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拷問人の息子 El hijo del torturador 第5章「手仕舞い」

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拷問人の息子 El hijo del torturador 第4章「決断」を読む

パブロスの記憶

 薄ぼんやりと輝く夜空の下、ランタンの明かりを頼りに、目印となる円環の廃墟を目指す。
 メルガールは列柱の位置関係がどうこうと、あれこれ細かく場所を指示していたが、この暗がりでは確かめようもない。やがて、それらしき角石を見つけたので近寄ると、大きさも高さも儀式にはちょうどよさそうだ。おそらく、ここがメルガールの言う『祭壇』だろう。ランタンを近づけると、薄れてはいるものの黄印の浮き彫りが目に入った。
「よしよし、間違いないな」
 ひとりごちて、パブロスは呪文を記した紙を角石の上に置き、ランタンを乗せて重しにする。
 メルガールが指示した通り、まず最初に蜂蜜酒とやらをひとくち飲んだ。飲んだ瞬間、慣れない甘みと酒の刺激が口に広がり、やがて青臭い苦みが追っかけてくる。これは本当に酒だ。とはいえ、この青臭さは風味付けじゃない。もしかしたら、薬草かなにかだろうか?
 それにしても、なんでひどい味だろう。
 酵母のえぐ味はそのままに、どすの利いた甘ったるさがねちっこくのどへからみつく。そこにすかさず薬草かなにかの尖った苦みが舌を刺し、食道を焼きながら胃袋へ流れおちる。もしかして、傷んでるんじゃないか?
 改めてラベルの文字、蜂蜜酒(メーアド)を確かめ、ほんとに小便(メアダ)じゃないよなと、顔をしかめる。
「やつは蜜(ミエル)の酒とぬかしていたが、味は恐怖(ミエド)だ」
 メルガールは『決して半分以上は飲むな』と念を押していたが、これじゃ半分どころかもうひと口だって飲めそうになかった。
 まぁいいや、ともあれ酒は飲んだ。次は魔笛と……。
 ぶつくさ言いつつ、くすんだ赤褐色の吸い口をくわえたら、今度は鉄臭い血の味が唇に襲いかかる。そういや、なかば無理やりメルガールに指を切られて、笛に血をすりこまさされたんだ。いったん血の味を認識してしまうと、なぜか肺の中から空気を吸われているような、精気を奪われているような、そんな気までする。
 いや、気のせいではない。
 笛が唇に貼りつき始めている!
 パブロスはあわてて思い切り笛を吹いた。あっけなく唇から離れたものの、今度は耳慣れぬ奇妙な音におびえ、みっともなく尻もちをついてしまう。石を踏んだわけでもなさそうなのに、パブロスは異常なほどの痛みを感じ、魔笛に負けぬほど奇妙で、情けないうめき声を発した。
 全身の感覚が研ぎ澄まされているような、そんな気がする。やはり、あの酒には薬草が混じっていたのだろうか?
 頭を振りながら立ち上がると、パブロスは呪文を記した紙に顔を寄せ、たどたどしく読み上げ始める。

 ¡Ia! ¡Ia! ¡Hastur!
 Hastur cf'ayak vulgtmm,
 vugtlagn, vulgtmm!
 ¡Ai! ¡Ai! ¡Hastur!

 ぃあ! ぃあ! あすとうる!
 あすとうる、すふあじゃっ、ぶるふん
 ぶふらん、ぶるふん!
 あぃ! あぃ! あすとうる!

 テリンゴの言葉だろうが、それを意識してもパブロスはアチェ(h)を飛ばしてしまい、さらにイグリエガ(y)もうまく言えない。しかし、呪文をうまく唱えられなかったであろうことを自覚しても、なぜかやり直すという考えは浮かばなかった。
 そもそも、俺は純潔を失っているし、奇跡術師でもない。そんな人間が紙切れに記された呪文を読み上げたところで、奇跡が起きるはずもなかろう。もし、なにかがあるとしたら、それは連絡要員との接触だろうが……。
 廃墟はしんと静まり返ったまま、人気も感じられない。
 ただ、ひりつくようなあせりと、背中をあおる不安だけがある。
「いくか」
 誰に言うでもなく、パブロスは立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。
 あてはない。
 あてはないどころか、旅に必要な荷物もない。手に持った小瓶と笛、そしてランタンがパブロスの全財産だった。いまさら悔いてもはじまらないが、メルガールから言われるがままなにもかも処分したのは、さすがに軽率に過ぎたような気になる。とは言え、このままここにいても野垂れ死にするばかりだ。
 幸い、この魔笛は安ものじゃなさそうだし、メルガールが言う通りの貴重品なら瓶の小便だって買い手がつくだろうさ。とにかく誰かがいるところまで歩いて、それから考えるとしよう。
 歩きはじめてしばらくたったころ、黄色い布を巻きつけた馬が行く手をふさいだ。
 いや、馬じゃない。
 巨大な蜂? 鳥?
 そのどちらでもなく、パブロスの前に立ちはだかっていたのは、蝙蝠のような翼に禿鷹めいた首、そしてモグラを思わせるカギ爪と蜜アリのごとく膨れて節のある尻を持ち、さらに巻きつけられた黄布の隙間から見える頭や胴体は、街角にさらされる罪人の腐敗し爛れ落ちた骨肉を思わせる赤黒さという、奇怪きわまりないなにかであった。
 どこからか、しゅうしゅうと蜂の威嚇めいた音まで聞こえ始め、パブロスは立つことすらできずに藪へ崩れ落ちた。再び精気を奪われているかのような感覚を覚え、眼前の異形はむき身の恐怖となってパブロスの思考も意志も焼きつくす。
 巨大な斧状突起をカチカチ鳴らしつつ、異形の頭部がへたり込んだパブロスに迫る。
 喰われる!
 パブロスは必死に後ずさるも、腕にも足にもまったく力が入らない。やがて死を覚悟した時、パブロスは股間に生温かい水の流れを、尻には軟らかい粘土状の噴出を感じた。
「お客さん、困るんですよね。呼ぶだけ呼んどいて、どっか行っちゃうってのはさ」
「あひゃ、あひゃ、しゃべった!」
 パブロスの知覚が粉々に砕け散り、視界は涙に押し流された。そして何回か立ち上がっては転び、そこらじゅうに大小便をまき散らした後、パブロスはどこかを目指して走り出す。叱られた子供のように泣きじゃくりながら。

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