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サブカル大蔵経633八木誠一『パウロ』(清水書院)

本書のおかげで、パウロに出会えました。キリスト教と仏教のタブーの壁を壊す想像力を後押ししてくれる衝撃的新書。

キリストが私に現れた。生きているのは私ではない。私の中でキリストが生きている。単なる対象ではない。p.28

この、パウロの言葉の断絶なしの一体感。

宗教の世界とは決して何か特別なもの、超自然的なものでは無い。オカルトめいたものでは無い。p.217

八木誠一さんは、キリスト教の誤解を解きながら、宗教の本質に迫ろうとします。

パウロは生命に至る道として、十字架につけられた方への信仰を解く。それはひとつの道であって唯一の道ではないと言える。阿弥陀信仰も、禅の悟りも、それへの道であろう。現代人は過去の宗教批判をしても本当に自分たちにふさわしい生命への道をまだ見出していないのかもしれない。p.216

自分の宗教だけが正しいわけでも唯一の教えでもないという提言は有り難すぎます。八木キリスト教を通して、浄土真宗に所属している自分自身を見直したいです。

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例えてみればイエスは美しい自然である。誰でもすぐそれなりに味わうことができる。パウロは、一応故事来歴をわきまえなければ良さも独創性もわからない古代建築家美術品のようだと言えるかもしれない。あるいは、ルールを詳しく知らなくてはわからない競技のようなところもある。そのかわり、わかり始めたらこれは面白い。パウロを知らなければルーターやカルバンは無論アウグスティヌスもわからない。彼を除いてキリスト教を語ることはできない。p.3

 パウロを面白がっていいんだ!

簡単に説明すると、弟子たちは死んだイエスが復活したと信じたのだが、現代の私たちはそれを文字通りに受け入れる必要は無い。イエスが復活して弟子たちに現れたと言う事は、弟子たちに人間存在の深みがあらわとなった出来事と介することができる。p.17

 信じなくていい!これは信用できる。

イエスの死によって、神と民との間には、新しい契約が成立した、と言うのである。つまり神と民との間には、今や新しい関係が成り立った。イエスの贖罪死によって、神の祝福による新しい道が開かれた。人の罪は許された。律法を学ぶ機会もなく、ゆえに律法を知らず、したがってそれを行うこともできない罪人も、今や救いに与ることができると言うのである。これは伝統的ユダヤ教の否定である。p.20

 浄土教的な雰囲気。自力・難行のユダヤ教に対する他力・易行のキリスト教。

律法を守ったり、神殿で祭儀を執り行なったりという伝統的な仕方で神に仕える必要は、もはやない。ここにユダヤ教ではないキリスト教が成り立つのである。p.21

 神に仕える必要はない。

パウロはエルサレムでキリスト者の家々に押し入って男女を引きずり出し、獄に渡して教会を破壊した。p.23

 キリスト教の最大の敵だったパウロ。

キリスト顕現、では、キリスト教はパウロの幻覚の上に成り立っている幻想にすぎないのだろうか。p.25

 パウロの頭の中のキリスト教!それが今まで続いている?!

キリスト教がユダヤで受容されず、異邦に広まったのは、まさに神の意志でもあり、ユダヤ人が自ら招いたことでもあるとルカは告げている。p.27

 仏教と同じ?

回心の前も後も、彼が信じた神は同じである。回心ということは、律法を守り行うことが神の御意に従う所以だと確信していたパウロが、律法の行によって神に受け入れられる者になろうとして励んでいた律法の道を棄てて、十字架に死んで甦ったキリストを信ずるようになったことである。キリストへの信仰によって神と結ばれたことである。彼が信じた神は同じ神であっても、神とともに歩む仕方が前とは根本的に変わったのである。p.30

 ユダヤ教・律法は小乗・戒律で、キリスト教は大乗仏教か?

救済の根拠はイエス・キリストの死・復活であり、人は律法の行によってではなく、信仰によって神との正しく平和な関係に入るということ。p.39

 神との正しく平和な関係…。これが原始キリスト教か?しかし、十字軍などの残虐行為では、キリスト教が一番平和から遠い根拠となる。それはその背後の人たちの問題か、キリスト教に内在したものなのか。

パウロの相手は倫理的放縦主義に陥ってゆく。教会の秩序を尊重せず、性的不品行を行なった。熱狂主義。人間の社会性が要求される局面で、客観的・規範的なるもの一般を拒否すること、自分たちは霊的人間だからそれが許されると主張すること、つまり律法主義とは逆の偏向。何をしても差し支えないということになる。p.62

 この辺りも親鸞を悩ました「造悪無碍」の問題に似ているような気がしました。

パウロの問題は、何が人間の主体なのか、ということである。パウロ自身が何を探し求めているのかも明らかでないまま、模索していた。キリスト顕現により、旧い自己が死んで、キリストが自分の中で生きている。p.77

 個人、わたしの問題。この辺りは、パウロが親鸞聖人に重なります。

私が私として生きる事は、他者が他者として生きることの一条件になっているはずである。p.85

 この文言は、蛭子能収語録に酷似。

パウロはキリスト信仰においてエゴが崩壊し、克服されて、キリストが各人の真の主体となる、それによってかえって本来の自己が成り立つ、と主張する。p.92

 各人の主体が一度キリストとなる。この辺も仏法的か?

十戒の「殺してはならない」は、原語のヘブル語では、命令形ではなく、未完了。あなたは殺さない。律法は人間の行為の形の基本を表すもの。十戒も神と人間の基本関係。強制力を以って命令するものではない。正法眼蔵にある諸悪莫作も、仏の命に生かされる人間は悪をなさないものだ、である。p.108

 ユダヤ教の律法と、正法眼蔵。

メシアのギリシア語がクリストスであり、私達はふつうキリスト(救世主)と称している。つまりキリストとはもともと固有名詞ではなく職能を表す普通名詞だったのである。p.122

 〈ブッダ〉も一般名詞でした。

信ずるとは、自己を神に委ねることなのだ。自己のはからいを棄て、自己を神に委ねること、それが信であり、この信はそれ自身が神からの贈り物であり、神の行為であり、ゆえにエゴの否定滅却であり、ゆえに信において自己の主体の転換が起こっているのである。p.138

 まるで浄土真宗の教義のようです…。

このような「信仰」は何とよく親鸞の信心と似ていることだろうか。親鸞の場合も、煩悩具足の凡夫は自力では成仏できないのである。阿弥陀仏への信仰によって、浄土往生が定まるのである。/南無阿弥陀と唱える行それ自体が弥陀の誓願力の回向によることであり、その意味で、この行の主体は阿弥陀仏そのものであり、自力に死に、阿弥陀仏に帰命することによって人の主体に転換が起こるのだ。p.140

 ずばり、まさか、キリスト教と浄土真宗について八木先生は語り出されました。

キリストと阿弥陀仏は同じ超越者の別名だという解釈が可能となってくる。キリスト教は、イエスとキリストを同一視した。つまり、イエスが死んで甦って、霊的存在としての超越者となった、と考える。これは法蔵菩薩と阿弥陀仏の関係に似ている。/パウロと親鸞の信仰の対象は、実際的にも同一の超越的現実だと考えてよいのだ。/換言すれば、パウロの宗教は決して、狭い意味でのキリスト者だけにかかわることではないのだ。/実はあらゆる人にかかわる現実の証言なのである。p.142

パウロ イエス キリスト 神
親鸞  法蔵  阿弥陀  浄土

 でしょうか?すごいです。

私がキリストから離れるとき、エゴとして振舞いはじめるとき、キリストは私を審く者となる。そしてキリストが主体である生き方を求めるのである。このとき、超越者は「命ずる者」となる。p.186

 離れた時、裁かれる。神や仏の物差し。

神は人を救う働きの主体であり、キリストはその内容なのである。p.190

〈キリスト〉は、はたらきの〈内容〉!これ、阿弥陀をはたらきと捉えるのと同じ。最近、浄土真宗本願寺派は阿弥陀如来を人格神的に扱いますが、本来は〈はたらき〉だと思いますので、心強い論説。

イエスが神の支配=人の子と呼び、浄土仏教が阿弥陀仏と呼んでいるものとー把握と表現の仕方は違うとはいえーつきつめて考えると本質上同じものである。p.215

 本質上同じ!プロレスで最後にまさかの大技浴びたような高揚感。押忍!


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