見出し画像

文学部で学ぶということ。

文学部フランス文学科4年。この自己紹介を何度しただろうか。やはりフランス文学に詳しそうな感じがするし、同時に哲学やフランス現代思想とか学んでいるのかなという印象を受ける。よね。

しかしながら、私の所属する文学部という場所はもっとずっと自由で、文学の他にも音楽、美術、言語といった幅広い分野を学べる場であり、本を読んで暮らしているような典型的な人には出会わなかった。出会いたかったなー。
 
4年間にわたり通う大学の校風が合わないと気がつきつつ、本を読み、最終的にはフランス言語学という学問に出会い、(もはや恋💘)、勉強は独りで続けてきた。今ではすっかりフランス語と言語学の面白さにやられているが、一度だけ自分は文学者になるのかと錯覚したこともある。本の読みすぎはあまり良くない。

とびきりキラキラしたキャンパスの中で「文学部」と向き合い、そこで一体全体わたしは何を学び得たのか?書き残しておきたい。


とにかく端的に答えてしまうと、「可能性」を考えられるようになった。可能性、「かもしれない」の思考を頭の片隅に置いておけるようになった。本当にただそれだけ。

今から馬鹿げたことを言う。私は今まで、本を読んだ感想は誰もが全く同じたと思っていた。本じゃなくても、映画や絵画、なんでもいいのだけど。
みんなが同じポイントで感動し、同じポイントを大切だと思う、そう考えていた。この作品の主題は物質と精神の二重性であり、みなが同じようにそれに気がつき、読み進めている。それが当然だと無意識に決め込んでいたのだと思う。

しかし、現実というのは複雑なもので、人は同じポイントで感動し、違う感想を持ってきます。あるいは、そこに注目するんだ、、、!?え〜???面白いね、君。みたいな人もいる。そして、物質と精神の二重性を取り上げる人は1人だけだったとしても、それに反応を示してくれる人は多い。読書会に参加しているのに、開口一番「私は読書が嫌いで〜」から始まる人もいた。なんで?
みんなが違うことを考えたり注目したりしていると理解したのはこの読書会形式の授業に参加した時でした。文学部っぽいですよねこれ。

そこから、少しずつ私自身の考え方が変わってきた。みんなは「みんな」ではなく、つまり一緒くたに数えることはできず、それぞれに背景がある。授業に出席しない人がいても、あの人にだって特別な何かがあるのかもしれない、と考えられるようになった。今日は定休日なのにしれっと営業していない店を前に、これも何か理由があるのかもしれない、と思えるようになった。ありえない話を聞いた時、どうすればそれが起こり得るだろうかと悩めるようになった。それから、友人と映画の感想を言い合う時、自分と違うポイントの指摘にワクワクするようになった。これは内側の話。

外側は?というと、例えばどうすれば「みんな」に伝えたいことを伝えられるかな?と思考を巡らせることが多くなった。目の前に、そして見えないところにさえ、たくさんの可能性があることを意識するよう心がける。あとはそうだな、文学というステップを踏んでから言語学を専門にしたこともあって、ことばの使い方には時間をかけるようになった。今でもたくさん間違えるけど:D

文学部にいながら、文学、哲学、思想、音楽、美術、言語と少しずつかじってきました。そこでも読書会同様にさまざまな「かもしれない」に通ずる経験がありました。と言い切ることは本当にできない。言い切れないのが文学部の最大の特色であり、武器であるという考えにたどり着きました。少しずつかじったことで次に出会う何かと何かを繋げることができる、それが「かもしれない」が生かされる場面を導き、まるでパッチワークのように一枚の布を完成させようとしているのではないかな?

キラキラキャンパスの中で、キラキラした超絶&抜群に可愛い友人に囲まれながら、私はこのようなことばかり考えていた。勉学に対する姿勢の、僅かなズレを感じつつ、「かもしれない」という考え方は救いとなり、そのうちに教壇に立つ先生方との交流が増える。「かもしれない」が私を一枚の布に仕立てあげてくれた、そう思っている。想像力というのはどうこう、大切なんだよとかいう月並みな言葉でまとめたくないのだが、とにかく文学部において私は、「可能性」を考えられるようになりました🎶


最後に好きな詩。

きみの恋人の懐かしい個別性の中にしか 人類の温い深みがないように きみの学問と創造の特殊性の中にしか 世界の美しい真実は ありえないはずなのだ。

清岡卓行「大学の庭で」




 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?