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サブカル大蔵経559ダイアン・フォーチュン/大沼忠弘『神秘のカバラー』(国書刊行会)

学生時代の盟友・石井さんから久しぶりに聞いたカバラ。本棚を探して久しぶりに読みました。西洋の限界と東洋に学ぶという内容に見えますが、オリエンタリズムが濃厚なのか?〈統一〉という視点は貴重だと思いました。平田篤胤がカバラを知ったらどうなったかを思いました。

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キリスト教を受け継いだ民族はその宗教をユダヤ文化に負っている。このことは東洋の仏教民族がその宗教をヒンドゥー文化に負っているのと同じくらい確かである。p.17

 宗教の隠された元々の原点を辿ろうとする姿勢が、オカルトや異端と呼ばれる。

我々の神学にはこのような嘆かわしい限界がある。そのため多くのヨーロッパの求道者は東洋の方法を採用することになった。p.22

 東方から来たるマギ賢人もこの系統か?

「生命の木」は体系というよりむしろ方法である。p.50

 これを使ってたどり着く世界。知識の世界にとどまらず、実践か。

「ビナー」を頭とする「峻厳の柱」は女性原理、ヒンドゥーの「ビンガラ」、中国の「陰」であり、「コクマー」を頭とする「慈悲の柱」はヒンドゥーの「イーダ」、中国の「陽」である。「均衡の柱」は「シュシュムナー」「道」である。p.119

 こういった単語の響き見ると、アジアで受けたアーユルヴェーダのマッサージを思い出します。道(タオ)は、中道なんだ…。

「アラー」と「ブラーフマ」とか「アメン・ラー」とは全て我々が「神」と崇拝している存在の異名に過ぎないのだと言うことを知るならば、グノーシスが排斥され、その文献が隠滅した時、ヨーロッパで忘れられてしまった多くのことを学ぶだろう。p.123

 グノーシス主義を排斥することで、純化したキリスト教が失ったものは、どこかで回復したのだろうか?異端を作ることで、ダイナミックになるキリスト教。今はイスラムがその標的、仮想敵なのでしょうか。

ヴェーダンタ哲学では「ケテル」が「パラブラフマン」、「コクマー」が「ブラフマン」、「ビナー」が「ムラプラクリティ」に相当する事は疑いない。p.154

 響きが懐かしいです。

キリスト教哲学の中で全く理解されてないものがいくつかあるが、その最たるものが悪の問題である。そしてキリスト教倫理の中で全く正当に扱われていない事柄の1つが「慈悲」p.235

 キリスト教の悪と慈悲。仏教やイスラム系のそれと比較してみたいです。

「卍」もまた自然の十字架であり、時に「トール十字」あるいは「トールのハンマー」と呼ばれる。p.286

 雷電の旋回が卍か。北欧神話はキリスト教以前の文化を残しているのか?

ギリシアの娼婦は教養のある女性であったと考えられる。もちろんそこにはあらゆる段階があって、日本の芸者によく似た比較的低い者から、有名なフランスの青鞜派風のサロンを開くような比較的高い者まで、色々な娼婦がいた。p.305

 唐突に芸者が登場しました。

「西洋」の典礼に関して残されているものは、全て「教会」の、「メイソン」の、そして「キャバレー」の演出家の手中にある。「教会」は神の愛を呼び出し、「メイソン」は人間の愛を呼び出し、キャバレーは女性の愛を呼び出すのである。p.403

 教会、メイソン、キャバレー…。


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