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サブカル大蔵経810金森修『動物に魂はあるのか』(中公新書)

新書の範疇を超えた問題作。

いや、本来の新書の役割を想起させるような一冊という気がしました。

蝉が壊れた。この言葉を発した途端、大声で叫んでいた女子学生がいたっけ。p.5

『人形論』や『ゴーレム』の金森イズム満載の遺作ともいうべき入魂の一冊でもあります。

マルブランシュを見てうれしそうに近寄ってきた雌犬を、マルブランシュは出し抜けに蹴っ飛ばした。その雌犬は妊娠していたが、彼に蹴られて哀しそうな声を上げて遠ざかっていく。(中略)マルブランシュ「おやおや、あなたは知らないんですか、あれは別に何も感じないんですよ」p.74

本書中、最も下衆なこのエピソードが伝わった理由。

〈考えられたこと〉も一種の〈事実〉として残るという発想こそが、私の思想史的作業を心理的に支えてくれる基礎になった。p.246

人間が動物をどう捉えてきたか。

人はなぜ人を差別をするのか。

残酷と依存と誤解の果てに行きつく現代。

本書はヨーロッパの精神史を批判しながら、ヨーロッパの伝統に基づいた骨太の啓蒙の書と言えます。中高生にも読んでほしいと思いました。

読者の忍耐もそろそろ限界に近づいてきたか。「あなたは結局、動物に魂があると思っているんですか。」はい、お答えします。トンボやチョウチョに恐らく魂はないでしょう。でも、彼らは魂をもつ人間と一緒にこの世界に住んでいます。p.242

人間という不思議な存在が照らされた。

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動物の場合、植物同様に栄養的能力を持つのだが、人間とは違って思考的能力を持たないと中間的な位置づけになる。p.24

 アリストテレスの分析から始まる。動植物と人間の上下関係はこの頃はあるのか?輪廻的な感覚もありそうで、インドとの繋がりも夢想してしまいます。

人間を動物と区別する根拠は何もないと言うことになる。人間が人間たりうるのは人間には精神があると言う限りに於いてだ。p.58

 デカルトの「動物機械論」。逆に言えば、精神がないものは人間ではないと。

また「方法序説」が出版されてからも、自分で子牛、ウサギ、牛の目などを解剖していた。その際、ウサギや犬をどうやら生きたまま解剖もしていたらしい。p.70

 魔人・デカルト。

彼らはその情欲に溺れながら自己を解放しているつもりで実は自分自身の奴隷だった。p.107

 ラ・フォンテーヌの箴言。人間の本質。

黒人も猿も血を流せば同じようにゆっくり弱っていくと書いている。p.133

 ヴォルテールの狩猟者の眼差し。

ペットや家畜の優秀性、それと対比的に取り上げられる知的障害者や老残を晒すニュートン。異種の動物への感受性に富んだ眼差しと、人間という同胞に対するある種の見切りと冷酷さの合体である。われわれは後に、この構図が現代でも繰り返されると言うことを見ることになるだろう。p.143

 社会保障、介護、医療、全ての根源。どう考えても、人間より実験動物や食肉動物の方が可哀想だと思っていた私は、人間のドラマや物語では泣けませんでしたが、今回、父の死を通して、混濁してきました。

重症障害新生児と健康なチンパンジーと命の価値を比べて、後者を重視したシンガー。動物に優しいということが、人間に冷淡である逆説。p.212

 アニマルウェルフェアへのモヤモヤ。動物を人間に擬すことでしか、西洋では判断の対象にならないということが逸脱のような。犬に服を着せる感覚に近いか。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』臓器提供は〈提供〉ドネーション。〈介護〉ケアは身体の弱ったクローンを世話すること。p.216

 介護と人形論。私が介護しているのは、〈人間〉なのか?という問いかけ。

マルブランシュが犬を蹴っ飛ばしていた風景は、われわれに嫌気を与える。だが、それから三百余年、われわれの生活は、マルブランシュよりもはるかに大規模、かつ系統的な仕方での一種の動物虐待に支えられているというのは否定しようがない。p.230

 嫌悪する相手は、私たちの鏡でした。

動物処遇問題は〈反差別〉という正義の規範に喜び勇んで参入する人々にとって、その倫理意識の限界点を指し示す。p.234

 人間と動物のいのちは平等か否か。それを〈種差別〉という言葉であらわそうとする考えの是非。動物を臓器移植に使おうとする医学倫理の最大の問題になりそう。


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