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圧力鍋とシスターフッド:La Olla de presión y la sororidad

 彼女が部屋へ入ったとき、俺は豆を茹でていた。
 しゅぅしゅぅと湯気を吹きながら楽しげにからから小躍りしている鍋のオモリへ、実質無料をうたう携帯キャリアの呼び込みに投げかけるような、ショットグラスいっぱいほどの冷え切った不審へぬるいいらだち数滴をふくませた眼差しを送りつつ、彼女は台所から奥の寝室へ進む。なにか気の利いた言葉でもと思わなくはなかったが、とっさにそんなセリフが出てくるような俺ではなかったし、ジャケットを脱ぐ彼女の背中にも『そういうのはいいから』と書いてあった。
 ふらふらと彼女の背を追いかけた俺を、タイマーの電子音が台所へ引き戻す。コンロの火を止めたところへ、すかさず「あれ、やんないでよ。ピュゥゥゥゥっての」と彼女の鋭い声が突き刺さる。
「わかった、わかった、大丈夫ですよ。急減圧はしないから」
 ずいぶん前だが、やたらと圧力鍋の湯気や音を恐れる彼女へ、不意にオモリを抜いて急減圧なんてイタズラを仕掛けたのだが、実際に人間が飛び上がって驚くところを目の当たりにしたのはその時が最初で最後だ。あまりのうろたえぶりに心配して、すぐ慰めたからなんとかおさまったものの、しばらく経って『あのときは本気で別れようかって思った』なんて聞かされたほど。
 だから、圧力鍋のなにが彼女を怯えさせるのか、いまだにわからないままだ。
 ともあれ、こうして彼女とは別れずに続いているし、俺も圧力鍋を使い続けている。もちろん、彼女が来るとわかっているときは使わないようにしているが、今日のようにたまたまかち合ったとしても、せいぜい完全偽装の狙撃兵を観閲する女王陛下のような表情で見つめられるくらい。少なくとも、なにか文句を言われるようなことはなかったし、俺も彼女を刺激するようなことはしていないつもり。
 そんなわけで、彼女も俺もじわじわと蒸気を噴き存在感を示す鍋にはあえて触れず、むしろ吹っ切るように楽しくみだらなひとときを過ごした。
 ふたりの年齢や、つきあいの長さを考えると、いささか以上に激しい行為を終え、そしてそれぞれの経験やふたりの時間を重ねたがゆえの思いやりと気遣いに満ちた時間が始まる。薄い精子を受け止めたゴムやティッシュを始末し、寝床で肌を寄せ合いながら甘く唇を寄せ合ったり、たがいにそっとなであったりしながらクスクスと笑い、言葉にならない気持ちを交わす。やがて、どちらともなく立ち上がり、浴室へいざなう。

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