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10月6日「触れたい 確かめたい」

ASIAN KUNG-FU GENERATIONが好きだ。

中学生の頃にBEST HIT AKGのCDを買ってからずっと。当時使っていたピンク色のウォークマンに落として、何度も何度も繰り返し聴いていた。そのときから今でも「好きなアーティストは?」と聞かれると、迷いなく「アジカン」と答えてしまう。

環境、好み、自分の考え方が変わる度に、聴く音楽はどんどん変わっていった。だけどアジカンだけは、ずっと好きだった。新しい曲が出る度に、彼らの変わらない部分と変わっていく部分の両方を感じて、それをすごく大切に思った。

本日リリースされたニューシングル、「ダイアローグ / 触れたい 確かめたい」。なんとこちら大好きな、羊文学の塩塚モエカさんがボーカルで参加。8月からずっとずっと楽しみにしていた。

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とは言いつつ、正直今日がリリース日だということを忘れていた。大学の授業が終わり、癖のようにひらいたツイッターで情報を確認し、すぐさまApple Musicでダウンロードしながら、家までの帰り道を急いだ。

そのとき私は、先日たまたま読んだブレイディみかこさんの「会うよろこび」というエッセイを思い出していた。オンラインと、オフラインの繋がりについてのはなしで、とても興味深いことが書かれていた。

人間は、視覚と聴覚を使って他者と会議すると脳で「つながった」と錯覚するらしいが、それだけでは信頼関係までは担保できないという。なぜなら人は五感のすべてを使って他者を信頼するようになる生き物だからだ。そのとき、鍵になるのが、嗅覚や味覚、触覚といった、本来「共有できない感覚」だという。他者の匂い、一緒に食べる食事の味、触れる肌の感覚。こうしたものが他者との関係を築く上で重要なのだそうだ。つまり、人間はまだ身体的なつながりのほうを信じているとも言える。
どんなにテクノロジーが発達しても、いまだに人を幸福にするのは、「会う」よろこびなのである。

自粛期間中、よくオンライン飲み会をしていた。人と繋がっている感覚を求めていたのかもしれない。久しぶりに顔を見るような友人もいたし、初めて話すような人もいた。普通に楽しかったし、そのときはそれで満足していた。

けれども緊急事態宣言が解除されたあと、少なくとも自分の周りでは、この文化はめっきり無くなってしまった。それってやっぱり、オンラインでの繋がりが本質的ではないことを、薄々感じていたからだと思う。「共有できない感覚を共有すること」に、その数ヶ月間ずっと飢えていた。

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そんなことを考えているうちに、家についた。手を洗って、一息ついて、そして再生ボタンを押した。

最初に感じたのは安心だった。今日もまた懐かしくそして新しく、彼らの音楽を享受することができるという嬉しさ。これまで何度も私を救いあげてきたアンサンブルと、彼の声と言葉への信頼。

塩塚さんが歌い始めた時、なんだかジワジワと泣きそうになった。きっとどれだけ現状に満足していても、心のどこかでずっと拭えない不安がある。気がついていないだけで、ずっとひとりで戦っていたり我慢していることがある。そういうものに不意に触れてしまったとき、初めて知る自分の感情に戸惑ったり逆に納得したりして、なんだか赤ん坊のように泣いてしまったりする。

曲のなかで繰り返される、「触れたい 確かめたい」という言葉がとても心地良かった。直接的でポエミーで、そんなこと普段は軽々しく言えない。願いというよりは欲に近くて、だけどとても繊細で正直。

何でもない振りを装うけれど、本当の気持ちに気がついて欲しくて、何度も囁くようなフレーズ。そしてどんどん抑えきれなくなって、自然と声が大きくなってしまう。もしかしたら、会いたいのに会えなくなってしまった人への曲かもしれない、とも思った。本音と建前、期待と諦めを行ったり来たりしているように感じた。

酔っ払って
ときどきは胸がギュってなるけど
君だって切実な日々を生きているでしょう

その言葉が歌われた時、私はジワジワどころかもうボロボロと泣いていて、ああこの歌がまた、これから私を何度も救うだろうなと思った。家に帰る前に学校のカフェで買った、チョコレートショートブレッドを泣きながらかじり、ぬるくなったテイクアウトのラテをごくごくと飲みながら、「食べるとは生きること」と誰かが言ったことを思い出していた。

私も、あなたも、もう会えなくなってしまったその人も、そうやって切実な日々を生きている。懐かしくなって、会いたくなる。一緒にいることを五感で感じたくなる。それがきっと「会うよろこび」。存在は触れて初めて、確かめることができるから。

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一貫して切ないのに、聴いていてホッとする。泣けてしまうのにポジティブで、私はアジカンのそういう、矛盾が両立するような音楽が好きだ。

聴き終えて調べてみると、この曲は昨年のヨーロッパツアーの際に、ロンドンで収録されたものだと知った。コロナは全然関係なかった。それでも今の私がこの曲を聴いて思ってしまうのは、前述したような「本質的な人との繋がり」とか「共有できない感覚を共有すること」についてだった。

この曲がどんなメッセージを持って書かれたものかを、正確に予想することはできない。ゴッチのブログ更新を待つしかない。だってなんならラジオも聞き逃したし、Rockin'on11月号も買いそびれたし、日本にいないからCDも買えないし。(現物で買って初めて意味をなす曲のはずなのに...)

私は音楽的なことはわからないから、こうやって主観でしか話せない。そしてもしかしたら、私の感じたことは全然的外れなのかもしれない。だけどなんとなくでも、受け取ったよと言ってもいいかな。きっと感じ方は自由だぜ、思うように楽しめよ、といつものように彼らは言ってくれるだろうから。

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