アール・ブリュットについて考えるために②:ガスケ「セザンヌ」

 流麗な文体に魅了されるセザンヌの評伝。近代人であり、芸術家であるということは、このような人のことを言い、このような語られ方をする人のことを指す。それこそドストエフスキーの小説の登場人物のように煩悶し、苦悩し、怒ったり大喜びしたりする。感情はつねに安定することはなく、「ほとんど病的」な側面がピックアップされる。まさに芸術家とはそのようにあらねばならないのだが、しかしそれが「完全に」病気になってしまってはいけない。病スレスレのボーダーラインを表示することこそが「芸術家」という概念の依って立つべき使命なのだ。だから、障害者の芸術、所謂アウトサイダーアートやアール・ブリュットと呼ばれているジャンルは、その作者が完璧に病気である/障害者であると画定されることが多いがゆえに、真正なる芸術とは見なされないのである。近代的な意味において芸術家は、感情、というか激情、それを作品というシステムのなかに統一させることができなくてはならない。激情が即作品であってはならない。作品が激情を表示したり、そういったものが「まず」読み取られるのであってはならない。つまりは激情を統制する「人格」とでもいうべきものを、少なくとも確保しておかなくてはならない。そうでなくては一流ではない。人格の呪縛、これが芸術である、ということを分らせてくれる、極限までにロマンチックな肉声の記録。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?