もし明日死ぬなら最期に何したい?
もし明日死ぬなら最期に何したい?
なんかそんな感じのタイトルの本を見て、その瞬間に思ったことが、サッパリ不明なのに覚悟しすぎておかしい。理由をずっと考えていて、それが結構楽しかった。
わたし明日が最期なら、今から石を舐めに行きたい。
どうする?こう思ったのが、もしあなたなら。
当然ながら、うそだあ?とすぐ打ち消してみた。でも、打ち消せる理性があるならまあいいかという楽観的な自分が、瞬殺で理性を相殺してしまった。
もし明日死ぬなら、ともう一度考えてみる。
それが学校に子どもがいる間に、夫が家にいない間に、もしわたしが明日死ぬことを
今のこの午後1時に知ったら、と考えて出した答えが「石を舐めたい」というのは、ちょっと自分でもすぐに納得できない。
本当に石、食べたい?飛行機に乗って異国のお菓子を食べるとか、有り金全部使い果たして遊ぶ、とかじゃなく?
じつは飛行機は怖くて乗りたくないし、遅延して空の上で死んでしまうのは嫌だし、有名なお菓子を食べるために並ぶのも嫌だ。有り金全部使うって言っても、知れてる。それに養育費は1円でも多く遺したい。制限のある中、消去法で最期の過ごし方を選ばなきゃならないなんて、そんな世知辛すぎる死に際だけは、絶対嫌だ。
石を舐めたい気持ちは、消去法ではなく、一択のようだ。何度も打ち消してもぬぐえない。もうたぶん本当にそうなんだろうと、半分以上は疑いながらまた確かめる。うん、石が舐めたい。なぜだろうね。
(ちなみにお昼は冷麺を食べた)
わからないとは言いつつも、まあわかってはいる。
最期に満足することを選んでいいなら、そこにどうしても誰もいない。
もしかして、これは哀しい事なの?
それもよくわからない。
石を舐めたくて仕方ない気持ちしかない。一択なんだ。いま、石を舐めたいことが悪いことにも悲しいことにも思えない。
もちろん、果たして子持ちの一母親の考えとしてどうなのとか、夫を忘れているのとか、疑問だらけだ。
育った家、一緒に生きた人、出会った人、すべて振り切って、最期にしたいことはそれなの?もう少し考え直そう。それで本屋をぐるぐるしたけど、あの本の問いを見るたび、「石が舐めたい」と思っていた。
本屋を出て魚を買いに食品売り場へ向かう間も、嘘だよな。自己憐憫なのか?なにかが過剰すぎない?とまだ思っている。
明日なんだよ。死ぬの。そうだ。でも今日がまだ少し残ってるなあと思うと「だったら今から石が舐めたい」とまた思った。(今夜は煮魚です)
だって明日死ぬんだ。
明日以降に有効なものを全て失うんだ。
人間関係も、心配事も、お金も、家族も、心も。
無敵だ。
堪らない心残りはこの世界にあるけど、明日以降もう手は届かない。誰の涙も拭えず、誰の話も聞けなくなる。親だとか、子だとか、友達だとか、妻だとか、今のわたしに紐付くタグを全部消して、残った想いが「石が舐めたい」に帰着する。由々しき事態だ。
(あと冷蔵庫のトマトを使い切らなくてはいけない)
じゅると唾液が出てきた。
特に生田緑地の、140万年前の地層の石が舐めたい!
生まれたときから持っているこの体には沢山の感覚器が装填されていて、中でも鼻と舌は鋭敏だ。この舌にびっしりと生えた味蕾が、その明日死ぬという極限状態の中で、土を石をどう感じるのかすごく知りたい。好奇心で水銀に指を突っ込んだ14歳の自分が、突然顕著になってしまった。
明日死ぬなら今からはこの好奇心だけで生きたい。
真剣に。
今すぐSuicaにチャージして電車に飛び乗り、交錯する人だかりの駅で若い子たちが学校へ遊びへ向かう姿は、無数の子ども時代を思い出すのだろうな。
半袖のシャツをまくって取引先へ向かう人に夫を重ね、この日々があなたの明日も続きますよう託して、石なんか舐めに行くなんてと半分思いながら、ワクワクに勝てなくて振り切るんだろう。
今、教室で風に吹かれているうちの子。赤ちゃんの頃から変わらない顔の、汗で濡れた前髪を分けるのが好きだったと思い浮かべて泣きながら、わたしは電車に乗り石を舐めに行こうという。本当かいな。
本当にそれが最期のお願いでいいのか。
でも明日死ぬなら、石を舐めたい。と思っている。
(高野豆腐も残っていた…)
この体がわたしの上限で、この体で知れることの最大値が、何なのかわからないまま死ぬのが、嫌だ。
石の味はどこにも書いてない。誰も教えてくれない。誰かの経験談じゃわからない。石の味への好奇心を放置してきた自分を無視できない。人生最期の楽しみを味わいに生田緑地へ行って石を食べに行きたい。
生きられる怠慢に任せて知ろうとしなかったんだ。
明日死ぬなら、まだ誰も知らないことが知りたい。
どれほど満たされるだろうな。
泣くなあ、と思ってから、ああもう一つコレもあると思った。
石を舐めながら石を舐める自分を号泣するのいいな。
その楽しみもある。石を舐めてから、違うものが良かったって思うかもしれない。ようやく本当にしたいことを思い付いたら、もう間に合わないって思うのかな。いやまだいけるって思うのかな。
この人生の最期に石を舐めたいと思った自分のことを死ぬほど泣いていても、子どもの帰宅時間に間に合うよう、わたし、家に帰るのかな。
この舌でこの体で知るべきことは他にもあるはずだよね。むしろ舌でなくていいし、他にあるはずなのになあ。もっと考えよう。わざわざあそこまで行って石舐めてからやっぱ違った!となる前に、何か思いつかないかな…。冷静に考えなくてもそりゃ普通に、石はないなと思うのだけど。
やっぱり石が舐めたい。
(ところで来月の簿記は受かるのか?)
明日死なないなら、別にいいし行かない。
でも明日死ぬなら今日は今からそれをしに行く。
生田緑地には140万年前の地層が露出しまくっている。生物の死骸も糞も太古の塩も混ざった土の、中に埋もれた石がいい。
わたしが生まれる前から脈々と継続し変態した命と時間の塊を、この舌で思う存分味わって噛んで腹に入れるんだ。明日の腹痛も気にせず、この体の限界値を物理的に超えてみたいって真剣に思ってる。感覚器がどこまで鋭敏になれるだろう。どこまで土に入り込めるだろう。ただの石と土だ。そんなのわかってる。
地面に這いつくばって、口で直接土を食み満足するまで石を舐めて、どろどろに汚れた口の中に張り付いた土をゆっくり舐めとろう。舌が馬鹿になって味蕾が潰れても、もういいんだ。明日以降のわたしは石と土と同じになる。亡骸はこの地球に質量保存の法則で残され、心が消える。なにも無かったように。この数十年なにも、起きてはいなかったかのように。
けれどそんなの妄想だ。だって石を舐めたい自分がここにいる。さらにそれを泣こうという。死ぬ前に。
石を口の中で転がしながら何食わぬ顔で電車に乗る。もうわたしが使うことはないけど、まだ生きていく誰かのために残される新宿駅の、たくさんの生きている人の中を潜って、帰宅する。孤独になりに行くわけじゃない。
今半分が先に死んだなって思いながら、帰ってくる家族を迎えるんだ。
石を舐めたい自分の残りを、明日死ぬ分にしたい。
夫と子どもの2人に全部残した分が、明日死ぬ自分だったなら、今はこれ以上の幸せが思いつかない。
(試験範囲の勉強がまだ終わってないYO)
恵まれてるのかな。どうだろう。最期に石が舐めたいような自分なら、あなただったら幸せだろうか。わたしはわからない。
大多数の人と同じように、石を舐めたいなんてわたしだって信じ切れない。でも舐めたい。好奇心と確信が勝ってしまう。
あの本は本当にそんなタイトルだったかな?
違うと思う。
それに絶対、人生最期に石を舐めようとか、そんなことは書いてない。だけどあのタイトルだけで、とても楽しい時間を過ごしてしまった。すごい本だ。
(勉強するのはもう夜にする。今日の昼間はいい日になった)
死ぬ気になると、1番満たされることを求めるんだな。
自分が、最期に石を舐めたいといったら、あなたは石を舐めに行きますか?
名前のない時のわたしは石を舐めにいきたい。それは、死ぬ気になると内向性が極まり、自分の内面だけに焦点がいくからだ。
極度に自分へ潜って「最期に石舐めたい」と言っても、本当馬鹿だねって夫と子どもは笑うだろう。
安心できて帰れる場所があれば、誰かの役に立たなくても生きていたい。踏み外すところに足が付かないのは、当然だと思う。
もちろん、最期には石だ、と思っていることは自分でも驚くけど。
(今の時点で、全然受かる気がしないー)