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難民になってしまった、ひと。

「植物になりたいと、真剣に悩んだ時期があるんだよ。」


そう話すのは、40代後半の、髪に混じる少しの白毛を染める事もしない男性でした。
コットン地の白シャツの上に、グレーの質の良いニット、茶色のダウンベストを着ています。
ダボっとしたワークパンツの足元はスニーカーで、どれもビンテージものです。着崩した様子がとても似合いますが、上品さを感じさせます。生まれは東京では、ないのかもしれません。

出勤中に行き先を変えて、有休を使って1人ふらっとここにやって来たのでしょうか。
平日の山のコテージカフェには、都会を逃れた訳アリ難民が、紛れていることがあります。

彼は目線は合わせずに、横を向いたまま話し出しました。仕事、休んだんですね、もしや。


「まあいい。ここに来たのも、洗いざらい話すためだ。俺は植物になりたい。いまもだ。

嫁も子どももな、俺がそう思ってるなんて知らないだろうな。別にあいつらを否定するわけじゃない。そんなこと話す必要もないがな。ああもういい。

そんなことより、俺は植物と話ができる。

あいつらは言語を使う。おそらく言語になる前の思考が、何らかの形で俺には言語として音に変換されるんじゃないかって思うんだ。

なあ、あんた聞いてくれるんだろ。


はっきり聞こえたのは中学生のときだ。部屋に入った瞬間に、机の上のアスパラガスが言ったんだよ。乾いたって。それから、猫が臭いって。

最初は誰かいるか、テレビかと思ったけどな、よく考えたら、音じゃねえんだよ。この音源のスピーカーがはっきり俺に向いてるのはわかったよ。

テレビの音じゃないこともすぐわかった。アスパラガスが、俺を見てたからだ。植物にも正面と背中があるんだよ。あいつらは、、全身が顔みたいなもんだ。

鉢の土が乾いてたから、俺はすぐに水を差した。アスパラガスが満足したのがわかったんだ。
でもよ、よく考えなくてもおかしいだろ。俺はあの声は気のせいだったんじゃないかと思い込んださ。

それからしばらくして、帰ってきたらアスパラガスが床に落ちて葉が変色してたよ。飼い猫が粗相したんだ。

それで俺はわかったんだ。猫が臭いんじゃない、猫から何をされるかコイツは分かってたんだってことが。

、、、

俺は衝撃を受けた。わかるか?植物に話しかけられたことじゃねえよ。あいつが俺に、何も求めなかったことにだ。

それで、思ったんだ。

求めない声ってのは、ああいう声だって。


俺はさ、そんな声聞いたことなかったよ。
でもそれからも何度も植物の声が聞こえるんだ。

大したこと喋らねえんだ。夏は「暑い」とか、朝は「綺麗」とかそんな感じだよ。

そんなことどうでもいい。それからも何度も俺は植物の声を聞いてきた。勘違いしないでくれ。こんなことは初めて言う。俺にだって、自分が何を言ってるかくらい分別はつく。そんなことは当然の話だろ。

社会に出て、いくつかの会社に勤めた。俺だってこんなこと言ってるけどな、帰れば部下もいるし、家庭もあるし、それなりに社会に認められてはいる。

でもわかってるんだ。それは俺が、このことを、黙ってきたからだ。

もうどれだけの人間に会っただろうな…
でも誰1人も、あの植物の声で話すやつはいなかった。…なんでなんだろうな。俺の声もそうなんだ。

あいつらの声を聞いてみたら、って、俺は。

……………。

……まあそんなこと思うなんて、だいたい疲れてる時だ。人間の声ってのは、強いよ。子どもが産まれたときは、なんか諦めというか、ああそうなのかと思った。赤ん坊1人で、山1つ分の木の声を搔き消せるくらいな、人間の声は元々、強い。強すぎるんだよ、仕方ないんだ…

仕方ないんだそれは。健全ってことだ。本気でそう思ってるさ。
隠せてなんかいねえんだ。出て、普通だ。しょうがねえよ。生まれは変えられないってやつだよ。


俺は、、、こんな山の中なんて、もう、ずっと来てねえよ。こんなのは気休めだってわかってんだ。別に、捨てたいものは、ないよ、俺には。

……………。

なあ
俺がなにを考えてるか、あんた、わかるか?」


目があったのは、最後の一度きりでした。

わたしは、わかるかもしれないしわかっていないかもしれない。と思いました。答えを求められてない問いに、返事は要らないだろうとコーヒーを飲み続けました。

店を出る前に振り返ると、その人はまだ外を見ていました。いつか誰かの元に帰れる人なのでしょう。でも、ここに、この人が、気軽に何度も来れるようになれたらいいなと思いながら、わたしは山のカフェを後にしました。

あの人のために、わたしに時間を止めることができたら、きっとそうしたと思います。本当にしたかったことを、思う存分、してほしいです。もうどこにも帰れなくなって、そしてまた、こちらに帰れる時刻に、辿り着くまで。
ずっと、ずっと、時を止めていたと、そう伝えたいと思って、伝えずに帰りました。

ああ、、、まだ、あそこにいるのだそうです。