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【書籍紹介/海外文学】何故みんな"バートルビー"で哲学するのか

いよいよ春めいてきましたね。
いつの間にか山菜が終わりかけてて、ふきのとうを食べ損ねたM.K.です。
だんだん暖かくなってきて、夜の時間も石油ストーブの前で震えなくても済むようになりました。
ガウンを羽織ってソファに寝そべって、照明をちょっと落として、読書をしたり映画を観たりといった日々を過ごしています。

そんな早春の夜にぴったりな、ペーソスに満ちた純文学と、その評論はいかがでしょうか?

ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』

この本は、ハーマン・メルヴィルの短編『バートルビー』(これまで幾つかの翻訳が出ており、『書写人バートルビー』や『書記バートルビー』というタイトルでも出版されています)についての、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンによる評論なのですが、さらに『バートルビー』の本編、訳者兼研究者の高桑和巳先生の書評までついた、豪華盛りだくさんの1冊になっています。

本屋さんには行くものですね。これは新潟の大型書店をふらついているときに偶然見つけたものです。
それも「海外文学」の棚ではなく「哲学・精神分析」の棚にあったと記憶しています。アガンベンが哲学畑の人だからです。
私にとって書店の「哲学・精神分析」棚は、学生時代の郷愁に浸る為に徘徊する場所であって、たまにフーコーやデリダを手に取る程度なのですが(構造主義が好きなんです)、このときは本著の真っ白い表紙にハッと目が留まったのです。

メルヴィルの『バートルビー』は、贔屓にしているポッドキャスト番組で紹介されてから「いつか絶対読まなければ!」と思っていた作品でした。

アガンベンの名前は学生時代に何度か聞いていて(恥ずかしながら『ホモ・サケル』すら読んでいませんでしたが)なにやら学問の神秘に触れるような、「知る人ぞ知る」哲学者のイメージでした。あと難しいイメージも。
同じジャンルにベンヤミンとかがいる感じです。

その彼があのバートルビーについて論じていたなんて知らなかったし、しかもこの本よく見たらメルヴィルの本文まで新訳で付いている。
本編と書評が一冊にまとまっているなんて、なんともお得ではないですか。
というわけで即買いしました。
何気なく本屋に立ち寄るというのは本当に大切なことだなとしみじみ。

取り急ぎこの記事では『バートルビー』のあらすじと個人的な所感、アガンベンの『バートルビー 偶然性について』への感想を何となくつづっていきたいと思います。



ハーマン・メルヴィル『バートルビー』について

あらすじは、先に貼ったポッドキャスト番組を聞いていただくのが一番早いと思うのですが、一応私なりに整理したものを以下に記します。

ニューヨークで法律事務所を営む「私」は、書写人(法律書類などを人の手で書き写す仕事)としてバートルビーという若者を新たに雇い入れた。
それまでの事務所スタッフは、感情の起伏の激しい書写人2人に12歳の小間使いの少年のみだったため、バートルビーの常におとなしくて平穏な性格は、私にはありがたく思えた。
仕事は旺盛にこなし、休憩時間も休まず仕事し続けるような人間で、多少心配になりつつも私は彼を有望視していた。
しかし彼に、書写した書類のダブルチェックを指示した時「そうしないほうがいいのです」とやんわり拒絶される。
それ以外にも郵便局への使いや、人を呼んでくるといった簡単な指示にも「そうしないほうがいいのです」と、取り合わない。
だが彼の様子を見るにつけ、何か悪意があって、あるいは抵抗心や野心があってそうしているわけではなさそうだ。
観察していると、どうやら食事はジンジャー・ブレッドという菓子しか食べていないらしく、なんと事務所で寝起きしているらしい。
さすがに不気味に思って出身地や家族のことを聞いてみても「答えないほうがいいのです」。
ついには仕事である書写も「そうしないことに決めたのです」といって放棄し、一日中何もせず壁に向かって突っ立っている始末。
私はさんざん迷った挙句(彼のような人間はよほど温情のある職場でなければやっていけないだろうから)、彼に解雇を突きつける。
しかし彼は「そうしない方がいいのです」といって退去しようとしない。
仕方なく、私は事務所を移転することに。
その後、ビルのオーナーから退去しない住民がいると苦情が入るが、どうしようもない。
ついに彼は不法侵入で逮捕され、留置所に入れられる。
そこでは一切食事を取らず、無気力に庭のベンチに横たわり、そのまま獄中死してしまった。

この作品は1853年に発表されました。1853年といえば黒船来航ですから、そんな時代の作品にしては、あまり古びた印象を受けないというか、モダンな感じがするのに驚かされます。
同じような印象を抱く作品として、カフカの『変身』やチェーホフの『外套』が挙げられるでしょうか。
19世紀のモダニズム文学がいかに威力があるか思い知らされますね。

一体なぜバートルビーは無気力なのか。
一体何が彼をそうさせているのか。
どうやったら彼を救えたのか。
そして、メルヴィルはバートルビーを通じて何を表現しようとしているのか。

読後はこういった問題を四六時中考えさせられてしまうような、非常に吸引力のある謎を読者に提示します。
本当に、取り憑かれたようにずっと考えてしまうので、何だか私までバートルビーに毒されてしまったようで怖くなってきます。


理性を敗北せしめた書写人のうつろ

主人公は恵まれない社会的弱者を哀れに思い、出来るだけ優しく接しようとする倫理的な人間として描かれます。
そして倫理的ということは、理性を重んじているということです。
「理性」の対義語としてよく「感情」が定義されますが、主人公の法律事務所で書写人として働く人々は、とても感情豊かな人物に描かれています。
(昼休みにビールを引っ掛けているのか?)午後になると真っ赤な顔になって狂暴な性格になる○○。あるいは(自宅で麻薬でも吸っているのか?)午前中は神経質で落ち着かないけど、午後になると落ち着いてくる○○、などなど。
そういう外的環境で主人公だけがただ一人、理性的に状況判断し、なんとか事務所をやりくりしている設定です。
だからこそ常に平静で感情に左右されることのないバートルビーが、ことのほか魅力的に思えたのです。

しかし理性的であるが故に、バートルビーの不可解な言動について、何らかの理由付けをしなければ我慢ができないのです。
結果には常に原因がある。バートルビーが指示に従わないのも何かきっと理由がある筈と、理性の力を総動員して必死に考えるのですが分からない。
「理由のない拒否」「感情のない拒否」を理性は説明することができない。
主人公はいわば近代における理性主義の象徴であり、バートルビーを救おうとして死なせてしまったことは、いわば「理性の敗北」を象徴しているのではないかと思われます。
「理性的」か、「感情的」か。この二者一択の完全に外側にいるバートルビーには、二者択一の世界にしか所属しない者は、当然のことながら全く影響を及ぼせない。
つまり、この物語に登場する人間には誰も、死へと向かうバートルビーを救えないのです。


バートルビーの圧倒的虚無性が哲学を要求する

「そうしない方がいいのです」というバートルビーの決まり文句は、明確な拒否の意志を示しているわけでもありません。
原文の英語では "I would prefer not to…" という表現になるそうで、非常に丁寧かつ婉曲的で、「私の好みではそうしない方が好ましい」といったニュアンスに近いでしょうか。

「そうしたくない」でも「そうするのが嫌い」でもない、彼の言葉には意志というものが欠けています。
しかもだんだん「そうしない方がいい」領域が広がっていって、書写の仕事までしなくなり、最期には食事すらもしなくなって(「そうしない方がいいのです」)、獄中で餓死します。
もはや自分の存在そのものを否定するような有様です。

この不気味で底知れない虚無こそ、多くの哲学者を惹きつけたのでは無いかと思います。
高桑和巳先生が解説で、バートルビーに言及した哲学者を何人か挙げて下さっています。
モーリス・ブランショ、ジャック・デリダ、ジル・ドゥールーズ……そしてジョルジョ・アガンベン。
<意志-個性-存在>の一切を否定する曖昧な存在としてのバートルビーが、創作の世界だけでなく現実の世界にも大きな波紋を呼んだのです。
哲学者にとって、彼を通して人間の見えざる実存を感知し得るかも知れないという手応えが確かにあったのだと言えるでしょう。


「潜勢力」としてのバートルビー ――アガンベン『バートルビー 偶然性について』

じゃあ、実際哲学者達はどんなふうにバートルビーを掘り下げていくのか。
まずアガンベンの文章はとても詩的で、特に、次に引用する冒頭の部分はハッとさせられるような美しさがあります。

バートルビーは、筆生であることで、ある文学の星座に場を占めている。その星座の端に位置する極星はアカーキー・アカーキエヴィチであり(「この筆生の仕事においては、世界は彼にとっていわば完全に閉じていた[……]。いくつかの文字が気に入っていて、それらに出くわすと彼は有頂天になった」)、星座の中央にはブーヴァールとぺキュシェという双子星があり(「二人のそれぞれに、密かにいい考えが養われた[……]、筆生だ」)、反対の端にはジーモン・タンナー(彼が要求する唯一の身元は「私は筆生である」だ)と、どのようなカリグラフィであろうと易々と複製を作ることのできるムイシュキン公爵の白光が輝いている。少し離れたところには、小さな小さな惑星群のように、カフカの審判の、名のない書記たちがいる。しかしバートルビーには哲学的な星座もある。

『バートルビー 偶然性について』p.9

恥ずかしながらアカーキーがチェーホフの『外套』の主人公ということしか知らないんですが、書写というテーマ一つとってもこれだけの文学的蓄積があることに驚かされました。こういう文章にでくわすたび、文学的素養がもっと欲しくなります……。
そういえば、ベンヤミンが歴史を星座に例えていたのを思い出しました。年代も学問領域も微妙に違うのにアガンベンとベンヤミンが同じジャンルな気がするのは、これのせいかもしれません。
それで肝心の本文はどんな感じかというと、”哲学の中の哲学”というか、まさに「存在」についてのトートロジーのような事を延々論じていくスタイルで、一気にしんどく……手強くなります。
基本的に神学の切り口から、つまり「神とは何か」という観点からバートルビーを分析しようとするところがアガンベンの独自性と言えるかもしれません。
アリストテレスの「潜勢力」という概念を、ライプニッツを引用しながら解釈し、それをバートルビーに当て嵌める……というのがアガンベンのしたいことのようです。

「潜勢力」というのは、何かを為そうとすること・その意思の一つ前にあるもの、「まだ為されていないが、可能なもの」といった状態の事を指します。
……そんなものを考察して何の意味が?という気持ちも分かりますが、つまり「神はこうだ」と言っているんです。
全知全能の神は、世界を創造したけど、創造しないこともできた。誰かを救うこともできるし、しないこともできる。全知全能なのだから、為すこともできるし為さないこともできる。真と偽の両方をつかさどるのです。

バートルビーは「しないこともできる」という在り方をそのまま体現した存在、つまり「潜勢力」の象徴なのです。
そしてこの作品は、純粋な「潜勢力」は存在し得るのか?という命題にいどんでいるといえます。


高桑先生神解説1――"謎"に誠実に在り続ける

高桑先生は、もう少し広い領域から、つまり哲学という学問領域がバートルビーに何を見てきたのかを解説してくれています。
(アガンベンには申し訳ないですが、本著の最も読み応えのある部分が、この高桑先生の解説だと思います。とにかく分かりやすい。)

『バートルビー』の上梓から様々な学者や評論家がバートルビーの捉えどころのない虚無を捉えようと言葉を尽くして取り組んできましたが、高桑先生は、まずは『バートルビー』が提示する"謎"に誠実にあらねばならない、と言います。
実際この作品を読むと誰もが批評したくなるというか、「バートルビーは鬱の一種だと思う」とか「ブルジョア批判の作品だと思う」とか、もともとある枠組みに『バートルビー』を嵌めこみたいような気持になります。

精神分析的な視点も、階級闘争としての読み方も、ある一面ではそうかもしれませんが、それがこの作品の主題だとは到底思えません。
実際、哲学者たちの評論は、バートルビーの謎を解決しようとするよりも、その謎をくっきり浮き彫りにして、分析しやすくしようとする試みです。
私は実は文学というものをどうやってアカデミックに分析していくのか、それがどのように「学問」になるのか、いまいちピンと来ていなかったのですが、この「謎の輪郭を浮き彫りにする」というのがソレなんだと目からうろこでした。

ここであんまりいろいろ紹介すると高桑先生の解説を読む価値が失われそうな気がするので自重しますが、実際読み進めていくと本当に問題のありかが明確になっていく感じがします。
文学を読んでいて、何かアポリアに直面したら、まずその輪郭をはっきりとさせること=言語化することから始めれば良い。
そして何かはっきりとした答えが出なければ自信をもってエポケー(留保)すべし、という「文学の読み方の道筋」を教えてもらった気がしました。



高桑先生神解説2――実は主人公の方が分析対象だった

次に、バートルビーがどういう存在なのかを分析しようとする主人公と私達読者は、実はバートルビーという鏡を通して自分自身を分析対象にしているのだ、ということが指摘されています。
物語の中で、主人公はバートルビーの特異な性質について、様々な憶測をし、あるいは「かわいそうな社会的弱者」というカテゴリーに無理矢理当てはめながら、彼を何とか「救おう」とします。
物語の最後には、彼が配達不能郵便を仕分ける仕事を解雇されたという説明が意味深に付与され、バートルビーの性質の源がそこにあるのではないかという推測を促してきます。

知らず知らずのうちに、自分では何も語らないバートルビーをどのように捉え、扱うかというある種の心理的な実験が行われていて、主人公も私達読者も、その実験を通して自らの在り方を浮き彫りにさせられているのです。

アガンベンはバートルビーに「潜勢力」の概念を当てはめて論じてみせました。私はこの論旨を十分理解しているとは思いませんが、なんだか、なんでもないバートルビーに意味を与えすぎているような気がしました。
この作品の根底に、とんでもないアポリアが隠されている筈だ……という感覚はきっと誰しもが抱くと思います。解き明かしたい謎が隠されていて、それを明らかにするには作品が書かれた年代よりも古い時代の哲学をさかのぼらなければならないという感覚も正当だと思います。
だけど、なんだか神学を持ち出すってたいそうだな……とか、抽象的な(それこそヴィトゲンシュタインが「沈黙せねばならない」というような)形而上的な角度から攻めていって、「意味」を凌駕するような意味付けを試みるというか、一般人の私達を半ば置き去りにするような解釈を試みること自体、あんまり面白味を感じないというか……立派な哲学者に対してちょっと鼻白むような気持ちになっちゃいました(何様やねんという感じですが)。

アガンベンはバートルビーに世界の在り方の根源が潜んでいるかもしれない、みたいな意味付けをしたいんだなあ。つまり彼のパーソナルな問題意識がそこにあるのかもしれないなあ……。
……という風に、アガンベンという人となりを『バートルビー』を通して捉えられるのではないでしょうか。

翻って私自身はどういう捉え方をしたかというと、主人公は一見親切にバートルビーと接していますが、そこにはやはり暴力的な側面があるのではないか、ということが無性に気になるのです。
拳で殴ったり暴言を吐いたりするような直接的な暴力ではありません。
人が何かを分析するとき、分析対象を細切れにして、秘められた細部にまでメスをいれようとする――そういう意味での”暴力性”をまざまざと感じるのです。

私は大学院時代、3.11の原発事故避難者に対する聞き取り調査をしていました。複合災害の被災者であり、多重避難(避難先が半ば強制的に何度も変更される)を強いられ、今なお様々な困難に直面している人々です。
最初は「この人たちの困難を白日の下に晒し、社会に訴えかけるのだ!」という正義感のようなものがあったのですが、調査が進むにつれて強烈な罪悪感にさいなまれるようになりました。
本当は思い出したくもない筈のあの日のことを何度も説明させ、それを社会学の分析手法を使って解釈するために細切れにし、さらには分析するために「はい」か「いいえ」を無理矢理答えさせているかのような。
あるいはその人自身が経験した困難は、それが全てであり固有のものなのに、無理に数字に還元し、”同じような経験をした数百人のうちの1人”というような認識をしてしまっていることとか。
なんだかそういう白々しさ、冷酷さ、機械のような淡白さを自分が持ってしまっていて、避難者を利用しているのではないか、という罪悪感です。

主人公に感じる”暴力性”もこれと同じようなものじゃないかな。
つまり私はそういう「勝手に分析する」「分析される」非対称な関係性に本来とても敏感な性格なのだな、と気づきました。
もっというと、こういう表面化しづらい非対称性、構造的な上下関係――〈中央-辺境〉、〈分析主体-客体〉、〈男性-女性〉、〈親-子〉、〈中産階級-労働者階級〉、〈支配-被支配〉といった関係性に敏感なのだなと自己分析した次第です。

『バートルビー』にどんな感想を抱くかで、自分がどういう人間かということがちょっとだけ浮き彫りになる……
こういう感触の作品って、作品自体を楽しむことと合わせて二重にも三重にも楽しめて、私はすごく好きなんですよね。
みなさんも、『バートルビー』を通して自分自身を見つめてみてはいかがでしょうか?


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