも追加注文しようか、それともきょうはお開きにするか、そんな計算をし始めたところで、特撮マニアが「ありがとうございます」とカメラを返した。
「おじさん、きょうはそろそろ帰りますよ」
 そう言いながら、特撮マニアはウエストポーチにスマホをしまう。
「ほんとは晩ごはんもお付き合いさせていただきたいんですけど……」
「食事代も浮くしね」
 ちょっと意地の悪い混ぜっ返しに、特撮マニアは背筋を伸ばして俺の目を見る。
「そうそう、じゃないです。拙者、他人のおごりで食べる飯は大好きだが、ワンニラは嫌でござる」
「ワンニラ?」
 素で聞き返した俺に、特撮マニアは鼻の穴を膨らませた。
「屋台の下に潜む犬が、酔客の落とす食べ物をにらむようす。あるいはそういう屋台で出す貧乏くさい酒のあてでござる。拙者、貧乏くさい酒の肴は大好物でござるが、おこぼれを狙う犬の顔にはなりとうないでござる」
「そらもっともだ」
 うなずく俺に、特撮マニアは嬉しげに目を細めながら「きょう、最後に因縁つけてきたおっさん、あれこそワンニラでござったな。思い出すと、笑えてしょうがないでござる」といって、三国志の英雄のごとく「ははは」と声に出した。

 あのおっさん、そんなにさもしい顔やったんか。 おじさん、最初テンパってましたからね。でも、最後に「こんどからちゃんとファインダみますね」なんて、ナイス返しでしたよ。 あぁ、あそこでぶつくさ負け惜しみ言ってるおっさんのみっともない背中はよく覚えてる。いま、思い出して腹が立ってきた。 それはそうでござろう。拙者も怒りがよみがえったでござる。なにせ、あのおっさんはまさにワンニラ、攻撃してもよさそうな相手を探しておったのでござる。 社会秩序を乱す逸脱者は攻撃してもよいって、さらには攻撃すべきって、そういう世の中だからなぁ。 いやいやいやいや、あのおっさんには、そんな筋の通った考えなんかないですよ。ただの通りすがりの野次馬が、殴れそうな相手をぶん殴ったって、それだけじゃないですか? だいたい、なにを逸脱とみなすかなんて、これっぽっちも考えちゃいない。ただのお気持ち。そんな奴らに『殴ってもいい』って思われた悔しさ。おじさんもぬるいですよ。考えてくださいよ。あのおっさん、スケボーに文句つけたと思います?

 いつしか拙者言葉をやめていた特撮マニアの勢いに、怒りに、俺はちょっと考え、間をおいて、できるだけ落ち着いて応える。
「うん、あのおっさんも即売会のタッコングも、秩序と逸脱の問題ではないし、まして寛容と不寛容の問題でもない。連中は俺たちを侮って『手前らの勝手な規範を押し付けてもいい相手』とみなし、実際に攻撃し、尊厳を傷つけたんだ。そんな相手に寛容さを求めるなんて、自分で自分の尊厳を損ねるようなもんだ。そして、連中は『反撃されずに殴れそうな相手を探してる』んだな。それこそ、屋台の下に潜り込んだ犬のように」
 特撮マニアは「さようでござる。残念ながら、拙者の生きてきた世界はワンニラが跋扈する、やさぐれた世界でござった。おじさんが生きてきた世界とは、いささか違っておるのでござる」と、軽く目を伏せながら首を振った。俺はなにか口に出そうと思ったが、こういう局面にふさわしい言葉は、あいにくと俺の辞書になかった。
 しかし、俺がグズグズと考えてる間に、特撮マニアは伝票をつまんで会計に向かっている。俺も慌てて立ち上がり、彼女の後を追うと「きょうはおごらせてください。こないだはぐちにつきあっていただいたし、これでもけっこう売れてるんですよ」なんて、さっきの表情が嘘のよう。
 そういうことならと、ありがたくごちそうになり、そのままふたりで店を出て、ターミナル駅へ向かう。
 道すがら、特撮マニアが「また撮ってほしいのですけど」なんてしおらしく言うものだから、俺はすっかり嬉しくなって「もちろん! こちらこそお願いしますよ」と、はしゃいだ声が出てしまった。
「撮影内容の希望はある? きょうは俺につきあってもらったから、次はあわせるよ」
「さようでござるか? ならばひと肌脱ぐとしようかのう」
「え、脱ぐの? いいの?」
 戸惑いを隠せない俺に、特撮マニアは「へへへ、自分のケツをきれいに撮ってもらいたいなとか、ちょっと考えたんですよ」と言うだけ言って、雑踏に姿を消した。

 尻か……。
 いや、なんか脱ぎたがっていたよな。
 ひとりごちながら、俺は撮影内容を組み立て始めていた。

 了

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