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【映画レビュー】『ザ・スタンド』――ポストアポカリプト×聖書の物語

またも映画レビュー、またもスティーヴン・キング原作です……。
この前観た『ランゴリアーズ』が面白くてキング映画の沼にハマりつつあります。

今回の『ザ・スタンド』も会社の人にDVDお借りしたんですが、後日映画の感想を伝えたところ、なんかその内容が物珍しかったようで、その場で似たような感想を発信している人がいないか検索しだしたりして……。
なんかそんな反応初めてだったんで、noteの記事にしてみようかなって気持ちになったんです。

とはいえ、おそらく大多数の人が見たこともない映画の感想を書き綴ったところで「So What?」になるので、創作活動をしている人に対して、「こういうアプローチ面白くないですか?」っていうスタンスで書いてみようかなと思います。

原作:スティーヴン・キング
『ザ・スタンド』

どうやら2020年に新たなキャストでリメイクされているようですが、私が観たのはゲイリー・シニーズ主演の古い方です。
ゲイリー・シニーズといえば『アポロ』だと思うのですが、私にとっては『CSI:NY』なんです。かつて一世を風靡したクライムサスペンス・ドラマです。とにかくCSIシリーズが大好きで、NYもラスベガスもマイアミも全シーズン全話観たし、たまにやってたクロスオーバー企画はもう最高に興奮したのを覚えています。ゲイリー・シニーズは9.11同時多発テロで妻を亡くしたCSI長官役でしたね、クレバーでかっこよかった……。

と、気を抜くとこのままCSIの話になっちゃいそうなので映画に戻りますが、これもDVDで上下合わせて全6時間以上という大長編になってます。
元々ドラマだったからですね。まあそれはどうでもよくて……

物語の構成は大きく4つのフェーズに分かれています。

 1部:生物兵器によるバイオハザード、文明の崩壊
 2部:ポストアポカリプト、新しい指導者の登場、コミューンの誕生
 3部:コミューン同士の戦い、善と悪のせめぎあい
 4部:最終決戦、善の勝利


基本的に群像劇になっていて、ポストアポカリプト世界に生き残った何人かの視点で、物語は展開していきます。

映画を鑑賞しているうちに、これって聖書の物語を現代版に翻訳しようとしているのではないかな?と思って、そのまま会社の人に伝えたところ、上記のような反応をされた次第です。

聖書の物語といってもたくさんありますが、どの物語も常に「YHWH=神」の存在が色濃く感じられます。この映画もそうで、随所に神の気配が感じられたり、神話のモチーフがくりかえし現れたり、人間をそそのかす悪魔のような人物が登場したりして、どこか寓話的なのです。

もしかしたら、キングがやりたかったのは、古代イスラエル人みたいな歴史上の人々が体験した神的な経験を、いま私たちが経験したらどうなってしまうんだろう?というシミュレーションなのではないかと思ったのです。

どういうことか、ストーリーの順を追ってまずは書いてみようと思います。


ノアの大洪水を、生物兵器によるバイオハザードに置き換える

物語の始まりは極秘の実験施設から危険なウイルスが漏洩したことに端を発します。
実験施設は軍事基地の中にあり、門番がいたのですが、彼はまだ若く、新妻と小さな娘がいました。漏洩が発覚し基地閉鎖の命令が出た時、彼は家族を優先してしまうのです。命令を無視して家族を車に乗せ、そのまま逃げてしまう。車は合衆国をほぼ横断し、極めて強い感染力を持つウイルスも全土に蔓延してしまいました。

旧約聖書における『創世記』では、神は、地上に増えすぎた人間がどんどん堕落していく様を見かねて大洪水を起こします。
映画において、人を短時間で死に至らしめるようなウイルスを生物兵器として培養したのは人間自身です。しかも、政府当局はこれを何とかして隠蔽しようとします。どう考えても無理なのに、町一つが封鎖されても、州が閉鎖されても、ひたむきに情報を隠蔽しようとし、事件が公共放送で取り上げられると、武力でこれを封鎖し、リポーターを暗殺します。

自身の堕落、愚かさ、驕りによって文明の崩壊を迎える自業自得な人類……というテーマが聖書と共通しているように思えます。

とはいえ旧約聖書の物語は、やはりどこかデフォルメされている気がします。神を忘れた図々しい人間どもを罰する勧善懲悪。ノアの一族を生き残らされる点で、むしろ神は慈悲深い。滅ぼされる人々は有象無象の大衆で、一人ひとりがどういう人物か、いちいち記述はないし気にもなりません。
しかし実際に洪水によって死んだのは誰かの父であり、母であり、息子であり、娘なのです。
まさにこの肌感覚を、この映画は与えてくれるのです。売れないミュージシャンと彼を労わる高齢の母親、いつもガソリンスタンドにいるごろつき、妻を亡くした夫とその一人娘、ぱっとしない文学少年……。
なんでもない、しかし固有の存在である彼らが、無慈悲にも人類滅亡に直面する。
かつての大洪水だって、本当はそういう愛別離苦が煮詰まった劇的なカタストロフだったはずなのです。
聖書にリアリズムを付与する――これこそキングがしたかったことなのかなと思いました。


実際に「預言者」「キリストの弟子」がいたらどんな感じ?

人類のほとんどが死滅した世界ですが、稀にウイルスに耐性を持つ者たちがいて、彼らはポストアポカリプトの世界に取り残されます。
老弱男女、出自も職業もバラバラの人々が、自分以外に誰か生きていないか廃墟の街を放浪し、やがて互いに出会います。物語はそんな生き残りたちのそれぞれの視点で展開していきます。

面白いのは、置き残った人々は皆おなじ夢(悪夢?)を見ることです。
トウモロコシ畑のかたわらに小さな家が建っていて、軒先で老婆がギターを弾きながら讃美歌を歌っている。
彼女は夢に迷い込んできた彼らに、自分はマザー・アビゲイルと呼ばれていること。そして神の意のままに、はやくこっちに来こい、集まれ、と訴えます。
突然トウモロコシ畑に大量のネズミが現れ、やがてフラッグという謎の男が姿を現し、アビゲイルの信仰心を嘲笑し、攻撃しようとします。
……生き残りたちは皆だいたい同じような夢を見ていて、他に行くあてもないのでアビゲイルの家を目指して移動し始めるのです。

こういういきさつで人々は集合し、新しいコミューンが形成され、マザー・アビゲイルは指導者的な役割を担うようになります。
彼女はただの人間ですが、神の声が聞こえ、それに従って夢の中で訴えかけたことで新しい共同体を生んだのですから、人々は彼女を「神の声が聞こえる老女」=「預言者」のように見なして尊敬するようになります。

キリスト教では古今東西多くの「預言者」と呼ばれる人々が登場します。神の声を人々に伝える役目を負った人間です。マザー・アビゲイルもそのうちの一人だと捉えることができると思います。

あるいは見方を変えれば彼女は十戒をさずけた「モーセ」と同一視することもできるかもしれません。彼女の呼びかけに従って(正確には神の指示ですが)「約束の地」まで移動していく共同体の姿は、まさに「出エジプト」です。

しかしマザー・アビゲイルは、自分がただの人間であり、たまたまある日神の声が聞こえただけのしがない老婆であるにもかかわらず、多くの人々の上に立ち指導しなければならないという重責に悩んでいて、ある夜、ひとりでひっそりと共同体を去るのです。
大勢の人間の人生を左右しかねない「預言者」という存在がいかに責任重大か。どれほど厚い信仰心をもってしても簡単には克服できないくらいの重圧に耐えられるか?ここでは一人の人間としての「預言者」の苦悩を描いているのです。

この重責がもっとも露骨にあらわれるのが、後半、コミューンの中から4人の男性を丸腰で敵地に送り込むシーンです。
敵に捕まれば処刑は必須なのに丸腰で行かなくてはならない、何故なら神の声がそう言ったから……。マザー・アビゲイルはこの4人に「自殺しろ」と言っているも同然です。

さて、詳細も分からないまま丸腰で敵地に行けと言われた4人は、イエス・キリストの弟子たちにも見えます。ユダヤ教が支配的だった当時、ユダヤ教のカウンターパートのようなキリスト教を布教するのは、ほとんど自殺行為も同然で、実際多くが施政者や民衆に殺されたりしています。
マザー・アビゲイルに指名された4人も、預言者の言葉に従って殉教覚悟で敵地に赴くか、それとも指名を拒否するか……究極の決断を迫られます。
イエスの弟子たちによる布教は、それがどれだけ"良いこと"であっても本質的に残酷であり、並大抵の覚悟では克服できなかったはずです。
映画の4人も、それぞれ守るべき家族がいたり、高齢だったりして、やっぱり「どうして自分が……」という気持ちになるわけです。
ここでは殉教のリアルというものを描こうとしたのかなと思います。


強者としての白人男性、才能を見抜く兄貴分的な「悪魔」

マザー・アビゲイルと対立関係にあるフラッグという男は、人智を超えた力を持っていて、心の中に嫉妬や劣等感など負の感情を隠し持った人々を夢の中でそそのかして仲間にし、彼らだけのコミューンをかつてのラスベガスの街に作り出します。

この男がまた、ジャケットを羽織って太いベルトを締め、細身のジーパンを履いたカントリーロックのミュージシャンみたいな奴で、一見して明らかにキングが好きそうな感じ……というか自分の分身を投影しているんじゃないかと思って笑ってしまいました。
見た目は40~50代、白人の男性。この属性は現代社会において最も力を持つ多数派といえるでしょう。マザー・アビゲイルが80~90代くらいの黒人女性なのとは対照的です。

彼はいわゆる悪役なのですが、それまでの社会からは爪弾きにされていたような犯罪者やいじめられっ子、爆弾魔、ヒステリックな人々に話しかけ、彼らが持っている才能を見抜き、仲間になるよう勧誘します。
「お前のその、爆弾を爆発させないではいられない反社会的な性格を、俺なら有効に使ってやれる。俺についてこい!」的な感じで。

善人を闇堕ちさせるのではなく、元々社会に生き辛さを感じ、心に闇を抱えていた人々に、別の生き方を提示する。
正しいとされる社会に真っ向から反対して、露悪的に生きたっていいじゃないか。
こういう肯定の仕方は、なんだかネトウヨ的だな~なんて思ったり。
実際、マザー・アビゲイルのコミューンに所属していた筈の人間が、フラッグ側に引き寄せられていったりします。
この吸引力もネトウヨみがあるような……。
自分に賛同する人々を集めたフラッグは恐怖政治を敷き、彼らを手駒のように動かして、マザー・アビゲイル陣営に攻撃をしかけていきます。

この「悪」の在り方も非常にリアルに感じます。
「悪」は常に人間の心の揺らぎを虎視眈々と狙っていて、それが見つかれば一気に接近してくる。
人間は翻弄され、愛し合うもの同士が引き裂かれたり、信じていたのに裏切られたり、「悪」にひっぱられて次々と悲惨な事が起こります。


無力な人間の「悪」への抵抗、神の見えざる手

神の意思に従って、フラッグ陣営に差し向けられた人々。広場の真ん中で十字架にかけられて、手足を引きちぎる野蛮な処刑が行われようとしていました。
興味深いのは、群衆の中から、さすがにこんな非人道的なことは辞めようという声が上がることです。広場は沈黙に包まれます。
これから処刑される人は敵かもしれないけど丸腰で、彼らに危害を加えようがありません。そういう無力な存在に対して一方的に暴力を働くことが、人間にアプリオリに備わっている倫理感に照らし合わせて、甚だしく不当であり耐えられないのです。
マハトマ・ガンディーの非暴力・不服従みたいな話ですよね。

「悪」に引き寄せられた人間にも「善」なる部分が必ずあって、時にはそれが表立ってあらわれ、他の人々の「善性」も刺激し始める。
人間ではなく悪魔であるフラッグは、この善の連鎖に気付けないのです。

最後どのような結末を迎えるか、さすがにここでは述べませんが、人智を超えた力を持つ悪魔に対して、人間は最後の瞬間まで出来うる精いっぱいの抵抗をして、最後は神の見えざる手が……というラストです。
物語のはじめから終わりまでずっと状況に振り回されっぱなしだった無力な人間が、いつしか力をつけて、フラッグという超人を遂に倒すに至る。
ひとたび団結すると人間は悪魔をも凌駕するのです。


良く知られた古典や伝承を現代社会に再現する面白さ

長々と書き連ねてきましたが、一番言いたかったのは、ある種幻想的な古典のストーリーを、現代社会でリアルに再現してみるのってアリなんじゃないかということです。
プロから素人まで数多の創作物で飽和状態のいま、こういうアプローチで創作している作品ってそんなに無いのでは?と思ったのです。
いや『ロミオとジュリエット』とか創作されまくってるやん、と言われそうですが、これはラブストーリーの王道として既に定式化されてしまった感があります。
そうではなく、(古典じゃなくてもいいや)民話や伝承など突拍子もないストーリーを現代社会に解釈し直す試みって、実はあんまり無いんじゃないか。
私はあんまり思い浮かばないんですよね。単に勉強不足かもしれませんが……。

著者と読者はあらすじを既に知っていて、登場人物だけが知らない、という状況の面白さとか、

伝承では簡単に殺されたり消されたりする存在に、恐怖や憎悪などの自意識を与え、読者に共感させる余地を作ってみたり、

抽象化された「善」や「悪」の存在を身近な人物や凡庸な人物に当てはめてみる背徳感とか、

古典や伝承の肝となるテーマだけを抽出してみたりとか。

……なんかいろんな創作の手がかりや取っ掛かりがありそうな気がしてきませんか?

毎日2000字書くことを自らに課し、「面白さ」に貪欲であり続けるスティーヴン・キングに教わることはまだまだ多そうです。




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