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ひかり。

大倉摩矢子さんの舞踏を見に中野へ。

こういう雰囲気が、もう10年ぶりくらいなので、とても懐かしく開演前座っていた。

その10年の間に、色々と変わったことは山のようにあったと思うけれど、
なんとなく普段の大倉さんの感じで会場に入ってきて雑談を始めた、と、ある瞬間にすっと踊りに入っていった。

あ〜大倉さんっぽい!って、本人だからそうなんだけど、踊りに入っていく瞬間、それに続く動き、空間、が、そのまま時空を超えてやって来たようだった。

最後のパートにかかっていたピアノの曲の音量がなんかずっと大きすぎて、集中できないなぁ、と、思っていたのだけれど、ある瞬間から存在が音量を超えて迫ってきて(多分音量は変えてない)、もしかして、音量との不調和感はこれを狙っていたのだろうか?と思ったのだった。
「突出する」というのは、物理的に前に出てきたからということもあるが、エネルギーのようなものが集中し速度を早めそして逆に一つの塊となって存在する時、時間は止まり永遠となる。
ワタシのなかで、あの瞬間は一瞬ではあるが微細であり極致であり永遠になった。

そして、見てる間中おもっていたのは、何しろ「美しい」と、いうことである。

これはきっと10年前にも思っていたんだと思うんだけど、今回はっきり認識した。

舞踏という踊りのジャンルは、動きとかスタイル?とかが逸脱してるので、一般的にはあまり見られないとは思うんだけど、踊る人というのは、どんなジャンルでも人を引きつける踊り手というのは「美しい」。

今、自分の撮った写真をまとめているのもあって、自分がなぜ踊る人を撮るのか、とても単純な理由だったことに気づいたけれど自分の基準が「美しい」だったことに、なんだか驚いている。
でも今それに気づいたと言うことは、自分の中でアレコレと複雑にする必要はなくなったのだろうな。

灯りが消え
世界が闇に包まれる時
空気が何かを孕んでふくらんでいく。

踊り手は
その闇に包まれながら
そっとひかりを放つのだ。
この世界に。

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