美術館に行く理由/せっかくなら楽しく思考しようとするための試行
余計なことを考えない時間を無理やりにでも作るために美術館に行っている。
美術関連のバックボーンを持っているわけでも、高尚な趣味を持ちたいわけでも、文化人のフリをしたいわけでも、その手の趣味を持つパートナーがいるわけでもない。
それでも月に一回くらいの頻度で美術館に行っている。
別に博物館でも良いんだけど、純粋に施設母数の問題で美術館に行く事が多い。
自分は……というか多くの人類がそうかもしれないけれど、何をしていても何もしていなくても、「何も考えない」ということができない。
常に何かしら考えている。
その思考の多くは鬱屈としていたり、腹立たしかったり、不安だったりする。
これはとても不快で苦痛なのだけれど、それを癖として身に着けてしまったのでどうしようもない。改善する努力もそれはそれとして試みているけれど、その瞬間にストレス源なのは事実だ。
なので、せめて思考の内容をもうちょっとマシなものにする瞬間を作るために美術館へ赴くようにしている。
美術館では基本的に展示作品と向き合うことしかできず、それをマイルドに強要される。当たり前だ。
場の空気的にも、周囲のお客さんの雰囲気的にも、他のことをする余地はない。なるべく無言で、展示品について思いを巡らせるか、そのフリをすることが正しい振る舞いとなる。
ある程度の強度で強要されないと、思考はいつもの不快な方向へ進みかねない。またはもっとお手軽で思考を占有しきれない強度のコンテンツに逃げてしまう。かといって強く圧力をかけられるのも別のストレスになる。
美術館というやつはこの辺りの塩梅がちょうどいい。
入場料を払うところもいい。「せっかくお金を払っているのだから」と、自分に対して鑑賞行為を強要できる。入場料を無駄金にしないよう、なにか受け取って帰らねばという気持ちになれる。
期間限定の特別展があちらこちらで開催されてるのも重要だ。「今行かなければ見れないぞ」と外出を自分に強要できる。怠惰を振り切る理由になる。
いつでも見られると思っていると、どうしても怠けゴコロに負けて行かず仕舞いとなることが増えてしまう。
そして展示作品に対してある程度の信頼を持つことができる。
「美術館に飾られるくらいだから、作者がこんな大層なものをわざわざ拵えるくらいだから、きっとそこには何かあるはずだ」と信じられる。
知識などなくとも、何をやりたかった作品なのかを想像しようとすることはできる。思考を巡らせるに値する“何か”だと信じ込んだ上で眺めることができる。
考えることが無駄ではないと信じられる対象というのは意外と限られるので、そのあたりも適している。
つまらなかったらつまらなかったで、なんかそれもまぁ経験かな、と思いやすいのも大事かもしれない。
映画や観劇と違って自分のペースで鑑賞できるので、合わなかったらとっとと歩き過ぎてしまえばいい。入場料がちょっともったいないくらいだが、失敗もそれはそれで経験として捉えやすい。あと流石にそこそこ入場料を取る美術館はそんなに外れないし。
その気楽さというか、失敗に対するカバーのしやすさも良いところ。
理由としてはこんなところだろうか。
本当はそろそろもっと積極的に知識的な部分を身に着けた方が楽しめたり、見どころが増えたり、考えられる範囲が広がったりするんだと思う。
一応、美術鑑賞指南的な本をちょっと読んだり、展示品の解説を読んだ蓄積で溜まってきたりした物はある。けれど今のところはほとんど深掘りできていない。
それでもとりあえず、展示には足を運んでいる。知識や背景がないから行かないと思っているうちに機会は損失されるから。
あと美術館では多くの場合立ちっぱなしになるので、適度に疲労できる。これはその晩の睡眠の質を確保するためにも重要。寝る前というのは特にしんどい思考に陥りがちになるので、入眠効率を上げる要素も大切だと思う。
まぁなんやかんや言いつつ、色々見ているうちに好きな方向性とかは見えてきたりもしていて、そういう楽しみ方もしているんですけども。
それでもやっぱり、余計な思考を封殺するために美術館に行っているところは大きい。
以上。
なんかあんまりな内容なので最後に雨上がりの空の写真でも置いておきます。
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