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サブカル大蔵経917田口茂『現象学という思考』(筑摩選書)

自分が仏教的と思っていたことは、実は、現象学だったのでは、と思いました。

以前読んだ看護の本の中で現象学が紹介されていて、興味を持ちました。

「物」も「本質」も「自我」も「他者」も、それだけ孤立的に実体として確保されうるものではなく、この流れ続ける現象のなかに、その運動の参照点として現れるものにすぎなかった。

 固有名詞を使わないで伝える本書こそ、現象学的書籍なような気もしました。

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「確かさ」を声高に主張するときこそ、われわれの心は不安に満ちており、その不安を掻き消そうとするかのように、われわれはますます声を張り上げるのではないか。p.13

 営業トークも、布教も、政治家の演説も恋人の会話も。

本当に何の疑いもなく「確か」だと思われていることは、かえってことさらに「確か」だと言われることはなく、あまりにも確かなことは、語られることさえなく、沈黙のうちに沈んでいるのではないか、p.14

 その沈黙する語られない確かさの探究。

「確かさ」を求めようとするなら、専門家に説明してもらった方が、「安心する」のである。このことにはもちろん、元々は正当な理由がある。だが、そこでわれわれが手に入れている「確かさ」は、どのような種類のものか?p.18

 飛行機が落ちずに飛ぶことも、原発が安全なことも。内田樹がこの「専門家」というものについて述べていたと思いました。内田樹やレヴィナスも現象学の系譜の先生なのかと今頃気づきました。だから、他の方とスタンスが違うんだと思いました。

絶対に確かではないことを信じて生きられるという、われわれの生き方そのものが、哲学的には、興味深い分析の対象になる。p.31

 分析の対象となることで、日常も宗教的信心もフラットになる、と思いました。宗教的信心だけが特別なものではないと。

いま見えている現われの背後に、現れることのない実体が控えている、などと考える必要はない。p.80

 ここが看護の現場における現象学的思考のすすめと思いました。患者のことを深くわからないという悩みから看護師を救う。

何かが確かに存在するかどうか、という問いは、われわれがそれをどのように確かめることができるか、という問いと相関的である。/通常「物」と呼ばれているような個々のアイテムではなく、「相関関係」こそが重要なのである(それが消えれば、「物」も忽然と消えてしまう)。p.93.100

 存在の確かさと、それを確認する私との関係。縁起的な性質を感じる相関性。

自分が「人間である」という類型的理解は、かなり深いレベルの自明性に属する。/すなわち、私は単に「人間である」のではなく、「人間という類型によって自己を理解している」p.151.158

 私は、看護学校の最初の授業で、生徒に「あなたは今人間ですか?」と六道的に尋ねできたのですが、私=人間だという自明性を崩そうとしていたのでしょうか。

自明なものは、主題的意識に対して自らを隠すことにおいてこそ、その力を存分に発揮することができる。p.252

 言葉にならないもの、かも。

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