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サブカル大蔵経48 柴野京子『書棚と平台』(弘文堂)

 出版・書籍界の新しい評論。

 <流通>から考察する本の話。「本」はどこからどうやって今、私に届いたのか。

 「本」とは一種類ではなかった。雑誌、教科書、新刊、ゾッキ本、古本…。出版流通におけるこれらの位置づけがあることにも気づかなかった。たしかにヨーロッパではキオスクや空港や市場で雑誌を見た。Amazonで本を買うということはその分化を無化したのか?マーケットプレイスで古書、訳あり割引本はゾッキ本、そして雑貨も売るAmazonこそ、近代に戻った、先祖帰りの総合なのか?

 本に関してのエッセイでありがちな感傷的な場面もほとんどなく、学術的でありながら視点も優しく、本が生き物であり、その生き物を何とか届けようとしてきた人たちの歴史をきちんと初めて紹介してくれた労作だと思いました。

 出版流通は、単なる出版物の塊を無条件に手渡しているのではない。p.26

 人が本と出会い、選び、買って読むと言うことが、どのような場面でどのような動機や文脈を持って行われ、誰によって形成されてきたのかを追う作業を通じて、流通のメディア作用を明らかにすることを目指す。p.28

 新しい本を買ってきてすぐ本棚にしまうのではなく、積ん読をしておく習慣はしばしば思い当たるところである。それはまだ読んでいないからであって、読んだ本との作業上の区別をするためでもある。言うなれば個人の本棚は内面化されたものの集合体である。未読の書、自己を通過していない本を人目に触れさせたくない。p.122

 書店は、一元的でありながら複合的、近代的でありながら前近代的と言う重層性を具体的な現象から我々に提示するだろう。p.177

 円本や文庫本は、既に刊行されたものが遅れて安く提供されると言う点で、古本や貸本、そして特化本と大変よく似た特徴を持っているのだ。p.188

 アメリカの書店でコミックを売ろうとすれば、スタンドで売られるペーパーバックより格上の、トレードブックというステータスを得なければならない。アメリカの多様性は厄介なセクショナリズムと受け取られ、逆に硬直的とみなされる日本の一元流通はキャパシティの広いものとして捉えられている。p.190

 インターネット書店の検索発注システムは、それまで書店が行っていた本の検索と発注業務を、客に担わせるというビジネスモデルを確立した。この時点で流通の主導権は半分読者の手に移ったということができる。p.202

 どの本が「よい」本であるのかを決めるのは、出版社でも取次でも書店でもなく、ましてマス・メディアでもない。本の価値を決めるのは、それを手にした人なのだ。だから、私はすべての本がいとおしい。p.220

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本を買って読みます。