何もかも見えているつもりが実は見えていないものだらけだった話
子どもの頃のこと。
お盆や正月に親戚が集まったとき、大人は皆そろって食後のコーヒーを飲んでいた。
なぜ大人達はこの苦い飲み物が好きなんだ?と全く理解できなかった。
今やわたしは、あの頃理解できないと思った大人そのものになっている。
コーヒーの味も、香りも、コーヒーを飲む時間も大好きになった。自分や誰かのためにコーヒーを淹れ、飲む時間が与えてくれる豊かさを知った。
当然コーヒーというものは知っていたし、コーヒーの定義が変わったわけでもない。
私の中での位置付けが変わったのだ。
我ながらよくできた伏線回収だな、と笑ってしまう。
人生は『スキ』を見つける旅路のようなもの。
ひたすら前へと進んで新しいものを追うのも悪くないが、これまで通ってきた道にも『スキ』のヒントがそこらじゅうに散らばっているのかもしれない。
私にとってのコーヒーみたいに。
過去それに触れた際に『スキじゃない』とジャッジしたものも何年後かには『スキ』になる可能性があるということを学んだ。
一度『スキじゃない』認定をすると不思議なもので視界に入っても意識が向かない。だからときどき自分の中のフィルターを外して世界を見ようと思う。
そういえば妊娠したときも似たような経験をした。
それまで気にも留めなかったのに、妊娠した途端世の中にはこんなにたくさん妊婦さんがいたの?と驚いた。あと子連れの家族も。
存在していなかったのではない。見えていなかったのだ。意識するかしないかで見える世界は全く違うものになる。
"人は見たいものしか見ない"
裏を返せばまだ『見えていない』ものがたくさんあるということ。心の持ちよう次第で楽しいことはいくらでも新たに発見できそうだな、と希望を持てる気づきだった。
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