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言葉が通じない怪獣の送りつける画像はすべて不愉快

 駅から高架に沿ってしばらく歩くと、いきなり視界がひらける。とはいえ、こんどは幅の狭い、掘割のような運河が行く手を遮っていた。そのまま川沿いに歩く、ろくに日も差さない高架とビルの間に比べれば、圧迫感がないだけでもかなりましだったが、潮と湿り気をたっぷりはらんで、おまけにすえたカビのような臭いまでふくんだ生暖かい空気が、ねちねちと体にまとわりつく。
 相変わらず嫌な湿気だとぼやきたくなるが、口に出すまもなく橋がみえてきた。
 渡ったすぐ先が目的地だが、たもとの掲示板が妙ににぎやかで、よせばいいのに立ち止まってしまう。
 どれも地域おこしアートプロジェクトのイベントやらワークショップやライブパフォーマンス、展示などイベントの告知で、絆だのよりそいだのにぎわい創造だのケアアートだのと、よくもまぁと思うような使い古された意味のない言葉がベタベタと貼り付けられていた。
「うへぇ」
 溢れ出た悪態を手の甲でぬぐいながら、俺は再び歩き始める。にしても、嫌なものをみてしまった。不吉な予感までしてくる。だいたい、この界隈にたむろする貧乏人に、アートとやらがなんの意味を持つのか?
 炊き出しでもあればまだしも……もどって確かめようかと思ったが、それっぽいのぼりやチラシを持った集団が視界の隅に入ったから、あわててやめた。すぐに、いかにもアートやってますって雰囲気を濃厚に発散する若者たちが、声をそろえ『なんちゃらかんちゃらアートプロジェクト』なんて、雑なシュプレヒコールを繰り返しはじめる。急いで橋を渡りきると、俺とは反対に駅へ向かって歩きはじめる彼らの後ろ姿が見えた。急ぎ足で遠ざかりながらも、最後尾で元気いっぱいに声を張り上げる小柄な女性に、これからロケハンするホテルでヌードを撮影予定の人物、特撮マニアの裸身を重ねてしまう。やたらと小柄で、いつも元気いっぱいの彼女は、胸こそないものの、わりかしほっそりした体型で、顔立ちも話しぶりもそこそこ可愛らしかった。ただし、特撮の話をしなければ、だが。
 いや、いや、いかんな。
 別のなにかを考えよう。
 それにしても、炊き出しとまでいかずとも、カップ麺や菓子パンのひとつでも配るならまだましだろうし、そうであってほしいと思う。しかし、下手すると、文字通りの無報酬で『アートプロジェクト』とやらに駆り出され、否も応もなく『アートのお祭り』に巻き込まれ、意識高い連中の陳列物と扱われ、使い捨てられる。アートプロジェクトとやらの恩恵は、けっして見世物あつかいの貧乏人に降ってこない。金銭だろうが名誉だろうが、有形無形の見返りは当のアーティストとお芸術を鑑賞する遠方の客、そして行政側の人間、挙げ句に内心では日頃から貧乏人を疎ましく思う地元の名士たちがすべてかっさらう。プロジェクトとやらが終わってしまえば、貧乏人たちにはそれまでと同じか、下手をすると『お芸術愛好者たちの慰み者』として、よりいっそうこんな土地に縛り付けられた日常が始まるだけだ。
 それでも、ここに暮らす貧乏人はそんな『アートプロジェクト』から逃げ出すわけにも行かないし、逃げ出そうともしない。そもそも他に行き場がないからここにいるのだし、アートプロジェクトと行政の関わりを抜きにしても、権威や権威者に逆らわないのが貧乏人の処世術だ。だから、表面的には大人しく従うだろうが、それは追従に過ぎない。
 始末に負えないのは、貧乏人を陳列してる意識高いアーティスト連中には、自分たちがにぎっている権威や権力の自覚はなく、それどころか反権威を気取ってさえいる。
 少なくとも搾り取ってる意識があるだけ、貧困ビジネスに群がる起業家だの起業ヤクザのほうが……マシって? そんなわけないか。
 まぁ、いいや。
 考えるのはやめよう。
 たまたま目についただけのクソに気を取られすぎると、自分までクソまみれになっちまう。実際、そんなどうでもいい考えに気を取られ、危うく目的地を通り過ぎてしまうところだった。いつ来ても人の気配がない、窓もすっかり目張りされた、営業してるのかどうかも定かではないビルだが、温泉マークとホテル看板だけはやたら明るく……おや?
 電気が消えてるな。
 嫌な予感がぶり返す。案の定というかなんというか、角を曲がったとたんに『解体工事のお知らせ』が待ち構えていた。
 もしかして、さっきのアートプロジェクトとやらも関係するのか?
 ついに再開発が始まってしまったのか?
 怒りとも悲しみとも諦めともつかない感情がこみ上げる。ただ、混ざりあい、整理のつかないお気持ちのアブクでもいちばん表面に近く、嫌なニオイを放っていたのは、憤りと名付けたくなる感情だった。ただ、それを自覚したとき、俺はふぅと息を吐いて肺の奥まですえたカビのような臭いをふくんだ生暖かい空気を押し込み、自分の感情に蓋をする。直感的な憤りは、ゲスな好奇心よりもはるかに自分の精神を危うくするから。
 ともあれ、このホテルで撮影できないのは明らかなので、まずはその現実を受け止めなければならない。スマホで『解体工事のお知らせ』を撮影し、撮影予定だった特撮マニアへ送信する。

『あかん、廃業しとった』

 帰宅して、返信を確認する。
『無念の極みでござるが、是非も無しでござる。とはいえ、拙者は興をさかす幸運に見舞われたところでござる。後ほど新たな企てをお伝え申し上げる故、刮目して待たれよ』
 奇妙な拙者言葉に、相変わらずだなと微笑ましく感じたものの、送信時刻が微妙に引っかかった。いまさっき受信したのだが、遅延ではない。返信までに、かなり時間が経っている。
 いつもはほとんど即レスで、ときには合いの手めいた『りょ』だったり、強迫観念に突き動かされているような、やや病的な雰囲気さえあったから、こんなに間が空くとどうしても気になってしまう。
 どうせ単に忙しかったとか、俺のメッセを読むまで間が空いたとか、もしかしたら間に向こうが送信していたメッセを受信しそびれているかも知れない。そんなあれこれをもてあそびながら、胸糞悪いアートプロジェクトといい、どうにも気分が乗らない、高揚しない、あいまいな重苦しさばかりたちこめている。
 それに、メッセージの『興をさかす幸運』とか『新たな企て』とやらも、気にはなっていた。もともと、こんどの撮影は特撮マニアのアイディアと言うか、求めに応じて内容を組み立てていたので、俺としては当人の意志を尊重するしかない。企画の中心は特撮マニアだから、落ち着いて『新たな企て』とやらを受け止めればよいのだろうが、なぜか気持ちのざわつきがおさまらない。もしかしたら、親子ほども離れた年下の女性に振り回されるのが、そんなに気に食わないのか?
 あくまでも好意であり、ややもすれば余計なおせっかいになりかねないのに、用事のついでだからとロケハンしたのに、礼の言葉もなくちゃぶ台がえしが面白くないのか?
 返信の内容や反応ぐらいのささいな違和感から、自分自身への妙な疑心暗鬼まで湧き上がる。
 他人に対してはできるだけ公平で平等に接したいと、俺はいつもそう思っていたから、ふとしたきっかけで自分の中に潜む長幼の序とか男女の差とか、そういったどこかで染み付いてしまった古臭くてつまらない観念、俺のほうが上だろうなんて思考を自覚してしまうと、誰にも打ち明けられないやるせなさがつのってしまう。
 とりあえず、こういう精神状態はよろしくない。
 とりわけよろしくないのは、自分が好き好んで関わったなにかにたいし、あたかも『させられている』とか『やってあげている』かのような、そういう他律的な感情に引き込まれそうな、そんな気配さえ感じているところだ。
 なんとか、気分転換せないかん。
 そういや、晩飯まだだったな。
 なに食べよう?
 いや、なにを作るかは決まっていた。
 それこそ気分転換に常夜鍋で飲もうと、帰りに豚肉とほうれん草、豆腐を買ってきていたんだ。買い物袋のまま、台所にうっちゃられていた食材を回収すると、鍋に水と昆布を入れ、豆腐をキッチンペーパーでくるみ、ほうれん草を洗い始めた。そして、ほうれん草を切り始めたところにスマホの画面がぼぅと光り、プレビューに拙者の文字が見えた。もちろんメッセージの相手は、特撮マニアだ。

『拙者、たいへんに興をさかす幸運に見舞われ、新たな企てに邁進しておるところでござる。それについて、貴殿にお願いしたい向きがござる。相談したいのでござるが、通話してもよろしいでござるか?』

 もはやなんだかわからない拙者言葉だが、とりあえず通話したいのはわかる。とはいえだ、まな板のほうれん草に目線を送りながら、もしここで特撮マニアのマシンガントークにつきあったら、常夜鍋どころじゃなくなるどころか、晩飯も食いっぱぐれるのは確実だよなと、考えただけで鏡を見ずとも自分でわかるほど顔が渋くなった。
 ちょっと考えて『いまばんごはんつくるところ。たべたあとならつうわできるよ』と返したが、こんどは秒で返信が飛んできた。
『できれば話したい。話せば分かる』
 こんどは拙者言葉でもない。俺はきな臭いなにかを感じた。いつもなら『問答無用』などと茶々を入れるのだろうが、それももせず文面を考えはじめる。ところが、画面に指を置く前に『問答無用』とプレビューが表示され、開封する間もなく着信した。

 しかも、ビデオ通話だった……。

「ごめんなさい、ごめんなさい、マジ急ぎだったもので」
 申し訳無さそうな表情を画面いっぱいに展開しながら、特撮マニアはしきりに頭を下げる。キャラを作る余裕もなさ気な様子に、俺は「いいよ、いいよ、急ぎの用件だったんでしょ?」なんて、いらだちを押し殺しつつ鷹揚に構えてみせる。だが、そこから特撮マニアの呆れるほど図々しいお願いへとつながり、そしていつものように馬鹿げたやり取りを重ねている間に、諦念とも自嘲ともつかない笑いが込み上げ、終いには大様な気持ちまで芽生えてくるなんて、その瞬間は全く予想していなかった。

「そうなんですよ。突発事態と言うか、すごくいい出会いがあったんですよ。それで、おじさんにぜひおねがいしたいことができちゃったんです」
 画面の特撮マニアをみながら、どちらかといえば他人の世話にはなりたがらない、貸し借りの関係は望まず、できるだけ自己解決を図る人間だと思っていただけに、よほどのなにかがあったのだろうと、正直なところ危険な予感が先に立つ。ただ、同時に拙者言葉ではなく会話するの、ここしばらくなかったんじゃなかろうかとか、そんなのんきな思いにふける俺もまた、たしかに存在していた。

 拙者もござるも言わないくらいの要件なんだね。とりあえず、言うだけ言ってくださいな。 拙者言葉のほうがよろしいでござるか? いや、よくない。それに、いまはそういう場合じゃないだろ? 手短にお願いしますよ。 承知! とりあえず、これをみてください。お願いというのは、この回転台をおじさんの部屋に持ち込ませていただきたいんですよ。 なぁんだ、そういうことか。ちょっと心配したよ。で、だいじょうぶだけど、いまどこ? あ、いや、わかった! えぇ、そうです。駅前の量販店です。 買ったの? ポイントです! で、近いからオレの部屋に持ち込みたいと、そういうことか。 えぇ、そうなんですよ。 だったら、もうちょっと早めにいっといてくれればよかったのに。 申し訳ないです。なにせ、いまさっきいろいろあって、予定外だったんです。それに、すごいんですよ! これでフォトグラメトリがですね…… ストップ! まぁいいや、細かい話は直接きかせてよ。で、晩ごはん食べた? いや、まだです。 わかった。よければ食べながら話すのでだいじょうぶ? ありがとうございます。

 そんなわけで、特撮マニアは近所まで来たらメッセージを飛ばす、俺はふたり分の夕食を用意すると、なんとなく話をまとめていったん通話を切った。

 特撮マニアが問答無用で通話するくらいだから、資格とかアーティストコネクションなんかの詐欺にでもつられたんじゃと心配したけど、そういう方向の緊急事態ではないとわかったら、いろいろどうでもよくなる。とはいえ、なんらかの突発事態が生じて、特撮マニアは大興奮の末に俺への頼み事を思いついたと、そういう流れなのだろう。問題は『特撮マニアの気持ちを沸騰させたなにか』だが、手がかりは『回転台』とフォトぐ……なんだっけ?
 検索するか。
 人工知能を呼び出し、マイクに『回転台』と『フォト』と吹き込んだ段階で、画面には『フォトグラメトリ回転台』が表示されていた。
 そういうことかい……。
 フォトグラメトリ。
 つまり3DCG用のデータ作成方法で、全周撮影した物体の画像を解析し、合成して、立体的なモデルを作成するわけだ。作成用の画像は、データ化するモデルをもれなく、むらなく全周撮影しなければならないから、回転台はほぼ必須なんだけど、そういうことかいな。特撮マニアが目指すドラゴンカーセックスVR体験にはフォトグラメトリが大いに役立つだろうから、まぁ興奮もするだろうな。
 とはいえ、だ。
 回転台を持ち込むと、次は撮影なんだが……。
 なんとなく、その先へ思考を進めてはならないような、そんな気がしたところに、切りかけのほうれん草やキッチンペーパーでくるんだままの豆腐を思い出し、あわてて料理を再開する。料理と言っても鍋に酒と昆布を入れて煮立たせ、豚肉に豆腐、ほうれん草を順番に突っ込んで火を通す、それだけだ。
 というわけで、鍋に張った酒を温めている間に、ほうれん草と豆腐を切ってしまえば、あとは特撮マニアが来る頃合いを見計らって豚肉を入れるだけと……思っていたら、図ったようなタイミングでメッセージも着信する。
『近所のコンビニでござる。ビール購入の意あるが、不都合なら連絡されたし』
『大丈夫だ、問題ない』
『お主、死ぬ気か?』
 言葉通りの即レス、俺が液晶から指を離す間もなく表示されたプレビューの文字列を認識した瞬間、極まったヲタにしか共感できない敗北感、果てしなくどうでも良くてくだらないが、それでいて宝石のように大切ななにかを共有する者同士にしか発生しない感情が沸き立ち、ちょっと涙ぐみそうになる。
 とりあえず、懐かしさに震える指を操って『いちばんいいビールをくれ』と入力、送信すると、静かにスマホを机においた。センチメンタルな感慨にふけりたくもなるが、ぼんやりしている時間はない。手つかずのほうれん草をザクザク切ると、先に入れていた豆腐を鍋の脇に寄せ、かたまってしまわぬよう、ちらしながら鍋へ敷き詰める。ほうれん草がしんなりしたところで、豚肉を広げながら敷いていく。
 そろそろ来るかなと思っていたら、見計らったように階段を登る足音が響く。
 ところが、正直なところ、すくなくともいまは、この瞬間は会いたくないような、そんな気分が確実にある。
 特撮マニアとはなんの関係もないが、朝から割り込み案件で遠出させられ、それでも直帰できるからと気持ちを立て直し、思ったよりもずっと早く、簡単に終わって喜んだところまではよかったものの、調子に乗ってロケ確認に立ち寄ったら胡散臭いアートプロジェクトにげんなりさせられたばかりか、お目当てのホテルは廃業していたなんて落ちまでつく。それからは電車の遅延やらお買い得品と思い込んで買った肉が値引きなしの国産高級品だったりと、普段なら気にもとめないような些事さじに気持ちを苛立たされ、ようやく帰り着いたと思ったら特撮マニアとのやり取りで、八つ当たりせぬよう気を使う。そんな、つまらないなにかに消耗させられる、してしまう、我慢の時間帯が長かった。
 だから、特撮マニアが来たとき、俺は自分で自分の機嫌を損ねてしまっていて、部屋には温まった鍋からたちのぼる酒とだしの香りと、なにもかも台無しにしかねない中年男の鬱屈が、重なるように立ち込めていた。
 俺は特撮マニアが手を叩いて気持ちを切り替えていたと思い出し、真似てパン、パン、と、ちょっと大げさに手をたたく。
 そして「よっしゃ! 仕切り直し!」と言いながら腰を落とし、そのまま『パン!』と太ももをたたいて活を入れる。たちこめた鬱屈も自分の気分も吹き飛ばす。
 扉の向こうには確かな人の気配がある。
 インターホンがなってから扉を開けないと危ないような気もしたが、両手がふさがっているのではないかと思って俺は笑顔を作り、やたらと重い鉄の扉をそっと開いた。
 そこには、俺が予想する満面の笑みを浮かべた特撮マニアの影も形もなく、ただ紫色の缶ビールらしきパッケージと、怪獣の缶バッジをびっしり敷き詰めた痛バッグだけがそこにある。

 よいしょ、よいしょ。

 幼稚園で『大きなカブ』の読み聞かせでもしてるかのような、無駄に元気で明るい声が階段室に響いている。手伝いに行こうかと階段の上からのぞき込んだら、特撮マニアと目があった。
「あ、おじさん! これはよいところにおいでいただいた。拙者、階段で4階まで登らねばならぬのに、不覚にもグラス付きパックなど買ってしまったゆえ、先に割れ物などを上げてから、いまは重いものを上げているところでござる」
 どことなくセミやネズミの屍を嬉しげに持ってくる猫のような達成感、満ち足りた雰囲気をまとった特撮マニアは、これ以上はないほど満面の笑みで重そうなカートを引っ張り上げる。
「けっこうな大荷物じゃない? 俺が持つから先に入りなよ」
 つい保護者面したら、意味ありげな表情を浮かべ「心配ご無用。それより酒を冷やしていただけまいか? よいにおいでござるな。肴を用意しておるそうじゃが、そちらこそ大丈夫でござるか?」なんて、反対に俺の心配をしてくれる。
「ありがとう、だいじょうぶだよ」
「いや、コンロに火がついたままでは無かろうかとの心配でござる」
「せやった、料理してたんだ」
 あわてて台所へ取って返し、常夜鍋を煮立たせている火を止めた。やれやれ、俺が特撮マニアに保護者面なんかしたら、たいていはむしろこっちのほうがなんかやらかしてるってもんだ。
 そう、ちょうどいまみたいに。
 特撮マニアは小柄で仕草も可愛らしく、それでいておっちょこちょいというか、ちょっと挙動に不安定なところもあって、つい世話を焼いてしまいたくもなる。だが、そんな見た目とは裏腹に、俺よりもはるかに周囲を注意深く観察しているし、やりとりを重ねていく間に、複数の思考を並行処理しているらしいと感じる瞬間も増えていた。なので、むしろ俺なんかよりよほど世間的には有能なんじゃないかと、そんな思いすら抱くようになっている。

 さておき、俺はなにをするんだったっけ?
 あ! ビールを冷やすんだった!

 また玄関前に戻ろうと振り返ったら、そこには冷蔵庫の扉を開ける特撮マニアの背中があった。
「これは失敬! よその冷蔵庫を勝手に開けてはならぬのは重々承知でござったが、扉の前に放置するのもどうかと思っての抜け駆けでござる」
 振り返る特撮マニアと体を入れ替えながら「いいよ、いいよ、気にしないで、こっちこそごめんね。で、荷物はぜんぶ中へ入れたの」なんて、ほとんど意味のない言葉をまき散らす。まずは特撮マニアを落ち着かせないと、俺もとっちらかったまま、なにもできなくなってしまう。
 どうせこの場で、つまりダイニングキッチンで食べるのだから、痛バッグやらなんやらは隣の寝室兼居間へまとめてもらい、カートにくくりつけられた回転台や仕事道具らしき荷物を傘立ての隣においたりして、ようやく静まったかと思ったら、特撮マニアが琥珀色のなにやら見慣れたガラス瓶を持ってきた。
「手土産でござる」
「角瓶じゃないか」
「さよう、日頃から世話になっている相手の家を訪れる際には、手土産が必要でござる。おじさんほどの人物であれば、本来はジョニ黒、最低でもだるまを持参すべきところでござるが、拙者は若輩故に角瓶が分相応と思料した次第でござる。これは、古事記に書かれている昭和のしきたりでござる。ぜひ、遠慮せず受け取っていただきたい」
 そう言いながら食卓に角瓶をおく特撮マニアの表情は、にこやかながらも大真面目で、どこまでネタなのかわからない。
「ありがとう、でも、いいの?」
「心配ご無用、拙者にもこの世を渡る活計たづきのひとつやふたつはあるのでござる」
 わかりやすく鼻の穴を膨らませてドヤる特撮マニアに、俺はなぜかまた保護者面しそうになったが、とっさに顔を作り直し「よっしゃ! じゃ、遠慮なくいただこう。今夜は飲むぞ!」
「これだ! これでござる! これが、これが、まごうことなき昭和の安いホームドラマの世界でござる」

 やっぱ、ネタやってんな。
 そんなわけで、食卓に常夜鍋やらビールやら、おまけのグラスやらをならべ、ようやく鍋をつつきながら飲み始めた。

「カンパーイ!」
「乾杯でござる」

 いかにも高級そうな紫色の缶から注がれたビールは、早生みかんや黄色パプリカ、あるいは遅い午後から夕方近くの日差しを思わせるほど温かみのある、重い黄金色だった。国産ビールはだいたい軽く透明感のある白っぽい黄色なので、ずいぶん濃い色だなと思いつつ、ぐいと飲み干す。
 いや、ほんとに濃い! 味も香りも濃厚だ。
 喉も乾いていたし、食事前の乾杯だったし、いつもの調子でいっきに飲み干してしまったが、突進する古代ローマの4頭立て戦車を間近でみたような重い喉越しと、あとに尾を引くホコリをまともに吸い込んだような大地の香りが脳天まで突き抜け、もうちょっとでむせてしまいそうになる。

「こ、これは……」
「濃いでござる!」

 特撮マニアも同じように感じたらしく、飲み干したグラスを脇に押しやり、小鉢にポン酢を注ぎ入れ「拙者、常夜鍋は大好物でござる。お先によろしいか?」と、俺がうなずくのとほぼ同時に肉やほうれん草をとりはじめた。
 俺も自分の器にポン酢を少し入れ、まずはほうれん草からいただく。うん、うん、ちゃんとアクも抜けて、昆布だしの味わいとポン酢の酸っぱさがほうれん草の滋味を引き立てている。とはいえ、豆腐はもちろん、肉もほうれん草も優しい味わいなので、ビールの濃さに全く対抗できない。試しにひとくちすすってみたが、やはりビールの味と香りがなにもかも押し流してしまう。
「美味しいんだけどね」
 誰に言うともなくつぶやいたら、当然のように特撮マニアが反応した。
「左様、紛れもなく美味しい。しかもケチっていない、上等な味でござる。だが、この酒は喉の乾きをいやす爽快感にとぼしく、しかも主張が強いというか、とにかくでしゃばってくるので、食べながら飲むのは不適切でござった。誠に申し訳ない」
 無意味に申し訳ながる特撮マニアに「いやいや、あやまらなくてもいいよ。だいたい、俺が『いちばんいいビールをくれ』なんて言ったから……あ、ビール代!」なんて、間抜けな話をしたら、ひとしきり大笑いした彼女に「鍋をごちそうしていただきながら、さらに酒代までいただいたら拙者の面目がたたんでござるよ」なんてかわされてしまった。

 そんなゆるい会話が続いたところで、早くも鍋の中がさみしくなってくる。俺も特撮マニアもやたらと早食いの大食いなので予想の範囲内だし、そろそろ回転台の話を聞きたくなってたから、このまま春雨でしめようかと思っていた。ところが、特撮マニアはまだ飲みたらなかったようだ。

 ときに、鍋がずいぶんさみしくなっておるようにみうけられる。そろそろしめでござるか? うん、アクを引いて春雨を入れようと思っていた。 いましばらく待っていただけぬか? 馳走になっておるものが言うセリフではござらぬかもしれんが、拙者いささか飲み足りない心持ちにて、しめは機が熟しておらんのでござる。 うん、わかった。ただ、肉もほうれん草も残らず入れちゃってるんだけど。 それは全く問題ないでござる。拙者はにらみ湯豆腐でもよいのでござる。むしろ、この機ににらみ湯豆腐を試してみたいぐらいでござる。 おいおい、にらみ湯豆腐ときたか。というか、読んだの? もちろんでござる。中島らもは最高でござる。ゆえに、さらなる酒を欲するところでござるが、ビールはなんというか、その……。 うん、うん、これはちびちび味わって飲むお酒だよな。 左様でござる。もちろん、静かに少しずつ、少しずつ飲む酒もよいのでござるが、拙者はビールにそれを求めてはおらんのでござる。どうせちびちびやるのなら……。 ふふふ、じゃ、開けるか? かたじけない!

 いただきものの角瓶を開ける。ものすごく久しぶりだ。もしかしたら、学生時代以来かもしれない。角瓶と言いつつ、こんなに角ばってたっけか? なんて妙な感慨が頭をよぎる。とりあえず、ショットグラスと猪口をならべ、それぞれ注ごうとしたら、特撮マニアが止めに入った。
「またれよ! グラスはひとつか? 拙者、猪口でウイスキーは興が冷めるように愚考する次第でござるが、いかがなものか?」
 やれやれ、またややこしいこだわりを、と思わなくもなかったが、同時に特撮マニアの気持ちもわからなくもない。
「うむ、残念ながらショットグラスはそれしかない。だが、口当たりは似てるから、味わうには猪口のほうがいいんだよ」
「おじさん、酒飲みは味だけ良ければそれで良いというものではないのでござる。酒を飲む行為そのもの、飲む雰囲気、それらの情報もまるっと飲み干すのでござる。ゆえに、グラスがひとつしかないのであれば、いっそ瓶からじかに回し飲み……そうであった、回し飲みでござるよ」
 もう、こうなったら説得もなにもないのはよくわかっていたので、俺はただうなずいて猪口を引っ込め、ショットグラスにウイスキーを注ぐ。特撮マニアに「どうぞ」とすすめたら、急に背筋を伸ばし「ありがたく頂戴いたします」と頭を下げ、その反動かのようにショットグラスを持ち上げ、ひといきに飲み干した。
「あっまぁぃ! この酒はずいぶんあもうございます」
 大丈夫かと思ったが、気づかうよりも先に特撮マニアは俺のぶんをグラスに注ぐ。
「あ、ちょっとでいいから」
「またまた、そんなことを」
 思ったとおり、特撮マニアはグラスになみなみと酒を注ぎ、俺へ戻した。升酒でもないのに、ほんとうにフチまで注いでるものだから、こぼさずに持ち上げる自信はない。やむなくグラスに頭を寄せ、チュルチュルとすすった。
 あ、たしかに甘い。
 のどを焼くようなアルコールの強さを感じたかと思ったら、ネットリした甘さが舌に残る。この後味がジンやウォッカとウィスキーの違いかなと、そんな思いもわきあがる。

 いかがでござる? 昔から甘かったのでござろうか? いや、もう記憶の味はわからないよ。ただ、ずいぶん甘く感じたのは間違いないね。 やはり、ウィスキーはちびちびやる酒なのでござろうな。 あはは、まぁぐいぐい飲む酒ではないね。マカロニ・ウェスタンでもなければね。 拙者、いまは手っ取り早くすかっと酔いたい心持ちでござるが、この場にそういう酒はないでござるか? うん、残念ながらない。まぁ、ボイラー・メーカーでも作れば別だけどさ。 それはいったい、どのようなものでござるか? あぁ、いわゆるバクダン焼酎みたいなもんで、ビールにショットグラスごとバーボンを落とし込こんで飲む、アメリカの酒カスが酔っ払うために考えたカクテルだよ。 それだ! それでござるよ! さっそく作るでござる。

 ことさら煽ったつもりはなかったが、ボイラー・メーカーの話をすれば、特撮マニアは当然のように作って飲むだろうとわかっていた。なのに、それでもどこかで言わなければよかったような、大人げなかったような、そんな気持ちもはっきりと存在していた。ところが「これ、いただきますね」と、特撮マニアは俺がひとくちすすっただけのグラスを取り上げ、少し飲んだだけで、すっかりぬるくなっていたビールにぽんと落とす。その瞬間、かすかな後ろめたさは綺麗サッパリ吹き飛ばされてしまう。
 驚く俺を、特撮マニアは「いただいたでござる。どうせおじさんはもう飲まない、そうであろう?」なんて煽る。いや、煽り返す。開いた口がふさがらないうちに、特撮マニアはショットグラスを飲み込んでほとんどいっぱいになったビールをぐいと飲み、瞳をキラキラさせながら「うまい! しかも飲みやすい!」と騒ぎはじめた。

 おじさん、これはうまい飲み物でござる。しかも飲みやすい。おまけに……うわぁ、これメートル上がるってやつでござるか? まさに、まさにメーターぐんぐんあがり、体も火照ってくるのが、はっきりわかるでござる。もしかしたら、ボイラー・メーカーとはひとくちでかっかしてくるからとか、そういう話でござるか? いや、まぁ、違うんだよ。文字通りにボイラーを建造する作業員が好む酒ってのが語源らしい。けど、たしかに燃えるような感じするね。それでいて飲みやすい。ほんとうに危険なカクテルだから、気をつけて……あぁ……。もぅ、飲んじまったのか。 いやぁ、これはよい酒でござる。ストゼロよりはるかにうまいし、しかもまわりが早い。きょうは朝からついていると思っておったが、こんなキク酒を飲めるなんて、まだツキは落ちておらんようでござる。

 すっかり上機嫌の特撮マニアをみながら、俺は相手のこういう子供っぽさが可愛らしいのだろう。だから、多少なにかがあっても、受け入れてしまうのだろうと、不意にそんな思いがよぎる。まぁ、特撮マニアとは正反対に、きょうの俺はツキに見放されたようなもんだったが、最後に彼女の幸運をちょっとでもおすそ分けしてもらえば、それで帳消しになるんじゃないかとか、そんなさもしい気持ちをもてあそぶ。

 いろいろいいことあったんだね。 さよう、幸運が次々と舞い込んでくる、実に素晴らしい日でござった。なにせ、電車は座れるし、現場の親方はゆるくて優しいし、仕出し弁当までごちそうになるし、しかもこれがうまいと来てやがるし、おまけに日給制なのに早仕舞いだったから、諦めていたガジェットマーケットにも行けたし……そう! そこで、あの回転台を買ったのでござる。展示品のうえ箱傷みで格安だったのを、さらに値引きがはじまった瞬間に落手したのでござる。 それはツイてたね。そんなにやすかったの? それはもう、拙者のポイントで賄えたほどでござるよ! それはすごい! おまけに現場帰りでカート持参しておったゆえ、配送依頼もせずに手持ちで……おじさん、かたじけないでござる。 途中でしんどくなったんだね? いや、実のところガジェットマーケットは通話した量販店が会場で、おじさんの家が近いのを思い出し、ダメ元でメッセージを送信したのでござる。 おやおや、ちゃっかりしてるな。 我が事ながら、甘えがすぎると思う次第でござる。まこと恩に着るでござる。

 だいたい、ホントのところは狙っていたんじゃないかとか、そんなゲスい感ぐりさえしたくもなる。いや、狙ってたんだ!
 なぜか?
 特撮マニアの家は知らないが、少なくとも回転台を使った撮影はできないだろう。しかし、以前に彼女のヌードを撮った俺の仕事部屋なら、回転台を使って撮影できるかもしれない。つまり、はなっから俺の家に回転台を持ち込むつもりだったんじゃないか?
 狙ってたは言い過ぎかもしれないけど、少なくとも撮影に関してはアテにされてるだろう。実にちゃっかりしてる。
 さっきは多少なにかがあっても受け入れてしまうと思ったが、なんだかちょっと甘やかしすぎたような気もしてきた。

 で、回転台でなにを撮影するの? これがまた興をさかす話でござるよ! おじさんが絶対に食いつく話でござる。 ほぅ、大きく出たね。 さよう、拙者は絶対の確信を持っておるのでござる。 もったいつけなくていいよ。 承知つかまつった。先にしまいから申し上げると、驚くほど巨大な乳房をお持ちの女体を立体撮影し、データ化する依頼を受けたのでござる。 え! まじ? それって実在人なの? 当人も乳も実在しておるでござる。なにしろ、着衣の上からではあるものの、拙者がこの手で乳をもんで確かめておるが、あまりに大きく、しかも重くて衝撃を受けたのでござる。 ぐは! まじか? ふはははは、案の定、食いついたでござるな。 うん、悔しいけど完全にやられた。興味しんしんだよ。 それは重畳ちょうじょう。 で、なんでそうなったの? 申し出た女性は拙者のファンで、対面したのは即売会のブースでござった。 すごい! それに、女性ファンがいたんだ! 失敬な。拙者の購買者は女性も多いのでござるよ。 ごめん、それはちょっと意外だった。 ははは、おじさんの知らぬ世界もあるのでござるよ。特に、先日発表したくだんとケンタウロスの交尾は好評で、申し出た女性も希望者の顔で件を作るサービスがきっかけだったのでござる。 うむ、たしかに俺の想像を超えた世界だ。で、その女性の立体撮影を なんのデータにするの? ナーガでござる。 あぁ、いいね。で、その撮影を手伝ってほしかったり? ご明察、恐れ入るでござる。 わかるよ。実際、撮影場所が必要でしょ? お察しのとおりでござる。実は回転台を持ち込んだのも、下心あってでござる。 みえみえだよ。でもまぁ、そんな撮影なら、俺も協力させていただきたいね。 ありがたき幸せにござる。

 そう言いながら、特撮マニアは深々と頭を下げる。そして、残っていたビールをぜんぶグラスに注いでしまった。よもやと思ったが、特撮マニアはそのまま角瓶へ手を伸ばし、ショットグラスへなみなみと注ぎ、これが2杯目とは思えない手付きでビールグラスへ落とし込む。

 おいおい、流石に飲み過ぎだろう。 心配ご無用、拙者、明日は休みでござる。 ちょいまち、俺は仕事だよ。 案ずるな。おじさんが先に寝ても拙者は家を荒らしたりせぬ。 そういう問題じゃない。 それに、拙者は終電で帰宅し、迷惑はかけぬ所存でござる。 むしろ心配だよ。 うむ、こんなちんちくりんといえども拙者は女体持ちでござるからな、おじさんが案ずるのはわからなくもないでござる。しかし、女体持ちの拙者と、下心のあるおじさんが、ひとつ屋根の下で夜をともにするのもまた、けしからんのではござらぬか? あぁ、まぁ、それはそうだね。 女体持ちというものは、なにかと不都合なものでござるな。とはいえ、拙者はおじさんを信用しておるゆえ、あまり気に病まんでほしいのでござる。 ありがとう、でもなぁ。 そもそも、拙者の裸体も撮影しておるではありませぬか? その経験もあればこそ、拙者はおじさんを信用するのでござる。決しておじさんにおもねるわけではござらぬ。おじさんは人間に愛想をつかしながらも、野獣にもなるまいとあがいておられる。なかなかに珍しい御仁でござる。 ふはは、ずいぶん俺を買いかぶってくれるんだね。 買いかぶりではござらんよ。少なくとも拙者や巨乳持ちの女性に不愉快千万な画像をよこすクズどもや、あろうことか『件とケンタウロスは恋人同士なのですか?』などと訊ねるカップリング中毒者とはまるで違う、こうして心地よく酒を酌み交わせる御仁でござるからな。

 そう言うと、特撮マニアはひどく嬉しそうにボイラー・メーカーを飲み干した。
「まぁ、ちょっとばっかりヌード画像を上げるだけの俺のアカにすら、ちんちんだのせんずりだの送ってくるバカがいるぐらいだし、ほんまにどうしようもないよな。人間というか、男って生き物は」
 俺は喜色満面の特撮マニアをぼんやりながめながら、なにも考えず『まずい方の話』を引き取ってしまう。それも、ほとんど最悪に近い形で……しかも、彼女がなにかを諦めたような笑顔を浮かべ、撮影でときおり見せるファインダをつらぬいて俺の網膜を焼くかと思うほどに攻撃的なまなざしを投げかつけるまで、まずいなにかをやらかしているのにさえ気がついていなかった。

 まぁ、男だけでもないのでござるがね。いや、考えようによっては、男根画像や自涜動画のほうが、まだマシかもしれんでござるよ。 運営に通報すればいいから? さようでござる。このご時世、その手のは通報すればよくても停止、イッパツで削除もあり得るのでござるからな。ただ、それでも捨て垢で突は避けられん。いたし方ないところでござる。 捨て垢突って、それはもう悪意の嫌がらせじゃないか? それもあるが、拙者が女体持ちと露見してしまったゆえ、いっちょ噛みの男どもも含まれておろうとは思う。 え! またバレたの? さよう、あのタッコングがな。 うはぁ、即売会で因縁つけたあの女が? ははは、おじさんも覚えておるでござるか。 そらそうだよ。あれは話を聞いただけでも忘れられないよ。 ならば話は早いでござるな。あの女が拙者のサークル名と顔写真をネットでばらまいたのでござるよ。 顔写真って、撮られてたの? そのようでござるな。まさしく盗撮でござる。 すさまじいな。 最初からすさまじかったでござるよ。 うん、みたいだね。で、なにか対策は講じたの? 無論、法的に。 それはお疲れ様。 かたじけないでござる。とはいえ、拙者も慣れたのでな。いつものようにしゅくしゅくとすすめさせていただいたでござる。 あまり慣れたくはなかったかもね。 いやいや、慣れておいたほうがよい。特に拙者のように性癖と表現が分かちがたく結びついておるのであれば、なおのこと慣れておかねばならんのでござる。 寒い時代だな。 言葉を返すが、我々のようなものにとって、かつてひとたびでも温かい時代が存在していたとおっしゃるのでござるか? いや、ない。 であろう。拙者は女体持ちであるがゆえに、いや自らの身体に帰してはならんな。それをやってしまうと、拙者を目の敵にする女権論者と変わらぬ。 そっちも再燃したんだ。 いや、むしろいまは女権論者のほうが厄介でござる。 あぁ……。 拙者といえども女体持ちであるがゆえに、女権論者が男をかたきとにらみ、女体持ちのみの世界を夢見る気持ちはわからなくもないでござる。しかしながら、彼奴らは自らにまつろわぬ女体持ちを男以上に敵とし、なによりも先に滅せんとしておる。 それはそうかもしれない。 おじさんらしい返しでござる。 そう? ふくみをもたせ、断じて断ぜぬ。 なんか、申し訳ない。 気に病むようなものではなかろう。それに、拙者が女権論者に嫌がらせをされておるがゆえに、撮影する巨乳持ちの女性とも心が通ったのでござる。 彼女もなんかあったの? さよう、彼女は自らの乳を活かして活計たづきとしておったようであるが、やはり女権論者の嫌がらせを受け、現在はソーシャルネットをすべて停止しておるのでござるよ。 それはしんどいね。 うむ、それも彼女は拙者以上にソーシャルへ頼っていたらしく、いっときは真剣に行く末を危ぶんだようでござる。 それこそ、法的になにかできないの? おじさんといえど、拙者の口からはなにも言えぬが、それでも答えとしてじゅうぶんでござろう。ただ遺失利益はいかんともしがたいとだけ。 あぁ、そうだろうね。 実を言うと、拙者も招待されていたアートプロジェクトを辞退しておる。 嫌がらせで? それもあるが、なにしろ意識の高いおアーティスト様たちなので、この状態で拙者が参加し、運営に珍棒画像を送りつけるクズが出たらどうなるか? 予想もつかんのでな。またアカを作り直すか、不快画像対策を講じるか、いずれにせよ時間と手間がかかるのでござる。 なんだかな。 よいのでござる。なんともうすか、拙者の腹は男を知らねど、金物の味は知っておるのでござる。その覚悟があれば、なんでもできるのでござるよ。

 そんなわかったようなわからないような決め台詞をはくと、特撮マニアは立ち上がってグラスを流しへ片付けれはじめた。俺はほとんど反射的に「コーヒーでも飲んでいかないか?」なんて、またしても無意味な考えのない言葉をまき散らしていた。
「かたじけない。とはいえ、ここで尻を据えてしまうと、朝までこのままのような気がするのでござる」
 そう言って、特撮マニアはちょうど目の高さにある、椅子に座ったままの俺の顔をじっとみた。俺はちょっとだけ口元をゆるめ、腰を浮かせて「それはけしからんね。帰るなら駅まで送るよ」なんて、わざとらしいほど年長者が若い女性を気づかうようなそぶりをのせて返す。

 あ、もし、拙者が珈琲を所望すると言ったら? 酔い醒ましにレギュラーか、なんならエスプレッソを淹れてもいいよ。 あっぱれなくわだてでござるな。拙者、考えを変えたでござる。 つまり? 珈琲を所望するでござる。 いいよ。どっちがいい? イケアのではないほうがよいでござる。 あれ、口に合わなかった? 否、大変に美味しくいただいたでござる。しかし、味が良いゆえになおのことしゃくにさわるのでござる。 あははは、よくわかった。じゃ、エスプレッソにしよう。 あ、それから。おじさんにひとつお願いがあるんです。 なんだい? ここのお風呂を貸していただけませんか? ははは、いいよ。でも、着替えとかあるの? 実はあるんですよ。現場帰りなので。 なら大丈夫だね。 念のため、いっしょに入ったりしませんよ。 うんうん、わかった。 それから、契りを交わさざると申しても、拙者の女体を触り、舐め回すなどしつつ自涜におよんだりもしないのでござるよ。 承知した! おじさんは挿入にこだわらぬがゆえに、変態として拙者はうやもぅておるのでござるが……。そもそも、獣人エロだのわいせつだのと申したところで、どうしてヒトガタばかりなのでござるか? そればかりか、結局はどこかの穴になにがしかかの棒を突っ込むところから逃れられないのは、いかなるものでござろうか! それではヒトの交わりと変わらぬのではないか? たしかに、たいていの御仁にとって、性交など所詮はそんなものかもしれないが、それではあまりでござる。あまりにもニンゲンは糞と思わぬでござるか? いや、その話はまた別の日にしよう。夜通し話し込んでしまう。 承知つかまつったでござる。

 エスプレッソメーカーに豆を押し込みながら、すこしばかり意地悪く振り回し返したようでも、やっぱりなにか振り回されてる感じで、それでも図々しくは思えない。そんな特撮マニアの可愛らしいところは、あくまでも当人の処世術で、精神を護る鎧なのかもしれないような気がしていた。
 ともあれ、やれない相手にこれ以上深入りするのはどうかと思うが、それでも巨乳持ちの女性を立体撮影するまで、もう少し様子を見てもいいんだろうなと、薄汚い考えをもてあそぶ。そして、そんな自分をどこかで呆れたように見つめる別の自分が存在しているのもまた、このうえもなくはっきりと自覚していた。

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