【書籍紹介/海外文学】なんかパッとしない天使のじいさん
noteってもっと気軽に書くものだった筈なのに、気が付いたらこれまでの投稿記事を見返して、書籍のジャンルや話題でバランスを取ろうとしたり、そんなに好きでもない記事を紹介しようとしていたり、方向性を見失いかけていたので……
紹介に値するかは一旦度外視して、ここらで私自身がめちゃめちゃ好きな作品を紹介して、好き勝手喋り倒して自分を取り戻しておこうと思います。
今回はこれです。
『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語――ガルシア=マルケス中短編傑作選』
ガブリエル・ガルシア=マルケス
文学の大巨匠、ガルシア=マルケス!ラテンアメリカ文学といえば既にボルヘスの短編を紹介していますが、もうそんな事気にしないことにしました。
とはいえガルシア=マルケスのマジックリアリズムは私と相性が悪く、表題作の「純真なエレンディラと……」は正直胸糞悪すぎて著者本人への好感度もダダ下がりしました。少女が祖母に強いられて児童売春させられる話なので、帯で豊崎由美さんが仰るように「黙って読むが吉!大吉っ!」って勢いで読むと痛い目を見ます。
でも確かにハッとするような良作もあって、今回はそのうちの一つ、
「巨大な翼をもつひどく年老いた男」
を紹介したいと思います。
以下、あらすじです。
マジックリアリズムとファンタジーの違い(アーシュラ・K・ル・グウィンとの比較から)
まずこれだけ言っておきたい。
世の中にはファンタジーという創作ジャンルが元々あるにも関わらず、なぜそれが文学の領域に入ると「マジックリアリズム」と名前を変えるのか?それは文学が他のジャンルより高尚なもの、純粋に教養的でアカデミズムなものだという自負から来ているのではないか、言い方を変えると傲慢だからではないか。かのファンタジーの名手 ル・グウィンだってマジックリアリズム作家だと言い換えたっていいじゃないか。……そういう言説にも一理あると思います。
だけど、私の中のマジックリアリズムは、やはりラテンアメリカ文学と密接不可分なのです。ファンタジーとは異なるのです!
私は南米に行ったことはないのですが、紀行文が好きでそういう物は良く読んだりします。すると、あるまとまったイメージが形成されていくのです。
・あまりにも信心深すぎて、本気で奇跡を信じている民衆
・マリア像が涙を流した、などといった奇跡(都市伝説)の多さ
・馬車と自動車が並走する、中世と現代が同居しているような不思議な光景
マジックリアリズムはこういうものを糧として、"リアリズムを書いているつもりなのに不可抗力で幻想小説のようになってしまう"特殊ジャンルとして存在しているのではないかという気がするのです。なのであくまでベースはリアリズムにある。一方ル・グウィンの作品は実在しない地名・動植物・惑星などがたくさん出てくるので、ベースはファンタジーにある。だから両者は区別できる、というのが私の考えです。
この作品は"天使"が出てくるという点だけ着目したらル・グウィン的ファンタジーのように思えるのですが、その外見は歯も抜け落ちた汚ない老人、というところが物語全体をグッとリアリズムの方へ引き寄せています。
もしも民衆が期待する通りの奇跡をこの老人が起こせたら、まだしもファンタジーの可能性がありましたが、それもなく、なんなら子供の水疱瘡をうつされる始末です。つまりこの老人は背中に羽が生えてる以外に何の取り柄もない、ただの浮浪者なのです。
また、蜘蛛女というのも出て来ますが、これも身体が蜘蛛で顔だけが女の顔をしていて、一見ファンタジー風です。そして自分の身の上話――両親に黙ってクラブに踊りに行ったら天罰がくだった――を語って聞かせるのです。途中挿入されるこういったナラティブは、南米に色濃く残る家父長制を暗示しています。つまり南米のリアリズムを補強する役割を担っているのです。
たしかにル・グウィンの作品にも男尊女卑を取り上げたものがあり、それは心に迫ってくるようなリアルなものです。ほかにも、例えば短編『革命前夜』はアナーキズムを題材にとる物語ですが、ル・グウィンはあえて「アナーキズム」を「オドー主義」と言い換えて――つまり「アナーキズム」と聞いて思い浮かべる黒地に赤のAの文字・クロポトキン・第二次インターナショナルといったイメージを払拭して――使っているのです。純粋にその教理だけを抽出して、架空の世界に当てはめる。これはもうファンタジーでしょう。
上手く自分の言いたいことを表現できているか自信がないのですが、総括すると、リアリズムをベースにした世界に、ほんのちょっとファンタジーの要素を加えて味変する……それこそがマジックリアリズムだということです。
そしてガルシア=マルケスの生み出すストーリーは、荒唐無稽ながら全部が本当に起こりそうな気がする。ある意味でリアリズム小説よりもずっとリアルな南米の現実を捉えているように思われるのです。
人間と決して交わらない天界
敬虔なキリスト教徒が多い南米ですが、この作品における天使の描き方は一見かなり冒涜的と言えます。始終汚くて臭くて無気力なじーさん。西洋絵画でよく見る、丸々太った赤子の天使とは対極にある存在と言えるでしょう。
ですがよく読んでいくと、この天使が決して人間と交流していないことが分かります。人間は天使が一体どこから来たのか、何故ここにいるのか、いつ帰るのか、全く真意を掴むことができません。鶏小屋にぶち込んでも怒らないし、投げ入れられる食事にも手を出そうとしないし、毎日ダラダラしてほとんど動かない。何もかも嚙み合っていないのです。
これは人間が神の領域を、あるいは神の意思を理解できる筈がないというキリスト教の強い観念を表現しているように思われます。天使は人間と同じ土俵に立っていない、だから天使は何をされても無関心で我慢強い(と、我々には見える)。絶対的な神は人間のやる事にいちいち腹を立てたり施しを受けたりしないのです。
そして時期が来たら――つまり海風が吹いたら再び旅立つ。それは渡り鳥のような自然のことわりであり、そこには天使の意思などないように感じられます。
この理解できない、あるいは理解を徹底的に拒む設定は、天使という存在の聖性を守る試みなのです。こういうところ、すごくラテアメ文学っぽいですよね。どれだけ人間を蹂躙したり不合理のどん底に突き落としても、キリスト教的世界観だけは崩されず、強固に存在し続ける。
とはいえ結果的にこのじーさん天使のおかげで、彼に鶏小屋を提供した夫婦は小金持ちになりました。まあ、これを奇跡と呼べばそうなのかもしれませんが、なんか微妙ですよね。天啓が降りるような劇的な奇跡ではない。本当の奇跡とは、つまりリアリズムにおける奇跡とはかくありなん、ということなのかもしれません。
時間までもが歪んでいる
物語の舞台である村も、その世界も、リアルだけど、どことなくおかしい感じはします。マジックリアリズムの「マジック」の気配を常に感じながら物語は進んでいきます。異形の者達が物珍しいながらもわりと普通に居て、ローマ・カトリック教会はそれらの目撃談や「奇跡認定」の申請を捌ききれていない……という描写など。
だけどそれとは異なる違和感もあって、それがどうやら時間に起因するものだと、2回読んで気が付きました。
つまり天使は海風が吹く季節になると羽が生え変わり飛び立つのですが、なんだかそれは1年周期で巡ってくるように描かれているのです。毎年そういう時期があって、従って飛び立つチャンスは年に一回訪れる。
しかし天使は数年間、下界に留まり続けたはずで、そうでなければペラーヨの息子の成長と辻褄があいません。
これはどういうことでしょうか?
もしかして、天使にとっては1年間、でもそれが人間にとっては5〜6年に相当する……ということなのでしょうか。天界と地上界で時間の流れが異なることの表現?
あるいは、かつて命を奪おうとした子供が元気いっぱいに成長していくのを、もう少しだけ見守りたいという、意外と人間臭い意思の表れなのか。あんまりそれは無さそうだけど……。
それとも理由のないただの気まぐれか。ランダムなのか。
神の意思を人間が理解することはできないので、この時間の歪みについて著者は何も語りません。だから読者は好き勝手に解釈して楽しむ余地があるのです。
好奇心の残酷さ・慣れの怖さ
天使のじーさんを見物するために連日鶏小屋の周りを野次馬が取り囲み、じーさんからあの手この手で反応を引き出そうとする民衆たち。挙句には熱した焼印をじーさんの脇腹に押し付けて驚かせ、返り討ちに遭います(じーさん唯一の見せ場です)。
見た目はどうみても人間で、しかもヨボヨボのおいぼれなのに、背中に羽が生えているというだけで、どうして民衆は彼を動物として扱えるんでしょうか。だって想像してみてください、新宿の街で同じようなじーさんが道端に転がってたら、普通はひとまず人間として接していたわりますよね。どっかのばあさんが「こいつは天使だ」と言っても、そしてその言説を信じるとしても、普通は意思のある人間として扱いませんか?
一番最初に彼を動物として扱ったのは、間違いなく彼を鶏小屋にぶち込んだペラーヨです。確かにじーさんは中庭に不法侵入しています。でもなんか普通に可哀そうって思ってしまいます。
一つは間違いなく、迷信を深く信じる民衆の心理があると思います。物知りばあさんに「あいつは天使」と言われて、それをそのまま信じる無垢さ。でも民衆は最初、あんまりじーさんを恐れてはいないのです。脇腹に焼き印を押し付けられて反撃してきたときに初めて、民衆は「こいつは刺激しない方がいい」となるのです。
もう一つは社会の過酷さかなと思います。貧しく、騙し騙されの、サバイバルな世界では、行きずりの人間にやさしくするのにも限度がある。でもそれだけでしょうか?
もっとも大きいのは、強烈な好奇心だと思うのです。
何かを研究する時、研究主体によって対象はベールをはがされ切り刻まれます。例えばキリスト教を研究する時には、イエス・キリストはまずは神聖性を剥奪されて一人の人間として切り刻まれ、断片一つ一つを詳細に調査されるでしょう。端的に言うと、何かを知ろうとする時、人はその対象を切り刻むしかない。民衆のじーさんに対する態度は、そういった対象を切り刻む行為であり、しかも本来機能すべき理性(思いやりなど)を好奇心が圧倒してしまって歯止めが利かない状態なのではないかと思うのです。
誰か一人が……ではなく集団がこの状態に陥ったとき、多数の人間から好奇心を向けられるというのは、対象にとっては恐怖です。読者は、まるで自分が鳥小屋に閉じ込められ裸に剥かれたような恐怖体験を強いられるのですが、当の天使はどこ吹く風……というのが、なんだか肩透かしをくらったみたいで新鮮な面白さがあります。
もっと面白いのは、ペラーヨとその家族にとって、天使のじーさんの事がだんだんどうでも良くなってくることです。こちらの生活にほとんど干渉してこないし、それよりも子育てで手いっぱいの夫婦は、たまに臭いを気にして鳥小屋を掃除したりするだけ。しまいには自分の子供がじーさんで遊び始めるのも注意しなくなります。何がきっかけで家の中にまで入り込むようになったのかは書かれていませんが、気づけば一緒に生活するデカめのペットみたいな存在になっている。妻は鬱陶しく思っているのですが拒絶したりはしません。異様な存在も、慣れれば日常……ある意味これもホラーみがあります。
そして大好きなのが、最後の飛び立つシーン。まるで育てた雛が初めて大空にはばたくような、妙な感動があるのです。実際は老いた男が、生え変わったとはいえ粗末な羽をはためかせているだけなのですが、何か生命の神秘のようなものを感じさせる。この物語の中の最も劇的なシーンなのです。しかもそれを見守るのは、玉ねぎみじん切り中のペラーヨ妻のみ。このさりげなさが余計にシーンを劇的に演出し、じんわりとした読後感を残すのです。
求む、情けないじーさんが主人公の物語
この短編集の『大佐に手紙はこない』も情けないじーさんが主人公なのですが、最近なんだかそういうものに惹かれるのです。順調に人生を歩み、それなりの地位と経済力を手にした男性ではなく、なにかひょんなことがきっかけてレールから外れてしまったじーさん。それでもこの世界で生きていくしかない。含蓄のある複雑な表情・不器用さ・諦観・間近に迫った老い・多少の狡猾さ・憧れと失望……そういう人間臭いじーさんの姿にグッとくるのです。切ないんだけど、いとおしく感じられるのです。そんなじーさんが出てくる作品、どこかにないでしょうかね。鋭意捜索中です。
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