見出し画像

サブカル大蔵経895香月乗光『浄土宗日常勤行の話』(浄土宗出版室)

私の父は、「浄土真宗は浄土宗に大政奉還したらいい」と言っていました。狭い日本の浄土教が分かれている場合ではないと。

大学時代の恩師は、私が浄土真宗の寺の息子だと聞くと、「まず法然を読みなさい」と言いました。この視点は宗派系の学校にはなかったのではないかと思っています。

仏教学の先生は「浄土宗と浄土真宗の違いは?」と私に授業中、聞きました。「同じみたいなもんじゃないですか?」と答えたら、「怒られるよ」と言われました。

それ以来30年が経ちました。いまだ浄土宗も浄土真宗も勉強を疎かにしていますが、先輩方の言葉は忘れていません。

今回浄土宗の本を買って、勉強というより覗き見させていただきました。浄土宗と浄土真宗はどこが違うのか、同じなのか。

最近の浄土真宗本願寺派では、心掛けとか、生活とか、本書が描く浄土宗の考え方に寄ってきているような気がしています。

他力と自力のはざまの印象の浄土宗。後輩である真宗門徒にとってこれからも教えて頂きたいことがたくさんあるような気がしました。

そして、浄土宗は法然上人をどう捉えているのか。実は浄土宗も掴みきれていないような気もしました。法然上人の巨きさをいっしょに語り合いたいとも思いました。

画像1

おつとめを順を追って丁寧に解説。

画像2

ひとつひとつの言葉が真宗には新鮮でした。こんなこと私は普段考えたことないのでショックでした。

画像3

「おつとめ」は、また、「看経」「諷経」ともいわれますように、お経を読むことが中心ですが、それとともにみ仏を礼拝し、み仏のお徳を讃歎し、み仏を供養するものです。p.12

「み仏を供養」という言葉に思わず付箋を貼りました。真宗だとこのベクトルはないかな。逆に仏教的には当たり前で、真宗だけがない世界かもしれません。だとすると真宗での供養って何か。仏からのベクトルを受け止める確認と感謝なのだろうか。

しかしここで大事なことは、この仏心が動き出してくるのは、み仏が私におはたらきかけになっているからである、ということであります。み仏の前に坐って礼拝する私は、み仏に動かされている私であります。p.41

 自力と他力の共同作業的のような。少し固い、二項的な図式化されたイメージ?

四奉請の第三は、弥陀如来をお迎えするのです。弥陀は阿弥陀(Amita)の略で、ここでいよいよ十方の諸仏のお勧めに従い、釈尊のみ教えによって、私たちのご本尊である阿弥陀仏をお迎えし、心からそのお救いとお護りとをお願いするのであります。p.61

〈いよいよ〉という言葉が素敵すぎます。浄土宗の四奉請は十方、釈迦、弥陀、観音勢至の順番。真宗だと登場順は逆です。登場順の理由も、この後の阿弥陀如来についての説明も丁寧で整然としていました。やはり浄土宗で勉強した後、門徒になった方がいいかも。通過点にすると怒られるけどやはりまず浄土宗に触れた方がいいような。

浄土宗においては、ただ阿弥陀仏の名号を称えるところに、おのずから懺悔が行われるのです。善導大師が「専ら弥陀の号を念ずるには如かじ。念々の称名は常に懺悔なり」(『般舟讃』)と申されているとおりです。私たちがひたすら念仏を称えてまいりますと、自らみ仏の光に照らされて、自己の罪深さが反省され、懺悔の心が起こってくるもので、念仏の相続されるところに、そのまま常に懺悔の生活が営まれるのであります。p.88

 懺悔がない真宗には新鮮でした。一瞬、キリスト教をイメージしました。または先達の伝教大師・最澄を想いました。真宗では、親鸞聖人のみが私たちの代わりに悲嘆してくれているような。法然の厳しさを親鸞は受け継いでいる。

 それにしても善導大師にこのような言葉があったのも知りませんでした。同じ善導でも法然上人と親鸞聖人ではやはり依るところが違うのでしょうか。

法然上人は、このような十悪を犯している人間の姿を自己の上に見出して、深い反省と懺悔の心の中に、そのような罪深いものが、念仏によって救われることを確信しp.93

 法然の真面目さと厳しさを浄土真宗では大谷派が受け継いでいるような。お東の方とお会いしてお話を伺うとそういう意識の方が多い気がしています。

「その心がきまることによって、すなわち往生の業もきまるのであります。このように心得なければ、往生はきまらないのであります。」(『四十八巻伝』第二十二)p.148

 「きめる」のか…。この辺が浄土宗と浄土真宗の分岐点でしょうか?「きめれない人」を親鸞聖人はターゲットにしてくれたような。それが真宗のありがたさであり、他宗からしたらゆるさなのか。でも、最近の本願寺派は決めかかってるかな?

私たちはお念仏するとき、阿弥陀仏に対して「どうぞ、この私を、おたすけ下さい、お救い下さい」と全身全霊をなげだし、すべてをおまかせするという心がまえをもって、み名をお称えすることが肝要であります。p.164

 この五体投地的な念仏観も新鮮でした。より〈宗教的〉な印象がします。浄土宗は法然上人自ら「宗」を立てたわけだから、やはり浄土宗としての行を重視されたか。

み仏とお別れするに際して申す念仏でありますから、先ほど行なった「念仏一会」とは、また違った意味で、一層威儀を正し、高声に、慎重に相続せねばなりません。p.184

 お別れ、ですか!だからこそまた仏様に逢えるための念仏の作法。本願寺派も昔は「合掌・礼拝」でしたが、最近は本山に行くと「お念仏をお称えしましょう」と呼びかけています。念仏が強制されている印象を受けましたが、念仏の声が聞こえないことへの危機感なのでしょうか。

ついでながら、この「三唱礼」にちなんで申上げておきたいことは、念仏を声に出しつつ身体を屈伸させる運動が、健康のため、大変好結果をもたらすということであります。p.186

 先日ウチのご門徒さんが「お経となえて声出すのは身体にいいと思うので、それをお寺に人を集めるためにメリットとして呼びかけたらいいのでは?」とニコニコ話してくれました。浄土宗でこのようにお墨付きいただいているのは心強いです。

また親鸞聖人が好んで「南無不可思議光如来」(曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』、九字名号)を用い、日蓮聖人が「南無妙法蓮華経」という七字の唱題を強調されたことなど、あまねく知られるところであります。p.190

 本書で唯一親鸞聖人に触れている箇所。親鸞聖人、日蓮聖人という並びで、法然の後継という感じではない別世界の雰囲気。でも、取り上げていただいているだけでもありがたいと思いました。

この記事が参加している募集

読書感想文

本を買って読みます。