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穏健に変であることと、ゆたかさについて


ちょっと変な家族の、ちょっと変な、愛おしい平凡の描かれた物語が好きだ。瀬尾まいこさんの「幸福な食卓」とか、西加奈子さんの「円卓」とか。

変であることに憧れる人と、変であることを恐れる人がいる。私たちはしばしば、普通と変との間で揺れ動き、自問自答をする。普通の中に埋もれていたいか否か。何者かになりたいか否か。評価されたいか否か。イエス、オア、ノー。

私は私の人生しか生きたことがないけれど、きっと誰でも、人生のどこかで、イエスもノーも経験するのではないか、と思う。例えば思春期。例えば就活時。例えば自分と向き合い、自分が嫌になったとき。

だけど、そのとき嫌になった自分から、実際に路線変更をする人は、どのくらいいるのだろう。嫌になった自分を、嫌だなあと思いながら抱えて生きていく人も、意外と多いんじゃないかと思う。

変であることを愛せることは、1つのゆたかさだ。それが自分であっても、他人であっても。同時に、ゆたかな心は愛される。

その昔、友達から「変だ」「変わっている」と言われまくったことがある。友達をカテゴライズしていくことが楽しくなってきた小学校中学年、どうやら私は多くの友達から、カテゴリー「変」に放り込まれたようだ。自尊感情が健常に育っていた私は、それを嫌だとは思わなかったが、その言葉の意味するところが分からずに、家に帰って両親に聞いてみた。「変ってなあに?」

関西人の父、まひこは、ジェスチャーをつけて、コテコテの関東弁で、こう言った。

「なあ、普通って、なんだい?」

小学校中学年の私は思った。答えになっていない。そして思った。父は、変だ。おそらく面倒くさい方の、変だ。変であることを誇りに思っている方の、変だ。そして私も、なるべくしてなった、変なのだ。そしておそらくこの家の思考に、「普通」は存在しない。

他人の評価の前において、変であることは過激で、普通であることは穏健だ。変でありながら、穏健に生きることは難しい。他人の前で変を貫くということは、時に攻撃性を伴う。変である自分を、守ろうとすればするほど。

小学校中学年にして「変」にカテゴライズされた私はというと、10代も半ばを過ぎる頃には、変を貫くことをやめた。自分は普通であるというスタンスで、自分にとっての普通を発信し、友人にとっての普通を受信した。自分にとっての普通を、変だと言われることもあった(特に家族の話)。そんなときは、必殺「変返し」を繰り出した。私の普通があなたの変なら、あなたの普通は私の変であること。その発見は不思議なことに、”私“と”あなた“の間に、より深い絆を生んだ。
(どうやら私の周りには、変であることをポジティブに受け止める人種が多いらしい。類が友を呼んでいる。紛れもなく。)

私たちはしばしば、普通と変との間で揺れ動き、自問自答をする。でもきっと、誰にでも変な部分はある。先人たちが、ことわざや、詩に残しているように。変であることは、普通だ。

結局のところ、大事なのは、自分の中にある、人と違う部分、変な部分を見つけたとき、それを愛せるかどうかだと思う。愛すべき変な自分を見つけるほど、自分と向き合うことだと思う。あくまで、ポジティブに。

そして、その変な自分が感じたことは、たぶん大事にした方がいい。みんなはこう思っている。だけど私はこう思った。それでいい。みんなが普通で、私は変なのかな。そうかもしれないね。でも、それでいい。どうしてみんなはそう思ったのだろう。どうして私は、こう思ったのだろう。そこ。そこが大事。ですよね。

変である自分に気付き、人の変な部分に興味を持つ。人の変な部分に気付き、変である自分に興味を持つ。変である自分を感じることは、人それぞれの違いを感じること。変である自分を受け入れ、愛することは、人それぞれの違いを受け入れ、愛すること。変だけど、穏健。心のポケットが、たくさんの愛すべき個性と、そこへ向けた愛にあふれて、実にゆたかである。小さな違いを愛すべき個性としてたくさん発見できる人生。楽しくて、幸せで、実にゆたかである。

#ゆたかさって何だろう

私にとって、普通で、当たり前のことを、だらだらと書き連ねてしまった。後悔はしていない。書いて初めて発見したこともある。私の心をゆたかにしてくれたnoteに感謝。この記事が、誰かの心をゆたかにしてくれていればいいな。私は穏健な変なので、強要はしないけれど。

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