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サブカル大蔵経740東千茅『人類堆肥化計画』(創元社)

坂口安吾は、堕ちよ、と言った。

東千茅は、腐れ、と言う。

ここで腐敗=堕落すると言うことの意味は、人−間から異種達の蠢く〈土〉へ降り立つということである。p.159

土にまみれ、生き物と暮らす著者を追体験していく中で、人間のつもりで生きてきた私の思想や行為が再考させられていく。

四季を通して私を堕とそうとしてくれる。畑を耕さずとも、窓を開ければ虫が入り、玄関の外には雑草が生えている。

〈何者でもない〉著者の言葉に委ねながらページをめくっていく中で、最終盤の一節は、削ることもできないくらい、そのまま本書をあらわす一文となっている。

どうしたら、この一節に辿り着くことができたのだろう。里山で暮らす人たちはみなわかっていることなのだろうか。今一度打ち込みながら、くぎりながら読んでみる。

生き物たちは、人間を感動させるためにいるのではないし、清く正しい存在でもない。

すべて生物は、他者を食べ、消化吸収し、排泄する存在であり、生きるためなら他者を蹴落とすことも辞さない存在なのであって、その点では人間と変わらない。

彼らは何も特別ではない。それを、自分たちとは異なる無垢な者たちとして、自分たちの上下いずれかの位置に置くことは差別以外の何ものでもない。

安い感動の涙で己の目を曇らせ、人−間本位に気持ちよくなりつづけている限り、生き物たちを見ているとはいえず、生前堆肥からは程遠い。

軽はずみに同化せず、かといって上や下に追いやりもせず、ただ同じ地平にいる身近な生きた他者として、異種たちの存在を一方的に愛しぬくこと。

このことを肝に銘じながら、わたし自身、彼らとの物語を語る言葉を、日々生き物たちにまみれながら模索している。(以上p.219.220)

本書を頭から読んで、またこの一節に、辿り着きたい。でも、読むだけではダメなのだろうか。

砂漠と星の宗教、太陽と光の宗教、山と海の宗教、森と雨の宗教。

そして、すぐそばにある、里山の宗教。

堆肥的喜び。その法喜と断絶。

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私の見立てでは、人類はおしなべて腐っている。/あるいは、腐敗が足りていないと言うこともできる。/中途半端な腐敗でいい気にならないでほしいものだ。p.2.83

 政治家の腐敗。堆肥まで腐れと。

里山には人間が少ない分、煩悩まみれの生物たちがうじゃうじゃいる。p.20

 人間のはからいを超えた、里山。

ところが、手羽先を食っていると彼らはぐいぐい欲しがってきたp.49

 共喰い

この惑星上で連綿とつづいてきた循環過程における、清々しいまでの容赦のなさが窺える。ここに慈悲などというものはないほうがいいだろう。p.63

 僧侶の語る慈悲は、人間本位の見方かもと再考させられる。

このときわたしは、さしずめほなみちゃんの奴隷といえる。p.101

 植物の奴隷としてのヒト、それが地球。

怠惰とはあれこれしないことだ。人間が〈しない〉だけで、いろいろな生物たちが〈する〉。/こちらがあれこれ手を出さずに、多種が〈する〉に任せて、それを利用するのである。p.197.202

 親鸞聖人が、常陸国(茨城)で畑を耕していたとすれば、そこで培われた想いが、真宗につながったのかも?里山での他力。

そのとおりにすれば野菜は育つかもしれない。しかし、野菜以外の生物の生きる余地はなくなってしまう。p.198

 選択は全体を殺す。

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