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66歳でお金のことに目ざめるまでの半生

アラ古希女子、のんなです。

還暦になってお金の大切さに気付き、66歳からは投資もやっています。

お金・投資を学び、人生観まで変わりました。

将来に新たな希望を感じています。

その体験を書いていきます。

昭和58年、28歳で横浜から新婚生活をスタートしました。


主に夫のサラリーと、長い結婚生活の間15年くらいの期間はわたしもパートアルバイトをした期間もありましたが、それが我が家の収入源。

66歳でお金の勉強をして気づかされた、お金に困らない、しいてはお金持ちになるためにはこうであってはいけないこと。そのいけないことの大方を実践しているダメダメな主婦でした。

まず家計簿なんて付けたこともありませんし、したがって毎月、毎年のお金の収支も把握していませんでした。

今お財布にいくら入っているか、さえわかってないようなそんな感じでした。

三人の子供を大学まで行かせて、そのほかにも習い事や語学留学、キャンプやスキー教室、などなどキリがないですが、子供にかかる教育費を計算してみたこともありません。

とにかく目先のことで精いっぱいで、どうにかこうにかやってきました。

人生における三大支出、教育費の次は住宅費です。


夫が34歳、昭和61年のことですが最初の戸建て住宅を横浜に買いました。当時のローンの利息は6%。

ところが数年住んだところで、夫に大阪への転勤命令が。

自分の家を貸して、同時に大阪府寝屋川市に借り上げ社宅として家を借りました。

その転勤による引っ越しは1月で、で予定よりもあまりにも早い、同じ年の8月に東京に戻るように、とまた会社の命令。

家を借りてくださった入居5か月の店子さんとの契約のこともあり、帰るから出て行って欲しいとも言えません。

住むところがない、、、、

で、知人に相談にしたら、社宅があるなら社宅に住んだら、子供のしつけにも社宅はいろいろ学ぶところもあるはず、と言ってくれて、なるほど目からうろこ。

文教地区として名高い埼玉県の浦和市 ( 当時、いまはさいたま市 ) の社宅に入れてもらい、おかげでよい環境で子供たちを育てることができました。

子育てはほぼ浦和で、、、17年暮らしました。

老後に向けての大きな転機、地元に帰る


長女は就職して家を出て、長男と次女は大学生、というタイミングで、、、


天の啓示か、夫とわたくしの双方の親のことが気になり、そばに行きたいね、と双方の実家のある横浜に戻る機運が高まり、転居を検討。

思い立ってから実際の引っ越しまで1年くらいはかかったかもしれません。

横浜にずっと貸している家はありました。

でも当時の夫の通勤や二人の大学生の生活範囲を考えて、そこに戻る気持ちはなかったので、

家族の条件に見合った借家を探しつつ、持ち家は売りました。

その時はちょっと焦り、というか不安もあった記憶です。

家がある、というのは保険のような、野垂れ死にはない、といった漠然とした安心感はあったんだな、と思ます。

当時夫は定年前、大学生がふたり、わたしも今思えば50代。

でもその年齢になってまた家を買う、とは思えなかったから不安は当然のことかもしれません。

( 実際はその後縁あって、今は自己所有の中古マンションに夫と二人で暮らしています )

避けて通れない親の見送り


この横浜への引越しは不思議なめぐりあわせで、実はその引越ししてきた当日に実家の母が余命数か月の大腸がんを宣告されました。

夜、段ボールの荷をほどいているときに、母と暮らす妹から電話があって、ショック!そんなことになってたの?

さいたま市にいたら、近いようで横浜には簡単には通えなかったし、そのために地元に戻ってきたんだから、

だったら母の最期をしっかり見届けよう、と決意した引っ越しでもありました。

結局母はその後2年以上頑張りました。

その間、大学生だった次女は運転免許を取って、母の病院の送り迎えなど、

亡くなったその日は実家に泊まり込んで最後の一呼吸まで一緒に看取ってくれたし、

お葬式では親族の送迎など、肝心な時に車を出してくれて助かりました。

( ちなみに母と同居していた妹はフルタイム勤務で時間に制限があり、時間に余裕のあるわたしはペーパードライバー。代わりに運転してくれたら、と次女の免許取得の費用は妹が出してくれました。大助かり )

母のことに話が逸れてしまいましたが、こうしてお金のことにはまったく無頓着ながら

家は売買貸借をすべて経験し、三人の子供を教育してそれぞれ自立させましたから、

大変だったけど、それなりの成果を見た、と思います。

親を送り、子どもたちは自立したころは、人生100年時代への自己投資の時?


さて、末っ子の次女が就職をして家を出た時はがっかりして、目がお岩さんみたいになるまで泣きました。ですが、待てよ、いよいよ自分の第二の人生、がやって来たのでは、と思いなおして立ち直り、それからは、まだ独身だった娘たちと割り勘で旅行をしたり、イタリア語や西洋美術史を勉強したり、

そういえばパソコンの勉強をしたのもこのころで、そのことはその後投資をやるときにも助かりました。

我が家の近所のイトーヨーカ―堂にあったATMもゆうちょはなくなってしまいました。

金融機関は店舗もATMも減りつつあり、今後は入出金や送金など、お金に関することもネットですることが普通になりますから、

パソコンができないと自分のお金さえどうすることもできなくなってしまいます。

高齢だからパソコンは難しい、わからない、やらないでは済まないと思います。

この時点で夫は一回目の定年後、わたくしは還暦を過ぎたくらいでしょうか。

このころは例えばイタリア語の勉強に、三田の慶應大学の夜学に通ったり ( 慶應大学の市民に開かれた語学講座で中学を卒業していて講習料を払えば受講できます、お薦めです、参考までに ) 

横浜から東京までは、どこに行くにも往復1300円くらいはかかるので、各種講習代と交通費が結構な出費でした。

独身の子供たちとは会いたいときに会って、夫と二人暮らしで食事の支度も家事も手抜きして、好きなことを勉強して、

こんな呑気な時間がずっと続けばいいような、、、そうはいかないような、、、、

そんな中でも長い老後のお金はどうするのか、気になってきました、遅い?


そろそろ子供たちの結婚もありか、というころ。

孫が生まれたらランドセルは買ってあげられるのか、その前に子供たちに仕送りしてもらわなくてもやっていけるのか。

と老後の、しかも長生きしたいから、長い長い老後の経済はどうなっているのか、年金は、と考えるようになった、と思います。

人生における三大支出、教育費と住宅費はなんとかなった。

いよいよ老後の経費、まで考えられるようになったのは、還暦過ぎて遅いっちゃ遅い、でもギリギリセーフと言えなくもない?

今日はここまで、長くなりました。読んでくださってありがとうございました。

次回は還暦過ぎたわたしが老後のお金に目覚めて、投資をやるまでにたどった経緯を書きます。

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