アール・ブリュットについて考えるために①:都築響一「夜露死苦現代詩」

 この本はすぐれたアウトサイダー・アート/アール・ブリュット論として読むことができる。狭義においての「障害者芸術」というような括りではなく、もっと広くそのジャンルの定義を「正規の美術教育から外れている」というあたりに据えてである。
 もちろんのことアウトサイダーアートは美術においては傍流であるにすぎない。それはまずもってそのジャンルの定義において正統性からの逸脱を本質的に謳っているからなのだが、それ以上にそれら作品のテクスチャーの次元においてもいわゆる美術作品からしてみれば異質な要素を多分に湛えているからである。つまり稚拙であり、洗練を知らないからである。
 いうまでもなく美術とは作品そのもののことを指す言葉ではない。美術とは作品そのものではなく、それが作品になる過程そして社会的、商業的システムも含めてそう呼ばれるのである。現代の資本主義下において美がどのように文脈化され、差異化されるか、そのような思考の渦の中に作品を投じることも含めてが美術作品を作品たらしめることなのである。そうしたプロセスをいったん引き受け対象化することができなければアーティストになることはできない。自己表現への情熱だけではやっていけない。洗練を知らなければならない。
 アウトサイダーアートの作者はまずもってそのようなことができない。厳しく言えば能力の欠如である。その欠如は障害と呼ばれることもあれば貧困と呼ばれることもある。もしくは「美術のシステム」とのつながりを持てない資源の欠如でもあるかもしれない。しかしそのような者たちが生産する作品の中にも圧倒的な強度を備えたものが存在する。それらは作品化への意志ももっていないし、洗練するということなどとははなから無縁であったりする。であるから、そのような作品(作品以前、といってもよい)を拾い上げることはキュレーターのしごとの範疇外ではある。たとえば障害者の作品であれば、それらを作品化することが福祉関係者の手によることが多くなってしまう。それでは福祉と美術のミックスであるにすぎず、美術として自律しているとは決して「認められない」のである。
 このようなことをいうのはもちろん時代おくれであるが、しかし美術というシステム自体がそのようなものなのであるししかもそのシステムは権力をもっている。だから「これこそが魂に響く真の芸術だ」と主張したところで、空回りするのがオチなのである。その作品の強度はたしかに僕たちの感覚を撹乱するが、「美術」(のシステム)にとってはどうでもいいことなのである。これらが美術として認められるためには、美術がその権威を放棄するのを待たなければならないが、そんなことはすぐに実現するものではない。
 だから福祉のことばでもなく、キュレーターのことばでもない、編集者としてのことばがこれらを語るのである。これがとりあえず一番嘘くさくなく、作品として僕たちの心を撹乱すると同時に、美術のシステムを撹乱させることができるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?