糞害に憤慨して、得たもの。

毎朝、息子を保育園に自転車で送っていく。小学校の横の道を通る時、そこにはたまに犬の糞が落ちている。
うへえ、と思って避けて通るのだけれど、夕方息子を迎えにいくときには、誰かに踏まれ、数歩分広がっている。小学生が踏んじゃったのかな、かわいそうだなぁと、心が痛む。
学校脇の通りは、誰かの家の前と違って、よく糞が落ちている。ま、いいかと思っちゃうんだろうなぁと、思うには思う。

だが、この数ヶ月、その糞がやたら落ちている。毎朝のように落ちている。しかも、朝したばっかりのホヤホヤな感じのが、昨日はあそこ、今日はここ、という具合にその通りに点在している。どれもこれも、健康そうな中型犬を想像できる同じ雰囲気、同じサイズの糞。下痢っぽくもない、こんなの、取るの簡単だろと言いたくなる、キレイなうんこ。絶対に同一犯だ。

最初のうちは、やだなぁ、ちゃんと取ってくれるようにならないかなぁと、見えぬ飼い主に期待を寄せていた。
でも、その糞の放置は1週間、2週間、1ヶ月と続く。たまに新しい糞がされていない日が続くと、その飼い主が心を入れ替えたのだと、胸を撫で下ろすのだが、それも束の間、それはまた始まる。犬が便秘してただけかよとがっくりする。この糞の落ちている度合いは、もはや、袋忘れちゃっただの、今日は急いでいるだの、そんな言い訳すら用意していない、この通りを我が飼い犬のトイレとみなし、人の家の前じゃないし、別にいいでしょ、と手ぶらで散歩させている飼い主の計画的犯行だとしか思えない頻度だった。

それはちょうど、年越しの時期で、新年最初の登園の時は、その飼い主が新年の抱負に、今年は犬の糞の放置をやめる、と誓ってくれてないかなと期待したものの、あっさり裏切られた。
その後も、その糞の放置は続き、見つけるたびに、犯人に対する怒りがわき、踏んでしまった誰かを想像して心が痛み、毎朝通るのが憂鬱になっていった。
あまりにも憂鬱になって、その憂鬱を振り切るために、もしかしたら私が糞を気にし過ぎなのかな、昔はもっとあちこちに糞が落ちてたような気もするし、もっと寛容になった方がいいのかもな、そういえばフランスのパリなんかは道に糞がいっぱい落ちているって聞いたこともあるしな…と、もう、糞が落ちていることを肯定してみようかと試みたりもした。
でもやはり、全くの躊躇もなく放置してある、堂々たる糞を見ると、想像の中での犯人が憎たらしくて、我慢できなくなった。

なんとかせねば。
現場を押さえて、お忘れですよと、声をかけるか。でも、逆恨みされて、うちの前に放置されてはかなわない。
ネットのニュースで、糞の放置に困った自治体が、黄色いチョークで糞を囲んで丸を描いたら、放置が減ったという記事があった。でも、あそこの奥さん、犬の糞に黄色い丸描いてるのよって噂が立ったら、今後の生活に支障をきたすかも。

悩みぬいて、正攻法で、市役所に電話をかけた。環境センターに回され、担当の方が、では学校に、立て札を立てていただくようにしますとの返答だった。立て札は市からの貸与で、学校には立てる許可をもらうとのこと。

仕事は早く、翌々日には立て札が立っていた。
正直、立て札にそんなに期待はしていなかった。きっと、立て札ごときじゃ、糞の放置は
収まらず、結局黄色い丸を描く覚悟をしなければいけないのかと、気が重かった。しかし、立て札が立ったその後、糞は…、されなくなったのだ!
正確には、立て札が立った日には、糞が放置されていた、が、その日に立て札に気づいたのだろう。その日を最後に糞の放置はなくなった。

勝った、勝った!憎っくき、糞の放置犯に勝った!!バンザーイ。
それはそれは嬉しく、毎朝清々しい気持ちで自転車をこげるようになった。

それにしても、市役所に電話をかけただけで、こんなにあっさり解決(今回の犯人が、凶悪でなかったからで、凶悪な犯人ならば立て札ごときでは対処できなかったかもしれないが…)したのに、なんで誰も電話しなかったのだろう。
たくさんの人が通るのに、みんな嫌だったろうに、なんで誰も電話しなかったのかな。

誰かがなんとかしてくれないかなと、私も期待したけれど、結局自分が動いて初めて、なんとかなった。世の中って結構そんなものなのかも。様々な困り事や問題があって、それが全然解決されなくて、誰にもなんともできないのかもと諦めていることも、実は自分が少し動いてみたら、あっさり解決してしまうことが、結構いっぱいあるのかもしれない。
糞害に憤慨した私は、大きな達成感と、小さな気づきを手にすることができた。

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