なりたい自分になる方法【楽観と成果】
なりたい自分になる簡単な方法を紹介しようと思う。
「そんな近道はない」「努力あるのみ」
そんな批判が思い浮かんだ人は、何になりたいんですか?
私はクズになりたいのかもしれないじゃないですか?
ステレオタイプというのは、あなたのこと?
なりたい自分になるためには、幸福感と目標設定が鍵になります。
私と同じく「なりたい自分になれずに悩める人」へ、実践し実際に効果があったので試してほしいという提案を少しさせていただきます。
▽参考記事
ビジネスという川の流れについて
やりたいこと(事業)に迷ったあなたへ
■簡単じゃないなりたい自分
なりたい自分になるというのは、言葉以上に大変という印象があると思う。
大変な努力をしているのに、結果がついてこない。
努力に対して見返りが少ないと感じる。
それはあなたが大変な目標を掲げたのだから、当然そうなる。
なりたい自分になろうと、夢に向かって走り続けて、ある時、我に返る。
「何も成し遂げていない」「どうして…」
目標を見失い、精神的に追い詰められて、脂汗を額に浮かべる自分を俯瞰で見てしまって、またまたもっともっと自分を嫌いになるだろうか?
そんなになるまで頑張っているのにね。
私は努力したあなたはすごいと思う。
目標は「なりたい自分になる」ことだったかもしれないが、ここで確認したいのは、目的はなんなの?ということだ。
目標ではなく、目的だ。
■結果が全ての「結果」とは?
目標を掲げて、結果を求める。
世の中、結果が全てだ。
大抵、努力は報われない。
思ったように結果が出ないことがあるからだ。
例えば、子供の頃からオリンピックに出るのが夢で、血のにじむような努力をしても、オリンピックには出られない人の方が多い。
スポーツの競技人口から参加者人数を見ても、それは明らかだ。
オリンピック選手にとって、結果が全てだとすれば、「結果」とはなんだろう。
結果とは、金メダルのことなのだろうか?
いや、まてまて。
金メダルを取れなかったら、ダメなんだろうか?
金メダルが取れなかった自分を責める必要があるのだろうか?
特定の選手に対して、金メダルが取れなかったことを責める完全な部外者ももいるが、そこに至る選手の努力を考えたら、選手を責める人ってどんだけ偉いんだ。
この金メダルが取れなかったオリンピック選手が、仮に自分だとしよう。
それ相応の努力をしてきて、結果が出なかった。
なりたい自分になれなかった。
自分を責める、他人からも責められる。
ガッカリグッタリもういやー
負のエネルギー。
ただ、このループに入ってしまうなら、なりたい自分の想定が間違っていると思う。
金メダルを取る自分を想像して、努力するのはいいことだと思う。
良い目標だ。
「今後の目標をお聞かせください」なんて、インタビューのフレーズがあるが、ここで聞くのは目標だ。
インタビュアーは「今後の目的をお聞かせください」とは聞かない。
では、金メダルを取る目的はなんなのだろうか?
オリンピック選手でなくても、何かの金メダルを取れる人はどれだけいるのだろうか。
■矢と的
目的は最終的なゴールを指す。
KGI(Key Goal Indicator)。
矢と的があったら「的」。
それに対し目標は、目的達成のための手段だ。
KPI(Key Performance Indicators)が目標への達成状況を測るものだとすれば、目標はあくまで中間目標。
■目標は「矢」
目標という矢が、最終的な目的という的に刺さるまで、何本用意するか、どんな矢を作るのか、どんな撃ち方をしようか、自由に選択できる。
目標に対する取り組み方は人それぞれなのだ。
目標とは、目的を達成する結果までの中途段階であり、その内容に多様性を含んでいる。
こう考えると、ひとつの目標に向かって努力するということは、ひとつの目的に向かって一本道を進もうとすることだとわかってくる。
しかし、「目標は金メダル」と表現することはあるが、「目的は金メダル」とは耳にしない。
金メダルを獲って人生終了、その場で木っ端微塵に爆発する選手はまだ見ていないことからも、金メダルが目標なのは事実だ。
■あなたの目的は?
あなたは、なりたい自分になる方法を探している。
既に挫折を経験しているのかもしれない。
気持ちに焦りがある。
あなたはいつの間にか、目的が金メダルになってしまっていて、結果に挫折し、なりたい自分になれなかったと悲観しているのではないか?
しかし、そんなことで自分の存在を否定し、人生を悲観するのはおかしなことだ。
金メダルが獲れなかったとして、誰かに負けたことは悔しいだろうが、目標のひとつが望まぬ形になっただけでもある。
そんなことは世界中に溢れていて、誰しもが経験しているから、それだけでは特別な経験とはいえない。
オリンピックで惜しくも銀メダルだった。
実はオリンピックではよくあることだ。
ぱっと見ても、6,138個の銀メダルがあることからもわかる。
もう少しで金メダルだったが、銀メダルに終わって悔しい思いをした選手がたくさんいるという数字だ。
近代オリンピックでの国・地域別メダル総獲得数一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オリンピックには出場するだけでも大変で、出場選手がメダルを手にすることは大変な努力が必要だ。
オリンピック選手は尊敬される存在だろう。公に。
ところが、あなたが仕事をしていて、急にオリンピック選手が職場に来たら、あなたと同じように仕事ができるのだろうか?
あなたは、オリンピック選手と比べて知名度がないのかもしれないが、オリンピック選手並の努力をしていないのか?というとそうではない。
誰しもが自分なりの努力をしているし、それを他人が否定するのはおかしいと、私は考えている。
その観点で考えると、あなたがオリンピック選手でも、オリンピック選手でなくても、努力の度合いは変わらない。
他者が、自分ができないことに打ち込み頑張る姿は感動を呼ぶが、あなたも同様に頑張っているわけだから、その点で差はない。
あなたの人生は、ドラマティックな人生ではないかもしれないが、誰も真似できない人生だ。
あなただけの特別な体験が詰まった長い人生の中で、目標が達成できずに自分の全てを否定するような落ち込み方をするなら、なりたい自分の想定がおかしい。
目的が見えていないからおかしくなる。
金メダルを取るというのは、人生の大きな目標ではあるが、人生の目的ではない。
人生というのは、金メダルを獲ったら終わりではない。
■金メダルを獲る本当の目的
金メダルを獲るという目標の後に控える、本当の目的はなんだろう。
有名コーチとして一生が約束されるのだろうか?
スターになってタレントさんになっちゃう感じ?
一生その競技に携わっていきたいのが目的で、金メダルを目指して学ぶのかもしれないし、単純に体を動かすのが目的で、その延長線上に現れた目標が金メダルなのかもしれない。
現役選手に「金メダル獲ったら何するんですか?」
というインタビューをしてみたいものだ。
競技を引退した選手に、金メダルを獲ってどうだったか?も聞いてみたい。
金メダルを獲れなかった選手に、人生が終わってしまったのか、今の人生の目標と目的はなんなのか聞いてみたい。
※やってみようかな
金メダルが取れなくても、誰よりも努力したことは、自分がよく知っているではないか。
結果を悲観しすぎても仕方ないし、人生の目的を金メダルだけにするのもおかしい。
目標と目的を履き違えたまま努力し、大きな挫折に出会いもう立ち上がれないというのは、それこそ悲観すべき状況だ。
この金メダルというのは、目的に到達するための通過点であるから、目指して獲れなかったとしても、人生全体を悲観する必要はない。
金メダルを求めた目的を思い出し、別の金メダルを獲りに行けばいいだけの話だ。
金メダル獲得に命をかける心意気はいいのだが、結果として金メダルを獲れなかったら、あなたの存在意義はゼロなのかというとそうではない。
金メダルが取れなかった自分を否定するのは、自分だ。
他人から何を言われても、自分のことは自分がよく知っている。
自分の評価は他人が決めるものとも思うが、その評価を受け入れるか受け入れないかを決めるのも自分だ。
あなたにとっての金メダルはなんだろうか?
それよりも、金メダルが欲しいのはどうしてだろう。
大した努力をしてない、そんな努力ができないと悩む人も、今はそれで充分だ。
やらなければいけない時は勝手に向こうからやってくるし、明確な目的ができるまでは時間がかかることもある。
金メダルは、結果ではなく中間目標だ。
目的はもっと先にあるはずだ。
悲観している暇はない。
人生はあっという間に終わる。
長い人生と先ほど表現したが、この長さは努力の度合いと同様に人それぞれだ。
あと1分後には、あなたの人生は終わっているかもしれない。
悲観する暇はない。
▽悲観とは?
探偵!ナイトスクープという番組を見てほしい。
「天国の彼女とLINE」という放送回がある。
悲しいというのはこういうことだ。
しかし、天国の彼女は婚姻届けにサインしなかったことに悲観しただろうか?
できなかったことは悲しいことだが、しなかったことに後悔はないはずだ。
彼も彼女のその優しさをわかっているからこそ、LINEを続けているのだろうと思う。
あらゆる努力や才能を持ってしても対処のしようがない悲しみにも、確かに光はある。
■楽観主義と悲観主義
大きな人生という流れの中では、今の一瞬を悔やむより、楽観的に過ごす方が幸福感が上がり、精神的な充実とともに成果も得られるという研究がある。
アメリカ心理学会の会長も務めたマーチン・セリグマン教授は、ものごとを楽観的にとらえるか悲観的にとらえるかによって仕事成績にも差が出ることを明らかにしました。
なんという役立つ研究。
さすが会長!よっ!会長!いいよ!
(本人にこれを見られたらディスっているとぶん殴られそうだが)
さっきのオリンピック選手で例えると、
結果が出なかった
練習が悪い
自分が悪い
自分の悪い所はなかなか改善できない
悪い所が改善できないことで、コーチにも周りの期待してくれる人にも迷惑がかかる。
悪い所が直せない私は悪い子だ。
などと、説明スタイルで考え込んでしまうことが悲観主義傾向としてある。
これが結果をもっともっと悪い方向へ向かわせる。
しかし、これはよく知っている誰かに似てるな?
・・・私だ。
■悲しみや苦しみは人生の中で何%の割合を占めるのだろう
改めて悲観主義を考えてみる。
説明スタイルで悪い方向へ考えを伸ばすのは、個性の裏返しでもある。
慎重に物事を考えていることの現れなのだ。
ただ、人生という限られた時間の中で、いつまでも悲しみ、いつまでも苦しみ、いつまでも自分を否定しているなら、本当になりたい自分にはなれないのではないだろうか?
なりたい自分になれないのは、自分のせいだ。
自分が邪魔している。
私は若い頃からいろいろな経験をしてきた。
人生経験豊富というは、自他ともに認めるところだが、やたら知人が多くて、様々な人生を見てきた。
そこで思ったのは、人生は思ったようにうまくいかないし、うまくいかない性質のものではないかということ。
だって、お金持ちでも簡単に死んでしまうし、お金がなくても楽しく生活している人もいるんだから。
努力の塊で、難関資格に挑戦し挫折ばかりしている人もいる。
努力を全くしなくて、仕事を淡々とこなし趣味に没頭する人もいる。
楽しく生活している人にも悩みがあり、苦しみがある。
これは絶対だ。
その悩みや悲しみ、苦しみをどう捉えているか、この差が人それぞれにあるのも絶対だ。
皆、悲しいことはある。
皆、運が悪いと思うこともある。
それでも、楽観的に物事を捉えることは、悪いことではないのだ。
今より少しだけポジティブになってみよう。
■人生の折返しでポジティブに
私は40歳になった時に思ったことがある。
「もう40歳なのか、もう半分も人生がないのか」
ただ、42歳になって今思うのは、
「まだ時間があるな」
ということだ。
この2年の間に、自分の事業を形にしたいという気持ちが芽生えたこともあるが、なにより楽観的になりはじめたのだ。
単純に考え込みすぎて考えるのが嫌になった反動もあるが、SNSでの芸能人への誹謗中傷を見たことが、悲観的な考えを改めるきっかけになった。
実は今まで私は、赤の他人を誹謗中傷する人って、本人はすごい立派な人間だろうと思っていたのだ。
ところが、誹謗中傷された人が訴えを起こしていくと、相手はただのストレス発散中の一般人中の一般人であるケースがほとんど。
笑ったのは、しっかり家庭があったりして、子供の写真が載っているSNSアカウントで的はずれな誹謗中傷をするというありさま。
あら?あらら??
そもそも他人を誹謗中傷できる時点で、相当自分に自信があるんだなと、私は思っていたわけだ。
自信の裏打ちがないと、あんなに一生懸命に誹謗中傷できないと思いませんか?
でも、誹謗中傷を生業にする人に、いうほど自信の裏打ちがなかったことがわかって、「この人達はなんてポジティブなんだ」と思ったという寸法。
誹謗中傷みたいな行為で元気丸出しな人がいるのに、私はだいぶマシな表現者かもしれないが元気がないというのは、なかなかおかしい。
これは納得できないところがある。
■誹謗中傷加害者の楽観を見習う
誹謗中傷で楽観的に日々を過ごす人がいる中で、自分が悲観的なのはおかしい!
「いやいや、加害者はストレス発散で悩みだらけで悲観的な人だろ」
誹謗中傷する人が楽観的な証拠はあるんですよ。
訴えられると、
自分は訴えられるような悪いことはしていない。
誹謗中傷ではなく、これは意見だ!
とかいうでしょ。
相手側から見たら、というより第三者的に見ても明らかに意見ではないのに、楽観的に自分の発言を捉えている証拠でしょう。
■芸能人を真似ることの否定
誹謗中傷の仲間みたいなもので、特定の芸能人に憧れてファッションやライフスタイルを真似る人を見て、「似合わない」「やめろ」「失敗」などという人を最近SNSで見かけた。
▽芸能人に憧れて真似をする人を否定する作業を一生懸命する
芸能人は真似できない特別な存在だという感覚からだろうか?
お前ごときが真似すんじゃねーということだろうか?
私、「なんでも真似るところから入る人」って、正解への近道を歩んでいると思うんです。
真似という行為は、自己肯定感が低いための変身願望かもしれない。
整形手術への関心も、自己肯定感の低さからの側面があるように思う。
しかし、誰かが一生懸命自分を変えようとしているのに、それを頭から否定するのはいかがなものか。
たまたまそういう批判というか非難というかをしている人のSNSアカウントをいくつか見ていたら、そこにSNS集客についての書き込みがあった。
フォロワーが多い人のTweetを真似することを推奨したり、フォロワーの多い人にリプライしていて、「〇〇さんみたいになれるように頑張ります!」みたいなことが書いてあった。
自分がこの行動を否定されたら、どんな気持ちになるんだろうか?
やってること誰かと同じやん。
自分で自分を否定している。
この時点で、他人をなんでもかんでも否定する人というのはよろしくない人のようだとわかってくる。
そうなると、自分で自分を否定するのは、もっとよろしくない。
ポケモンが好きという人に「そんなの子供っぽい」と言い切る人が、ディズニー好きなのはどういう了見だ。
わかりやすい二項対立だ。
■二項対立
論理学用語の一つ。二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことを言う。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。
白と黒、運動と静止、明と暗のように、相対立する一対の概念を二項対立という。
二項対立は、言語学者のソシュールや人類学者のレヴィストロースなどの構造主義の学者に由来する分類概念である。
以下リンク先より引用
ライティングの基礎でもある、二項対立の図式。
相反するものを題材に、意見をまとめていく手法がある。
ポケモンとディズニー、ポジティブとネガティブ、否定する人がいるから、肯定する人がいて、ひとつの概念を表せる。
ネガティブという1つの項しかなければ、ポジティブは存在できない。
ポケモンとディズニーなんかはいい例で、ゲーム好きかアニメ好きか、ファンタジー好きかの大きな枠組みの中で、どこか同じ性質の人どうしが争っているだけだ。
二項対立は、お互いがお互いを成り立たせるので、ポジティブとネガティブも対立しているようでいて、常に共に存在する概念だ。
仲良しだから、いつもどっちかが表に出てきてもおかしくない。
ただ、ネガティブが出てきた時に、ポジティブに思い直すのもできるのが人間だ。
私の考えとしては、悲観主義が全くダメだということではなく、悲観した時に楽観主義に切り替えていくというのはどうだろうという提案なのである。
それは悲観しなければ、楽観に気づけないからだ。
■二項対立からの脱構築
対立するより、仲良くしたほうがいい。
ネガティブな感情に、優しくポジティブに接するのはどうだろう。
ネガティブを否定するのではなく、上手に付き合うためにポジティブに接する。
これを持って、ポジティブとネガティブの対立構造を破壊し、新しい構造を生み出すための脱構築の足がかりとしたい。
■ポジティブに捉える
自分の悲観主義が「なりたい自分」を邪魔してしまっていないだろうか?
少し自分を認めてやったら、心が軽くならないだろうか?
ダメな自分も認めてやる、自己肯定感が大事ではないだろうか?
人生の中でネガティブに考えてしまう瞬間はいくらでもある。
noteやSNSで人気者になりたい!と思っていても、なかなか結果が出ないこともある。
誰かを見て、自分には真似できないとか、なんでこんな人が人気があるんだろう?とか、疑問や悩みを持つかもしれない。
なぜ、私は成功者側ではないのかとネガティブになるかもしれない。
でもね。
人間ってウジャウジャいて、「そういう人」もいるし「そうでない人」もいるわけから、今の自分をよく見て、まず認めてあげることが大事だと思う。
ポジティブにね。
あなたにも、いつか結果がついてくるかもしれない。
努力してもしなくても。
今、あなたから見てキラキラしている人も、必ず挫折はあるわけだ。
ポジティブな人もネガティブになる。いつか、いつでも。
ポジティブな人もネガティブになるわけで、ネガティブな人もポジティブになっていい。
どちらかを完全に否定すると、どちらも成り立たない。
対立するものとうまく付き合えば、ネガティブを意識してポジティブを見つけることができるわけです。
ポジティブすぎる人っているでしょう。
そんなポジティブな人がある瞬間ネガティブになった時、異様に弱い。
自動車で片輪走行が安定しないのは当然だ。
ネガティブとの付き合い方を知ったあなたは、ポジティブとの付き合いも考えることができる。
そうして幸福感が得られる。
■自己肯定感が高まりはじめる
ここまで見てくると、世の中、そんなに立派な人間だらけでもないようだ。
ニュースを見ていると、元気よく他人に迷惑をかける人は後を絶たない。
そこで私は「考えるだけは考えているし、それなりにアウトプットもしているんだからこんなもんだろ。そもそも自分はそんな立派な人間じゃねーんだもん。まだあれこれやっているだけマシかもね。」と思ったら光が見えてきた。
この40年くらいだいぶ退屈だったが、この退屈の中で、まだ40年くらい生きるかもしれないと思うと、だいぶ楽観的だ。
アホほど時間あるやん。
でも、時間は大切に使おう。
うまくいかないことがあっても「当たり前」
それでも「なんとかなるもんだよな」と思ったら、胸の奥にあった大きな球みたいなものが外れて、呼吸が身体に染みるような感覚があった。
それまでは、もっと努力しなければとか、結果を出さないととか思っていた。
努力してても結果が出ないなんてよくあることだから、悲観的に考えても仕方ない。
今は、自分なりに前向きに取り組もうと、楽観的に思っている。
もちろん常に不安はあるのだが、なんとかなるだろうと、無理をしすぎないようにしている。
悪く言うと、当時より圧倒的にサボっている。
しかし、はっきりいって、今の方が結果が出ている。
目に見えて形になってきているからだ。
※オウンドメディア作成をしているのです
一時期より、日々に幸福感を明らかに感じている。
これは、毎日目標ができて活動ができていること自体に感謝している感覚が強い。
そして、目的を決める段階にきた。
■目的設定
最後に、改めて目的の設定だ。
私は大人物にならなくていい。
高い目標を掲げて、大きな目的を成すような立派な人間ではないことは、自分でよくわかっている。
これは悲観的に考えているのではなくて、楽観的に考えている結果だ。
金メダルはタダでもらえるならもらうが、特にはいらない。
よくよく考え直してみると、私の目的はささやかなものだ。
自分が何者であるか、不特定多数の人に認識してもらえるようになれればいい。
結果として、自分が何屋なのかが決まればいい。
自分自身を振り返るsと、器用貧乏で中途半端にやれることが多く、ITのなんでも屋とも呼ばれているが、限られた残りの人生で「やらないことを決めていく」選択と集中をしたいと思う。
それが「お酒のメディアの記事を100記事作る」という目標になった。
「お酒のメディアをやっている人」から、いずれメディアを作れる人になれればいいと思う。
これすら目標で、目的はあくまで「選択と集中」。
人生の最後に何屋だったか、それがわかればいい。
■なりたい自分になる簡単な方法
まとめよう。
私はネガティブな感情を認識し、ポジティブを見つけてることで、選択と集中を繰り返すことにした。
自分は何者であったかと、人生の最後に言えるかどうか知りたい。
そのちょっとしたささやかな実験をして、人生を閉じたいと思う。
そのためになりたい自分になるために決めたことがこれ。
他人と比べて、できない自分を否定しない
目的と目標を履き違えて、思い込みで自分を追い詰めない
ネガティブな感情を否定しないことで、隠れたポジティブを見つけてあげる
楽観的に問題を捉える
自己肯定をすることで、幸福感を積極的に得る
実際はもっと端的な言葉で表現すると、自分の独りよがりの思い込みでなりたい自分の邪魔をしないということだ。
どうだろうか?
いつもお読みいただき、ありがとうございます。 書くだけでなく読みたいので、コメント欄で記事名入れてもらうと見に行きます。