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サブカル大蔵経797北塔光昇『真宗からの倶舎・法相読本』(永田文昌堂)

「真宗僧侶」が倶舎・法相宗を学ぶための教科書のような位置づけの本です。著者の北塔先生は、浄土真宗本願寺派の勧学で、僧侶を養成する機関の学長であり、私が学生の時からお世話になっている地元の先達でもあります。

 なぜ本書が著されたのか。なぜこのような内容が真宗僧侶にとっての教科書になるのか。それを考えさせられました。

宗祖親鸞聖人以来の真宗が、日本の仏教各宗とどのような教義的な関係をもって存続してきたのかということに関心が及びました。p.1

 真宗の聖典を読む時、親鸞聖人の言葉のその当時の意味や背景を踏まえないと内容が曲解されてしまう危惧があるのに、誰もその周辺の史料をまとめてくれないので、ご自身の立場の責任感から著したという思いが前書きで記されていました。

いま私たちが『倶舎論』に説かれることを倶舎論の教義によって学ぶのも説一切有部や倶舎宗によって悟りを求めるためではありません。真宗を学ぶ上で必要な仏教の宇宙観や人間観、加えて仏教で使用する言葉の厳密な意味と、親鸞聖人が倶舎宗をどのように判別されたのかを明らかにするためです。p.26

法相宗を知らずに浄土真宗の二双四重判を理解することはできません。p.70

 親鸞聖人が引用した経典を把握することの大切さをおさえつつ、それはあくまでも真宗理解のための勉強であり、そちらを仏教のメインとして傾倒してはいけないという両義性が常に内包されています。このバランス感覚を外さないで、親鸞聖人の教えに聴いていくことが著者の願いかと思われます。

仏教を学ぶことには役に立つと評価もします。しかし、結局は、「されども習学もたやすがらず、得益も又長遠なり」と勧められてはいません。p.58

 また、真宗僧侶が、仏教に対して、学問や興味本位で接することを戒める願いも感じられます。

 激務の中での執筆にあたり、かなり内容を取り急ぎ絞って書かざるを得なかったであろうご苦労が参考文献から偲ばれます。

 枚数が許せば、「唯識三年・倶舎八年」というような枕詞があるくらいの倶舎論や唯識のインド仏教での歴史の厚みや面白さにも触れていただきたかったようにも思いました。

 あくまでも親鸞聖人が学んだ日本の宗派としての倶舎・法相宗についての内容に限られたわけですが、インド仏教の智慧の真髄ともいえる倶舎論と、ひとつの到達点ともいえる唯識の面白さを伝えていくのも、学生が仏教に興味を持つには大切なことであり、〈大乗仏教〉を学ぶ糸口になるかもしれないと思いました。

なお、親鸞聖人が真実の教として明かされた浄土真宗の立場から他宗を一々論じた書物に、先にあげた存覚上人の『歩船鈔』があります。p.16

 本書で親切なのは存覚の「歩船抄」を紹介して頂いたことで、真宗教団の中での存覚上人の存在の大きさを再認識しました。存覚上人の背景についての記載はほとんどないので、これをきっかけに深めていくことも期待されていると思われます。

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四家の大乗と云は、法相、三論、華厳、天台なり。此他に真言、倶舎、成実、律宗を加えて八宗とす。又仏心宗を加て九宗とす。又浄土宗を加て十宗と云べし。是日本に流布せる宗なり。p.17

 当時から日本の仏教は、釈尊よりも、仏教よりも、宗派なのかと再認識しました。だからこそそれぞれが、プロレスの団体のように切磋琢磨したのかもしれません。

仏教一般では、ここまでの識を問題とするのですが、唯識教義では、その六識の最深層に私があり、その私があると思う心のはたらきが第七番目にあると考えます。p.78

 日本の法相宗の本山である興福寺元貫首の書籍とあわせて読むと理解が深まりました。

要するに、法相宗のインドの祖師である世親菩薩も、中国の祖師である慈恩大師基も浄土願生をなされたという事実こそ、『大無量寿経』が真実の教であることの確たる証拠であるとの仰せなのです。p.110

 前回の本項で取り上げた書籍で村上速水さんが説かれた歴史的事実と宗教的事実。


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