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発信と、自分だけの愉しみの間で

最近、どこかに投稿したり、インスタにあげる頻度がとても減ったなあ、と思っている。たまに「報告」「情報共有」程度はfacebookにもupするけど、自分の投稿が自分の大切な人のタイムラインを占拠してしまうことを想像すると、なんだか申し訳なかったり。発信することって、そんなに大事?と思ったり。いや、大事なのはわかってるけど、そこのバランスってどうとればいい?というもやもや。

そんな時に、ふいに見つけたこの記事が、私の心から言いたいことを全部まるごと表現していて、首がちぎれるほど頷いた。

だから、今の時代は誰にもいわないし共有しないってことは、すごい豊かなことだなって。ゲームも誰にもいわないで1人で勝手にやっている分には気晴らしになったりするんですけど、同じゲームをやる知り合いが増えていくと、誰がレベルが高いのかとか気になって、途端にノイズが発生してしまう気がする。SNS時代になってからの、シェアする文化こそが疲れの原因なのかもしれないですよね。(記事本文より)

そう、なのだ。私たちは、手元のカードをすべておおっぴらに見せる必要なんてない。巷でいう、「やりたいことを叶えるには発信が大事」「定期的に自分のことを投稿しましょう」そんな言葉に揺るがされないように。公式のオフィシャルホームページに投稿するように、自分が見せたい部分、自分が自分として出していきたいものは公開してOK。でも、それがなくてもいいし、やりたくなければ、やらなくてもいいんだって。

それより大切なのは、自分が好きなことをすることで、自分がハッピーでいられることを優先すること。それが変な形の石を集めることだっていいし、毎日なぜか深夜3時に家を抜け出してジムに行っちゃうようなことだっていい。だって自分が幸せなんだから。発信は、それらを外に出していきたい、はたまた共感してほしい、仲間を見つけたい、誰かと関わりたい、と思った時にすればいいだけであって。

個人的には、何か表現したいことがあれば、大々的に投稿されてしまうようなSNSではなく、ブログとか、noteに書いてみるのがいいような気がしている。本当に自分のことに興味があると思っていてくれる人、自分の記事や文章を自分の一番見るところにおいてもいいよっていう受け入れ度が高い人こそ(のみ)がフォローし合えばいいんだと思う。


自分のことについて言えば、この記事を読みながら、いつだって「ねえ、今何やってるの?」と思われる人に、なりたいんだということに気づいた。よくわからなさというのか、一言で表現できない人というのか。人がつっこむ余白のある人、わからないからこそ知りたくなる人、そんなイメージなのだった。そうだ、なりたい姿は、「すべてが透けて見えない人」だ。

例えば「今、どこ?」「三島」「え、なんで?」というやりとりがあるとする。この人はいつも東京にいる人、平日は確かずっと仕事の人、そんな相手が思った型を軽やかに裏切り、いつも意外性をふいのタイミングで仕込んで気づかないタイミングで明かしたい。どこにいるのも、何をしているのも、誰と会っているのも、すべてが予測不可能でありたいし、意外性と面白さを追求していきたい。検索でサーチして出てくるよりも、なんだかとっても魅惑的に見えるきがするのだ。自己満だし、もはや自己満でいいんだけども。

基本の情報と興味関心はオンラインに残し、本質的なところと中心の部分はどこかもやがかかっていて、なんだかわからない。そんな得体のわからなさこそが、人の魅力であり、知りたいと思わせることでもあるんだと思う。だから自分の時間ができたら、誰にも言えない一人の愉しみを、ニヤっとしながら追求してみるものも、また一興なのではないかな。シェアしたい(発信したい)楽しみと、シェアをあえてしない、自分だけの贅沢な愉しみ。どちらも意図的に使い分けて、最後は、自分が一番楽しめるように、自分で整えてあげることをちゃんと心に留めておこう。

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