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棲みつく

何回目の引っ越しになるのか忘れたのだが、引っ越し準備の真っ最中である。なぜ引っ越すの?と散々聞かれているけれど、理由は大概居心地が悪いからである。しかし、10数回引っ越ししてみると気づくんである。なぜ、引っ越したくなる場所を選ぶのか、と。

引っ越し物件なんて30分くらいしか見ない訳で、それで決めるから隣や上の人がどうだとか、本当の居心地はどうなのかなんてわからない。

それでも、毎回引っ越したくなる物件に出会ってしまうのは「どこへ住んでも動きたくなるから」で、究極の理由は「移動したいから」なのかもしれないと思った。

それなら旅行でいいじゃないか、と思うのだけれど、住処を移動したいという気持ちは何なのだろう?より良い場所を求めているのか、悪い状況からとにかく動きたいのかと考えると、より良いよりも悪い状況から逃れたいって思っている方が強い気がしてきたな。。。。

あと、なんか途中で諦めることが多いんである。そう完全に自分の好みにあった場所などないのだ、と思う。いや、みんないうじゃないか、そんな完璧なところはないよって。なんかね、その諦めみたいなのにいつも絡め取られているのかもな。妥協という産物。なんか妥協ってネガティヴだ。妥協ではない考え方ってあるんかな。いや、あるはずだ。。。。

でもやっぱり、自分が引っ越しを無意識に選ぶ方向へ持ってきているような気がしてる。これに気づいたら、どうする?

そだな、簡単に引っ越していける環境にするね。罪悪感もなく。金銭的にも問題なく。それが当然になる環境にするな。

しかし、ね。

今家買っちゃった訳で、そういう生活を手放そうとしてるのかもしれない。でも、これある意味、自分の今までの生活から変化を起こすという感触があり、それはそれで面白い。さっきやっていた動画のごとく、今までと違った環境に自分を置いてみるとか、違う設定で生きてみるとか、面白いんじゃなかろうか。

今までのイメージが壊れたっていいし。てかなにか確固としたイメージなんかねぇだろ、って。あー、なんか自分だけがなんか守ろうと頑張っていたのか。。。。。。。なんだったんだろね。守ろうとしてたものって。

結局「幻想」自分だと思ってずっと握っていただけだったのでは?と、思ってしまった。引っ越しするたびに変えようとしていたものは何だったんだろう?

それな。

何だろうかね。何が変わったのかな?何が変わってなかったのかな?なんだ?東京にいた時は引っ越しで何か変わるってなかったけど、藤野や淡路島に移動した時は、周りの環境までぐるっと変わった。これはあの説で言えば、価値観を変えたかったのかもしれんな、生き方とか。何よりも周りの人が変わったよね。ていうことは新しい価値観で生きることで、何が見えてきたか(自分の中の)ってことか。それを受け入れたのかな?どうだっけ?それにしても、うまくいってなかったな。。。いやその前もうまくいってたんだっけ?色々苦しいことたくさんあった気もするけどな。今思い返すとそれは経験でしかないんだな。あんまり詳しく覚えてない。てかそんなに重要でもない。

人との出会いがあって、そこで過ごした時間があって、何だろね、いいか悪いかなんてなくって、なんかとても充実していた。盛りだくさんだった。pけっとしている暇ないくらいのジェットコースターぶりであった。

何かを成してきたかとか、そんなことよりも、ただただ生きてた、っていうのがなんかすごくよかった。そういう人生ってなんかいいなぁ、と今振り返ると思うんである。

何にも成し遂げてない自分に結構罪悪感とか劣等感とかあったんだなぁ。有名とか認められたいとか。多種多様な思いがあって。なんかそれに準じたことをしてない自分は、ダメな自分て思ってた。

何したら認められたんだろうとか、認められるって何だ?とか謎だよねぇ。褒められたかったのかな?父親に?そうなのかもねぇ。子供の頃の思いは強い。社会の権威に褒められたかったのかもしれぬ。

でも、なんか、何だろ、これまで生きてきた経験全部が、なんかすごいなぁって思ってる。大きな出来事小さな出来事、忘れてるもの覚えてるもの、形が変わってしまったようなもの、瞬間瞬間に感じた色んなこと。大抵はもう覚えてないことだけど、死ぬほど辛いって感じてたこともあったはずなんだけど、なんか淡々としてるな。今は。

なんか、死ぬ前の人みたいな感想しか出てこないwww

なんというのか、出会って起こったことで、自分はできていて、実態というものはないのかもしれん。。。その起こったこと、の思い出ももう曖昧で、そしてら自分と繋ぎ止めている自分という意思?って何だろうか?と思ったりする。ん?何が自分を自分としているのか?

おもろいな。他者から観ると私という存在は、どんな存在なんだろうな。きっと色んな色で出来ている。自分だけが勝手に自分をどこかに縛り付けてる。こういう存在だって思い込んでいる。

一瞬一瞬、存在が立ち現れては消える。捉まえよう、と、定着させよう、と、世界は、自分はするけれど、それはいつだってそこにはもういないんであるよ。私という実態もあなたという実態も。でも確かめるのであれば、鏡ではなく他者を観るのがいい。他者は私を見つけ出してくれるから。だからあなたが必要なのだ。

そうなんだな。。。今まであまり他者の存在を意識していなかったけれど、いつでも自分の周りには、ありがたいことに誰かがいて、そして自分を存在させてくれていた。

そんな風に他者に対して思ったことなくって。ずっと自分一人で在るもんだと思ってた。自分の存在だけが世界に在るような感覚。。自分中心だったな。なんか宇宙を地球中心で見てるか太陽中心で見てるか、それくらい違うことな気がしてきた。

他人の存在についてこんな風に感じたことなかった気がする。パートナーのことを受け入れられるようになったのも、きっとそういうことなのかもしれぬ。鏡のように在る人が存在する世界を意識する。他者を鏡としてみる世界かな。他者という存在の重要性というのか、自分ではないものによって定義される自分というものに対する興味とか。

なんか他人にものすごく興味がなかったんだな。。。多分。でも気にはしてたけど。うーん。どういう存在だったか、な。いや、今はどんな存在?なんかとても不思議な存在。特にFBとかで出会うとこう、存在が出たり入ったりする感じがとても面白い。全く関わってなかった人が急に世界に関わってきたりするから、この人は存在していたんだなっていう認識になる。それまではその人の存在は消滅しているわけで。何の拍子に、粒子が呼び合うのか存在が飛び出てくる。すごい不思議。

そうやって、粒子が出会う世界をもうちょっと意識して生きていこう。自分の世界の中に立ち現れる他者というものを意識してみたい。

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