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サブカル大蔵経488田原総一朗『日本近現代史の「裏の主役」たち』(PHP文庫)

米、英、ソ連から睨まれた〈社会主義者〉大川周明。

松井石根の蒋介石との絆。熱海の興亜観音像建立。

頭山満の無私。脱亜・興亜。孫文を救え、滔天、頭山、犬養、兆民。

北一輝。別名魔王・包絡・須佐男。大川周明より3歳上。大川周明5.15.北一輝2.26。

教科書で名前だけは見たことある人たち。

右翼や左翼のスケールが今と全く違う。

田原総一朗さんは「なぜ?」という問いを大事にする人だと思う。理想と現実がどこで食い違ったのか。そのために対象を取材して、愚直に斬り込んでいく。

私は本書で北一輝に興味を持ち、その後、渡辺京二さんの著作に出会いました。参考文献を見て、田原さんは、なぜ渡辺京二を読まなかったのだろうと思いました。

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大川に理論展開をさせると、天皇に戦争責任がある、戦争は大御心を反映して皆でやった、ということになってしまう。p.65

 印哲出身の理論。

福岡人のあいだでは、中央政府のやり方はでたらめで専制的であるとして、政府打倒の機運が強かった。p.148

 玄洋社。福岡の反中央気質

ミャンマーの反英闘争の最前線で戦ったウ・オッタマは、1907(明治40)年7月に浄土真宗本願寺派の門主、大谷光瑞を頼って日本にやって来た。/オッタマは龍谷大学に学び、頭山や内田良平などと交流するようになった。頭山はオッタマの豪快な行動に惚れていたようで、1929(昭和4)年5月、南京でオッタマと会った時、オッタマが「興亜のことは大して難しくない、日中印三国が揃ってロンドンに小便をひっかければいいのですわ」と笑っていたことを、のちに痛快そうに語っている。p.215

 アジア主義と大谷光瑞

1925大正14年5月9日、頭山と犬養、そして渋沢栄一が発起人となって東京芝増上寺で孫文の追悼会が営まれた。p.227

 ここで、渋沢栄一!

僕はもう北さんとは一緒にやっていくことは、できなくなったよ。p.275

 大川をもってしても。

国体の担い手は「万世一系」の天皇ではなく、天皇の実権を奪取し続けた「乱臣・賊子」こそが国家生命の持続者だったということだ。明治の昔に、北は大変なことを言ってしまったのである。p.356

 佐渡ヶ島から撃つ。

北は「主権は国家」にあって、天皇と国民もその国家の「一分子」なのだと主張しているのである。p.382

 国家>天皇=国民

鈴木貫太郎侍従長への襲撃は、昭和天皇を激怒させた。そして天皇の激怒が、青年将校たちの命運を決めたのであった。じつは鈴木夫人は、昭和天皇の子供のころの乳母だった。p.479

 鈴木寛太郎というキーマン

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