映画「幸福は日々の中に。」レビュー

東京で(知的障がい)福祉に関わっていたりすると、入所施設という存在自体が疑問視されるものであったりして、地域移行や自立支援や一般企業への就職といったキーワードを耳にしない日はなくて、そしてそうしたことがノーマライゼーションの御旗のもと推進されるのが当たり前の状況になってきてはいる。だから、正直なところこの映画に出てくる施設はともすれば時代おくれで昭和の福祉のかろうじての生き残りのようにみえるかもしれない。しかしながら、施設長さんが映画の中で話しているように、社会の中に障がいのあるひとを送り出すことが、殊に都市部では残酷なまでにストレスフルになりかねないことが一面ではあって、だったら安心して暮らせるシェルタード・コミュニティで何が悪いの、という旨の言葉が妙な説得力をもって響いてくるのはなぜだろう。原住民/開発という対立軸の喩えが引かれていたように、はたして開発が原住民の幸福に直結するか、いや、当たり前だけれどしないでしょうという素直な結論が素直に語られる。
 これにはもちろん賛否両論あるだろう。それよりも、入所施設というものが良くないもの、と常識のように語られてはいるが、21世紀にもなれば、ではいったい入所施設のなにをもってそれを良くないとしてきたのか、それならば良くないことはない入所施設をつくりあげることだってできるだろう、と、この映画はその実践をもってちょっとした現行の(都市部の)福祉への疑問を投げかけているようにみえる。それは、ノーマライゼーションののなかにある「ノーマル」がなにやら絶対的に正しいとされる価値観に疑義を呈することでもあって、かといって「アブノーマル」たることをめざすのではなくて、障がいのあるなしにかかわらずそのひとの特異性とでもいうべきものに着目する視線であるだろう。「みんなちがってみんないい」という聞こえのいいようでそれを言ったらちょっとそこで思考が止まりそうなキーワードの先にあるような地点をこの映画は目指している気がした。

 フリー・インプロヴィゼーションのようでもありアフロ・スピリチュアル・ジャズのようでもある施設のバンドの奇妙にもまとまりのあるグルーヴのなかにその答えがあるような感覚にとらわれるところがこの映画の肝であるように思う。あたかも<原住民>であるかのようなペイントを顔に施し演奏しステージに立つ彼らがいて、バックコーラスは日本語ではもちろんなくたぶん何語でもない意味不明なシャウトに近い歌をうたう。あんたらどこぞの部族だということになるんだけど、このどこぞの部族が厚生労働省のお役人さんを躍らせたらちょっとは世界はマシになる、かもしれない。

(追記)このレビューは2016年夏に起きたやまゆり園事件以前に書かれました。入所施設にまつわる問題はあの事件によって、さらに熟考を迫られることとなりました。しかしながらここでの実践は、この映画とともに、「あの事件」に対してのピースなカウンターパンチになるように思えます。それでも入所施設を守り、その可能性を考えていくことには、まだまだ大きな意義があるように思えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?