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サブカル大蔵経17 伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留編『世界哲学史1』(ちくま新書)

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「人間とは何か」に驚くことであろう。p.29

 発刊始まっていたちくま新書のシリーズ。慌てて第1巻を購入。

 2001年上海訪問のジャック・デリダ。「中国には哲学はない、あるのは思想だけである」p.39

 哲学と思想の違いがまだよくわからないんですが、哲学者がいないと哲学にはならないということか?

 儒教は哲学ではなく、思想か道徳なのかな…。世界を語っていないからか?

 中村元先生とかは、どういう使い分けをしていたか。哲学より思想という言葉を大事にしていたような気がする。つまり哲学という言葉は西洋寄り概念ということか?

 私たちが「哲学の誕生」を検討する一つの目的は、一方で、そのようなギリシア起源を相対化しつつ、他方で、インドや中国といった並行する哲学伝統を同じ土俵で評価する基盤を確保することにある。それが「世界哲学史」の意義であり、私たち自身の哲学の可能性なのである。p.44

 西洋だけが哲学ではない、ということですよね。それはずっと思ってました。

 古代エジプトの理解において人間は、肉体のほか、名前、影、バー、カーの合計五つの要素から成り立つ。バーは人格、カーは生命力。p.75

 バー&カーってエジプトはすごい。

 インドの「哲学書」(ダルシャナ、シャーストラ)と呼ばれるものの最大の特徴は、その哲学の技法にある。p.142

 ダルシャナの技法は、日本にも入ってきているような…。教行信証とか。

 ピタゴラスは自身を知者(ソフォス)ではなく、それに「愛する(フィレオー)」を付した哲学者(フィロソフォス)と呼ぶ。神以外は知者ではない。知恵を歓迎するものが哲学者だ。p.161

 仏教も同じか?本当に目覚めるのはブッダだけで、あとは、目覚めること、悟ることを希望する人が周りにいるというかたちか。

 哲学者と対比されるソフィストとは、多くの人々にそう思われている通念を表現しているに過ぎない人々。p.223

 ソフィストが気になる。インドの六師外道、中国の諸子百家みたいなものか?現代の日本は芸人やホリエモンがこの位置にいると思う。

 キリスト教にとって、古代ギリシアの哲学者は傲慢。神の救いなしに、人間の理性だけで幸福を実現できると思っていたからだ。p.244

 キリスト教と哲学の関連。ここもいつもよくわからない。

 世界哲学会は、120年ちかい歴史で、いまだ日本で開催されていない。p.293

 日本に哲学がない、ということになるのかな?「哲学」という概念は、思っているよりかなり欧米寄りなのかなぁ。「宗教」もキリスト教関連を指し、仏教はブッディズムという仏教主義という言葉しかない。つまり日本には哲学も宗教もないという国と見られているのかな。その通りなのかな。

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本を買って読みます。