増える招待制と、見えない紹介制
ふと、facebookやInstagramを覗いて気づいたこと。「招待」というワードって、すごく増えたなあ。と。
招待制のパーティ。招待制のイベント。なんかキラキラしていて見た目にも華やかで、ちょっぴり優越感をくすぐるような響き。まだ社会人のなりたての頃か、「招待制」とかついたものに行ってみたいという、初々しい感覚があったような気がする。いや、まあ、今も好きなんだけど。
しかしながら、なんか最近これが、やたら多い。
Instagramのアドでしばしば見かける、このワード。そもそも自分の場合、Instagramは自分用にやっているものだから非公開だしフォロワーも50人くらいしかいないのだけど、何を見てアドを送っているんだろう?(いや、多分facebookなのだけど)招待制って書いてあるけど、何人くらいの人に送っているんだろう?と勘ぐってしまう私は、やっぱりちょっと、ひねくれているのかもしれない。。
きっと、それだけ、ここ5、10年で一気に「人をどこかに呼ぶ」とか「集める」という行為が、爆発的に増えたからなのだと思う。そして、その手法がCMからダイレクトな手法に変わって、それがあまりにも自分が日常的に目にするところ( SNSのタイムラインなど)に入り込んできたのだということに、ひどく納得したのだった。
「招待制」というワードは、すごく甘美な響きがあって、そうやって言われたならわざわざ呼ばれているような気がする、特別感がなにかあるような気がするということで、足を運びたくなるもの。もちろん私も他聞に漏れず、ついクリックしていたりした。それでもあまりにも増えるうち、これって、ちょっと、違わないか・・?と思い始めたのだった。
言葉として間違っているわけではなく、今の時代は「招待」が「簡単に」そして「一気に」できるようになったのだ。昔は一枚一枚手紙を書いたり、電話をかけていたことが、facebookのイベントページで、名前を入力すれば招待完了。メッセンジャーでDMの画像を送れば招待完了。アドセンスのターゲットにステータスを入力すれば招待完了。その手間やコストがテクノロジーの進化により、極限まで少なくなっただけで。
それを、タイムラインに踊る華やかなアイキャッチ画像で彩られたアドをつい見ながら、感じたのだった。
一方で、ここ数年加速したのは、「紹介制」のつながりやチャンスだと思う。
そして、それは「招待」よりも見えにくく、手に入れにくい。
(招待と紹介は、もちろん言葉の意味としてはそれぞれあるけれども、今回はわかりやすくするために分けて書いています)
昨今、「この人と一緒に過ごしたい」「この人みたいになりたい」という人軸の動きはどんどん加速している。
だから人は一緒にご飯にいったり、一緒に仕事をしたいと思ったり、ただ会いに行ったりする。
招待、は比較的片方のパワーが強い(1対多で呼ぶケースが多い)印象だけど、紹介制は関係性を重視される。紹介には信頼関係や”同レベル感”、招待よりも、もっとずっとシビアに、実力主義な印象だ。言うなれば、「同程度の価値を提供しているかどうか見られている」ような気すらする。
紹介は、紹介した方が「紹介した件」の責任を負う。そういうと大げさに聞こえるかもしれないけれど、それだけ相手のことを大切にしているから、お互いが変なことが起こると困るのだ。そうすると、必然的にかなり慎重に、紹介を行うことになる。そこには利害じゃなくて信頼関係を大切にすることだけを考えられている。そうして厳選された中で、自分の信頼感を担保に入れた上で行う「紹介制」は、適切に機能するということがよくわかる。
紹介制、と書いていると、「紹介制のバー」とか「紹介制のレストラン」とかがイメージされがちだけど、人との関係で紹介されることはすべてが「紹介制」なのかもしれない。そして、自分にできる小さな貢献を積み重ねていくことでしか、そのすばらしい”紹介制のなにか”を手に入れることはできない。
圧倒的な容姿、相手の望んでいることを叶えてあげる、仕事で目をひく成果をあげる、困っていることを助ける、なんでもいいのだけど、相手に対して価値があると思うことをやり続ける。そうすることで、新しい「紹介制のドア」が開くのだと思う。
素晴らしい「紹介制」に出会うために、毎日実直に、相手へ価値を提供できることに一生懸命であること。自分が出会いたいと思っている人やことがあるのであれば、その人に提供できる何かの価値を生み出せるように、自分の相対的な価値を高めていくこと。
それが、真に魅力のあることを「紹介して」もらえることへの、一番地味で、一番近道なのだから。
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